第四十二話 留守番
アハマスの領主館の正面玄関では、主の出立を見送るために多くの人間が集まっていた。たった二日の日程だが、行き先が行き先だけに、周囲には少しピリッとした緊張感が漂っている。
そんな中、サリーシャも不安げな表情を浮かべたまま、セシリオを見つめていた。
今日のセシリオは正装用の軍服の装いをしているため、いつもに増して凛々しく見える。屋敷に残る部下や使用人達に一言二言指示を出して行くセシリオが、サリーシャにはとても頼りがいがあって素敵な、大人の男性に見えた。
少し強めの風が吹き、背後では騎士の持つタイタリア王国の国旗とアハマスの紋章がはためいている。
「少しだけ留守にするが、頼んだぞ。困ったことがあれば、ドリスかクラーラ、モーリスに言うんだ」
「分かりました」
皆に伝えるべき指示を出して、最後にサリーシャの前に立ったセシリオに、サリーシャはしっかりと頷いて見せた。本当はとても不安だが、心配させてはいけない。無理に笑ったせいで、顔が少しひきつってしまう。
そのせいかセシリオにはその気持ちがしっかりと伝わってしまったようだ。安心させるように、ポンポンと大きな手が頭を撫でる。
「早ければ、明日の午後には戻る。出来るだけ、早く戻るから」
「早く戻ってきて欲しいですが、無理はなさらないで下さい。閣下になにかがあっては大変です」
無理な旅程は疲れや怪我の元になる。サリーシャは眉尻を下げた。
「俺が、きみと離れていたくないんだ」
セシリオの顔が近づくと柔らかな感触が頬に触れた。斜め後ろにいるマリアンネがハッと息を飲むのが分かった。セシリオも気づいたはずだが、構わぬ様子でサリーシャの頬に手を添え、安心させるように微笑む。
「きみの待つところに、すぐに戻る」
そして、振り返ると今度は太く大きな声で皆に聞こえるように言った。
「では、出発する」
タイタリアの国旗を掲げた騎士とデオに跨がったセシリオの後ろに、お伴の騎士達が十人ほど続く。サリーシャはその姿が見えなくなるまで、ずっと玄関に立ったまま見送った。
***
その日の昼下がり。
完成したばかりの中庭で本を読んでいたサリーシャは、ふと顔を上げた。季節を先取りしたような爽やかな陽気は外にいるだけで気分が華やぐ。見上げれば白と灰の羽が特徴的なシジュウカラが二羽、小枝で羽を休めながら寄り添っているのが見えた。その仲睦まじい様子を眺めながら、セシリオは無事に目的地に到着できただろうかと、サリーシャは遠い地に思いを馳せた。
タイタリア王国とダカール国の間には、先の終戦時に設けられた『ピース・ポイント』と呼ばれる施設がある。
ピース・ポイントはちょうど両国の国境線上に位置した視界の開けた地域にあり、両国がお互いに何か重要なやり取りをするときは、必ずそこを通すようにと取り決められている。
セシリオは今朝、そのピース・ポイントへと旅立った。表向きはブラウナー侯爵がフィリップ殿下から最初に預かってきた親書に記載された『全権を任せる』という内容に基づき、何人かの部下をひき連れて国の代表としてダカール国との交渉に向かったのだ。だが実態は、こちらに戦意がないことをアハマス領主自らが伝えに行った。
「先ほど、一騎戻ってきたでしょう? セシリオ様には何もないといいのだけど……」
サリーシャは小さな声で呟いた。
セシリオが出立してから一時間ほどしたころ、セシリオに同行したはずの騎士が一騎だけ屋敷に戻ってきた。セシリオの一行に何かあったのではとサリーシャは青ざめたが、ただ単に途中で馬が脚を痛めただけだという。それを聞いて、サリーシャはほっと胸を撫で下ろした。
どうか道中で何事もなく無事でいてくれればよいと、サリーシャは最愛の人を想った。
ピース・ポイントはアハマスの領地内にあるが、少し領主館からは距離があり、馬で五時間ほどかかる。すでに時刻は昼をだいぶ過ぎているので、休憩時間を考えてもそろそろ到着しているはずだ。
「セシリオ様はそろそろ、お着きになったかしら? 早く帰ってきて元気なお姿を見せて欲しいのに」
「そろそろお着きになる頃ですわね。でもサリーシャ様、今朝出たのですから、まだ帰るのには早いですわ」
向かいの席で本を読んでいたノーラがくすくすと笑いながら答える。
「わかってるわ。けど、そう思ったのよ」
サリーシャはなんとなく気恥ずかしくて口を尖らせた。
会談の時間などを含めると、セシリオがここに戻ってくるのは早くても明日のこの時間、遅ければ数日後になる予定だ。サリーシャがここアハマスに来てから、丸一日以上セシリオが不在になるのは、初めてのことだ。とても寂しいけれど、ノーラもクラーラもいるし、執務棟の方へ行けばモーリスもいる。それに、多くの使用人達も一緒だ。
セシリオと結婚すればサリーシャはここの女主人となる。自分もしっかりしなければと、気を引き締めた。
しばらくすると、日の傾き具合を確認したノーラがパタンと本を閉じた。
「サリーシャ様。わたくし、そろそろ仕上がった洗濯物を受け取りに行ってまいりますわ」
「あら、もうそんな時間なのね。わたくしはもう少し本を読んでいるから、気にしないで」
心配気にこちらを見つめるノーラに、サリーシャは笑いかけた。今日はとても陽気がいいし、せっかくの中庭もほぼ完成した。あとは小径沿いの足元に小花を追加して植えるのと、先日サリーシャが逃走事件を起こしたときにセシリオが踏み荒らしてしまった場所を直せば庭園の改造はおしまいだ。もう少し中庭に留まりたい気がしたのだ。
「では、わたくしは行きますが、あまり遅くまでここにいて体を冷やさないで下さいね」
「分かってるわよ」
「本当ですか? 旦那様の留守中にサリーシャ様がお風邪などひかれたら、わたくしが怒られてしまいますわ」
「大丈夫。安心して?」
不安げにこちらを見るノーラに対し、サリーシャはこてんと首を横にかしげて見せた。随分と信用がないものだと思わず苦笑してしまう。しかし、マリアンネが来たここ最近で二回も行方不明事件を起こしたサリーシャに、文句は言えない。
ノーラが立ち去ったあと、サリーシャは再び本を読み始めた。巡業の歌劇団の看板俳優と貴族令嬢の禁断の恋を描いたその小説は、とても切ない悲恋の話だ。ヒロインに感情移入して夢中になって読んでいると、木々の葉が鳴る音や小鳥の囀りにまじり、カツンと石畳を鳴らす音がした。
「ノーラ、早かったわね?」
視界の端の足元に自分とは違う影が映り、サリーシャは本の文字に視線を向けたまま声をかけた。しかし、返事がない。訝しく思ったサリーシャは、ようやく本から顔を上げた。
「マリアンネ様……」
サリーシャは自分にしか聞こえないような小さな声で呟く。そこには、いつの間にか目の前に立ち、険しい表情でこちらを見下ろすマリアンネがいた。




