第四十三話 狂気
サリーシャはいつの間にか目の前にいたマリアンネを、呆然と見上げた。そして、すぐにハッとして立ち上がった。
「ごきげんよう、マリアンネ様。お散歩でいらっしゃいますか?」
サリーシャはすぐに頭を垂れ、お辞儀をした。あくまでもマリアンネは侯爵令嬢であり、サリーシャは伯爵令嬢だ。セシリオと結婚しない限り、この関係は変わらない。
垂れた頭を上げると、マリアンネはいつもより険しい表情でサリーシャを見据えていた。
「あなた……、どんな技を使ったの?」
「はい?」
低い声で問われ、サリーシャは質問の意味がよく分からずに怪訝な表情で聞き返した。マリアンネはそんなサリーシャの様子に苛立ったように声を荒らげた。
「だからっ! どんな方法でセシリオ様を陥落させたのよ!? こんなの、おかしいわ。あんたなんて、傷物なのに! 以前はフィリップ殿下のお側に侍ることを許されていて、今度はセシリオ様。セシリオ様のあんな姿、小さい頃から何度もお会いしてるわたくしだって知らない! どうやって騙しているの?」
サリーシャはキッとこちらを睨み付けるマリアンネを呆然と見返した。騙すとか技とか、全く身に覚えがない。マリアンネは怒りからか、扇を持つ手が震えていた。サリーシャは目の前の人から半ば憎悪に近い感情を感じて、にわかに恐怖心を覚えた。
「申し訳ありませんが、仰る意味がわかりませんわ。わたくしは、なにもしておりません」
「嘘よ! わたくしの方が身分も上で、美しさだってけっして負けてはいないわ。結婚したときのメリットだって大きい。なのに、なんで! なんでよ!?」
そこまで一気にまくし立てたマリアンネは、サリーシャを軽蔑するように目を細めた。
「どうせ、あなたはフィリップ殿下の愛人だったのでしょう? そうでなきゃ、平民上がりが殿下にお近づきになれるわけがないわ。ねえ、セシリオ様も体をつかって取り入ったの? セシリオ様はあなたに騙されてるのよ。平民上がりの癖に、当然のように殿下の隣に陣取った厚顔無恥な女のくせに!」
「わたくしはなにもしておりませんっ! 殿下とも、そのような関係ではありません!!」
大きな声で言い返したサリーシャのことを、マリアンネは不思議なものでも見るかのような目で見つめた。しばし人形のように表情を消していたが、今度はぱぁっと表情を明るくした。そして、片手の人差し指を口元にあて、コテンと首をかしげた。
「そうなの? なら、ちょうどいいわ。あなたは誰でも虜にできるのね? それなら、セシリオ様はわたくしに譲って下さいませ」
サリーシャは驚愕で目を見開いた。なぜこんな飛躍した提案に至るのか、意味がわからない。
「なにを仰っているのです?」
「だって、考えてもみて? 今、侯爵位以上の爵位を持ち、独身でわたくしと歳の釣り合いもとれる方はセシリオ様しかいらっしゃらないの。つまり、わたくしにはセシリオ様しかいないのよ。あなたは平民上がりなのだから、男爵でも子爵でも、何でもいいでしょう?」
それを聞いた時、ぞくりと寒気がした。マリアンネはさも名案を思い付いたように、笑顔で目を輝かせている。本気でそう思っていることが、サリーシャにも分かった。
かつて自分からセシリオの婚約者の地位を放棄したというのに、どうやったらこんなにも独りよがりになれるものなのだろうか。サリーシャはマリアンネの狂気ともとれる言動に恐怖を感じ、ぶるりと体を震わせた。
「わたくし、失礼させて頂きます」
一刻も早くこの場を立ち去りたい。読んでいた本を抱きしめてマリアンネの横をすり抜けようとすると、マリアンネがニコリ笑う。
「お父様にも協力して下さるように、お願いしておくわ。だって、あなたはわたくしの幸せに邪魔なの」
歌うようにそう言ったマリアンネから逃げるように、サリーシャはその場を後にした。
***
夕食時、サリーシャは胃の痛い気分だった。日中にあんなやり取りをしながら、セシリオが不在の中マリアンネとブラウナー侯爵と夕食を共にするなど、憂鬱以外のなにものでもない。セシリオがいない間は毎回モーリスが同席してくれることになっているのが不幸中の幸いだった。
「サリーシャ嬢。あなたには分からないかもしれないが、国境警備を担うアハマスにとって、武器や防具というのはなくてはならない存在なのですよ」
一言も発せずに目の前の料理だけに集中していたサリーシャは、斜め前に座るブラウナー侯爵から突然投げかけられた言葉に、ビクンと肩を揺らした。昼間の出来事が脳裏に浮かび、ついにきたと思った。
顔を上げて正面を見ると、マリアンネは澄まし顔で淡々と食事を口に運び、ブラウナー侯爵は元々細い目をさらに細めてこちらを見つめていた。
「武器や防具がないアハマスなど、剣を取られた剣士、針と糸を取られた針子、牙と爪を失った獅子……。この意味がお分かりかな?」
サリーシャは何もわからないといった様子で、曖昧に微笑み返した。
「わたくしに、難しいことは分かりませんわ」
「随分と察しの悪いお方だ。これでは、やはりアハマス辺境伯夫人としての適性に欠けるとしかいいようがない」
ブラウナー侯爵はこれ見よがしに大きなため息をついた。
「アハマス辺境伯家にとって、ブラウナー侯爵家は剣士の剣のようなものなのですよ。切っても切れない、なくてはならない存在だ。しかし、マオーニ伯爵家は違う」
サリーシャは努めてゆったりとブラウナー侯爵を見つめ返した。
「わたくしは、セシリオ様が望まれたのでここにいます。セシリオ様がわたくしを必要として下さる限り、お側にいるつもりです」
「老婆心から申し上げますがね、どうやらアハマス卿は若さゆえの恋の熱に浮かされて、冷静な判断が出来なくなっているようだ。直接言うと機嫌を損ねるので、わたしが代わりに道を正しておこうと思います。先代から付き合いのあったアハマスが没落するのをみすみす見殺しにすることは出来ませんから」
ブラウナー侯爵は少し苛立ったように、眉間に皺を寄せる。持っていたフォークがカシャンと大きな音を立てた。
「……」
「なんなら、わたしから御父上のマオーニ伯爵には説明しておきましょう。それに、あなたの新しい嫁ぎ先は紹介しますよ。うちの領地の大手の商会の跡取り息子か、豪農の息子なんかはどうです? ああ、貴族の世界が忘れられないなら、親しくしている子爵や男爵あたりならなんとかなる。なんなら、うちの屋敷に来てもらってもいい」
「ブラウナー侯爵! さすがに失礼です」
顔をしかめたモーリスが咎めるように横から口を挟む。サリーシャは、ブラウナー侯爵の言葉を静かに聞きながら、内心では怒りに震えていた。
ようは、セシリオが婚約解消になかなか納得しないから、サリーシャに事情を察して自分から出て行けと言っているのだ。そして、『うちの屋敷に来てもいい』というのは、ブラウナー侯爵本人もしくは息子の愛人にしてやってもいい。たまには社交パーティーにも連れて行ってやる。という意味だろう。これほどまでに馬鹿にされたのは、これまでの人生で初めてだ。
「失礼? これは異なことを言う。わたしはアハマスを思ってこそ、心を鬼にして言っているのだ」
ブラウナー侯爵は太った顔を赤くして、憤慨したように声を荒げた。
もう、耳を塞いでこの場から逃げ出してしまいたい。けれど、サリーシャはぐっとお腹に力を入れてブラウナー侯爵を見返した。
セシリオはサリーシャを妻にすると言った。だから、自分は未来のアハマス辺境伯夫人なのだ。こんなところで逃げ出してはいけないと思った。
「ブラウナー侯爵。ご忠告いただき、誠に痛み入りますわ。では、ブラウナー侯爵に認めていただけるようなアハマス辺境伯夫人に相応しい女性になれるよう努力しますので、これからもよろしくご指導くださいませ」
社交界でさんざん鍛えた仮面のような笑顔を浮かべると、ブラウナー侯爵はぐっと押し黙った。そして、忌々し気に配膳されたばかりのステーキ肉にナイフを突き刺した。
白い皿の上に肉汁と血が混じり合った赤がみるみるうちに広がってゆく。サリーシャはそれを、まるで別の世界の出来事であるかのようにぼんやりと見つめていた。




