第四十四話 不審
翌朝、暗い夜空がやっと青色を帯びはじめ、まだ日も昇らぬような時刻。忙しなく鳴く鶏もまだ夢の中、町一番の早起きのパン屋がようやく生地の仕込みを始めるような頃、アハマスの領主館の外門の前には数騎の騎馬隊が帰還していた。夜通し馬を走らせたせいか、皆、深緑色の軍服は埃で白っぽく汚れ、馬の脚には道中で飛び散った泥が付いている。
寝ぼけ眼を擦りながら対応した外門の門番は、その騎馬隊の一人の顔を見るや否や、慌てて頭を垂れた。大きな門がギギギっと音を立てながらゆっくりと開く。
騎馬隊は再び馬で駆け出す。そして、内門を通過し、馬を繋ぐため厩舎へとまっすぐに向かった。
その後、一行は領主館の玄関から入ると次々と左側の執務棟へと向かい歩き始めた。その一団の中でも一際体格のよい男──セシリオは玄関ホールで立ち止まると、少し迷うように一度右側の居住棟へ続く暗い廊下を見つめた。まだ夜明け前の屋敷の廊下は明かりも消され、真っ暗だ。サリーシャに会いたいが、きっとまだあの愛らしい寝顔で眠っていることだろう。
セシリオは小さく頭を振ると、先に執務室で成すべきことをするべきだと思い直す。踵を返すと結局はほかの部下達同様に左側の執務棟へと消えていった。
そしてその三十分後、一行はまだ朝露の残る街道へと、再び馬に跨がって走り去っていった。
***
今朝はおかしな夢を見た。
ベッドサイドに立ったセシリオが寝ているサリーシャに優しくキスをして、指で髪をすく。そして、耳元で『すぐに戻る。愛してるよ』と囁いて去ってゆく夢だ。内容自体はさほどおかしくないのだが、妙にリアリティーがあった。
──わたくし、きっとセシリオ様が不足しているのだわ。
朝起きたサリーシャは、ほんのり赤くなった頬を冷ますように手で扇いだ。たった一晩セシリオに会えなかっただけなのに、あのような自らの願望を具現化した、リアリティーたっぷりの夢を見るなんて。
触れ合った唇の柔らかな感触がまだ残っている気がして、無意識に自分の唇を指で触れる。こんなことで、これから先やっていけるのだろうかと急激に気恥ずかしさがこみ上げてきた。
そんな中、朝食のときにモーリスが懐から取り出した封書に、サリーシャは目が釘付けになった。その封書は今朝、セシリオとともにピース・ポイントへ向かった騎士の一人が伝達役としてアハマス領主館に持ち帰ってきたものだという。
サリーシャの部屋はアハマス領主館の入り口側に面しているが、今朝騎士が戻ってきたことには全く気がつかなかった。
「内容は?」
食事の手を止めたブラウナー侯爵に促され、モーリスは開封済みの封書をそのまま手渡した。
「色々書いてありますが、ようは交渉が上手くいってないようですね。昨日の話し合いでは終わらず、何日か掛かると」
「ほう。どれどれ──」
ブラウナー侯爵は封書から便箋を取り出すと、素早く内容を確認して自慢の髭を片手で撫でた。
「帰還は早くても明日か……。今日の午前中には武器の倉庫への搬入が終わるので、お代を受け取ってわたしは王都に戻ろうかと思っていたのですが……。アハマス卿が戻るまでは延期ですな」
考え込むように呟いたブラウナー侯爵に、サリーシャは待ちきれぬ様子で身を乗り出した。
「ブラウナー侯爵。わたくしも見てみても?」
「ええ、どうぞ」
ブラウナー侯爵からテーブル越しに封書を受けとると、すぐに中身を取り出した。中には確かに、交渉が決裂していること、すぐには話がまとまりそうにないこと、帰還は遅れることが書かれていた。
──セシリオ様、遅くなるのね……
サリーシャは急激に気分が落ち込むのを感じた。たった一晩セシリオがいなかっただけなのに、とても心細かった。寂しかった。挙げ句の果てにあのリアリティーたっぷりの夢だ。これがあと何日かセシリオがいない日が続くのかと思うと、気分が憂鬱になる。
しかし、便箋を元のように折り畳んで封筒にしまい、封書を裏返したとき、サリーシャはそこにある一点を凝視したまま動きを止めた。封蝋が、僅かに黒味を帯びているように見えたのだ。
──もしかして……これ、ダミーかしら?
サリーシャは咄嗟にモーリスをみたが、モーリスは何事もないように、ブラウナー侯爵と歓談している。
サリーシャが封蝋の色の意味を教えられたとき、セシリオは三通の異なる色の封蝋を並べて見せてくれた。しかし、今はこの一通しかないので、比べようもない。
そうかもしれないし、気のせいかもしれない。これがダミーだったとすれば、いったい何を意味するのだろうか。しばらく考えてみたが結局わからず、サリーシャは封書をモーリスに返した。
朝食を終えて部屋に戻るとき、サリーシャは、ブラウナー侯爵に背後から呼び止められて足を止めた。
「サリーシャ嬢。今日は何か予定がありますかな?」
ようやく憂鬱な食事の時間を終えて部屋のドアノブに手をかけようとしたサリーシャは、ブラウナー侯爵に突然そう聞かれて戸惑った。まさか、この人が自ら自分に話しかけてくるとは思わなかった。
「今日でございますか? 特に何も予定しておりませんわ」
サリーシャは簡単にそう言うと、小首をかしげてみせた。
「なら、ちょうどよかった。昨晩、サリーシャ嬢はアハマス辺境伯夫人にふさわしい女性になれるよう指導して欲しいと言ってましたな。さっそく、わたしのかかわる武器などのいくつか必要な知識を授けて差し上げようかと思いましてね。いろいろと準備があるので、一時間後はどうです?」
「……」
サリーシャは無言でブラウナー侯爵を見返した。昨晩あのやり取りをしたあとにこの態度。正直言って、ブラウナー侯爵の意図がわからず気味が悪いと思った。しかし、目の前のブラウナー侯爵はにこにことしており、ここで無下に断るのは失礼に当たることはサリーシャにもわかる。
「ありがとうございます。あの……お付きのものも一緒でも?」
「もちろん構いませんよ」
サリーシャはそれを聞いてホッとした。ノーラに同席して貰おう。回りに人がいれば、ブラウナー侯爵もおかしな真似はしないだろう。それに、セシリオから『ブラウナー侯爵と二人きりになるな』と言われたことも守れる。
「では、よろしくお願いします」
サリーシャがペコリとお辞儀すると、ブラウナー侯爵はにんまりと笑って「では、のちほど」と言って去って行く。
──ずいぶん親切だけど、いったい、どんな心境変化があったのかしら?
その後ろ姿を見つめながら、サリーシャは首をかしげる。でも、いい傾向に変化したならよかったのかとすぐに思い直した。
部屋へ戻ると、ちょうどノーラがベッドシーツを整えているところだった。サリーシャが戻ってきたのに気付いたノーラは「あ、サリーシャ様」と声を上げる。
「お手紙を落としてますわ」
「手紙?」
「はい。枕元のあたり、ベッドの下に落ちてましたわ」
ノーラは白い封筒を差し出す。手紙を受け取った記憶はないのだが、宛先には確かにサリーシャの名前が書かれていた。差出人はセシリオだ。
「え? セシリオ様から?」
急いで書いたのか、文字は崩れて乱れている。
サリーシャははやる気持ちを抑えながら、サイドボードからペーパーナイフを取り出し、それの封を切った。
中を見たサリーシャはハッとして封蝋を確認した。目を凝らしたが、それはバラのような鮮やかな赤にみえる。
『出来るだけ早く戻る』
中の便箋には、乱れた文字でただ一言、そう走り書きされていた。




