第四十一話 暗号②
「そうだ。よくわかったな」
セシリオはサリーシャの頭をくしゃりと撫でる。
「王室からアハマスに送られる親書の封蝋の色には意味がある。混じり気のない赤は通常のもの、黄色味を帯びていれば重要だったり緊急のもの、そして黒味を帯びていれば、何らかの理由で作成されたダミーだ。この三通なら、これが黒、これが赤、これが黄……」
セシリオはそう説明しながら、封筒を指差す。どれも、本当に注意深く見なければ赤にしか見えないような僅かな違いだった。
サリーシャはそれの説明を聞きながら、ハッとした。いつぞやか、サリーシャがセシリオの部屋を訪ねた日に、モーリスが早馬で届いた親書のことを『黄色い』と言っていたのを思い出したのだ。
もしや、あれは封蝋の色を指していたのではないか。そして、最近ずっと胸のわだかまりになっていることにも、もしかして……と考えが至った。
「もしや、ブラウナー侯爵が殿下から預かってきた親書は……」
サリーシャの呟きに、背後のセシリオが肯定するように撫でていた手で優しく頭を寄せる。
サリーシャはずっと不思議に思っていた。セシリオは戦争にならないと言うのに、何故ブラウナー侯爵が持参したフィリップ殿下からの親書には戦争の準備を促すようなことが書かれていたのか。ブラウナー侯爵が持ってきた親書がダミーであるとすれば、色々と腑に落ちるのだ。
「でも……。なぜ、そんなことを?」
訝し気に眉をひそめるサリーシャをセシリオはきゅっと抱きしめた。耳元に口を寄せると、サリーシャにしか聞こえないような小さな声で言った。
「前にも言ったが、近々きみが傷を負ったあの事件に関して、大きな動きがあるかもしれない」
サリーシャは息をのみ、体を小さく震わせた。刃で死にそうな傷を負わされた恐怖は今も消えない。
「きみに傷を負わせた男の素性は不明とされているが、フィリップ殿下はずっと調査を続けていた。前回の親書によると、ようやく尻尾が掴めそうらしい。ホシの狙いはダカール国と険悪にさせることだ。あちらの狙い通りに動いて油断させた方が、炙り出しやすい」
「あの事件の捜査は、殿下が指揮しているのですか?」
「ああ、そうだ。きみがあんな目にあって、殿下が何もせずに黙っているわけがないだろう?」
サリーシャは白い封筒を見つめながら、もう数ヶ月も会っていない友人の顔を思い浮かべた。金の髪に青い瞳、すっきりと通った鼻梁は高すぎず低すぎす絶妙な高さ。とても凛々しい友人は、皆に優しく穏やかな性格で、物語の中の王子様をそのまま具現化したような人だった。
最後にフィリップ殿下を見上げたとき、彼はサリーシャを見下ろして泣きそうな顔をしていた。ふと思えば、こんなにもフィリップ殿下に会わないのは初めてかもしれない。
──フィルは今頃、どうしているのかしら?
サリーシャは、ずっと会っていない友人をとても懐かしく思った。
「実は、殿下にはあの事件のあと、お会いしていないのです」
「……実は、きみとの婚約を王室に報告に行ったとき、対応したのがフィリップ殿下だった」
「殿下が?」
サリーシャはそれを聞いて意外に思った。王室への報告は実に様々なものがあり、概して文官が対応する。王族自らが姿を現すことはまずないのだ。
「会ってなくて、本当によかったよ。──まぁ、きみを思ってのことだろうが、間一髪の危ないところだった」
「? 危ない?」
サリーシャは、何を言っているのだろうかと怪訝に思い、セシリオの顔を見ようとした。しかし、体を捩った途端に背中に痛みがはしる。
「痛っ!」
「大丈夫か?」
大きな手が、サリーシャの背中を労るように何度も往復する。サリーシャが後ろを振り向こうと体をねじると痛みが走ることを察したセシリオは身動ぎすると、サリーシャの顔がしっかり見える位置まで体を移動させた。
「フィリップ殿下は、きみに会いたがっていたよ。大怪我をしたきみを、その現場になった王宮に呼びつけるわけにもいかないからな。きみのことを……とても……大切な存在だと言っていた」
それだけ言うと、セシリオは口をつぐんだ。そして、ヘーゼル色の瞳でサリーシャを覗きこんだ。とても真剣な眼差しに、サリーシャは思わずベッドの上で足を整え、姿勢を正した。
「実は殿下とダカール国には何日か前に親書を出したんだが、俺は一度ダカール国と接触しに、国境へ行く。犯人の炙り出しのためとはいえ、きちんと説明もなしに国境沿いに兵器を集めれば、あちらが誤解しかねない。タイタリア王国が開戦準備をしていると誤解したダカール国が先に攻めてきて、本当に戦争になったら一大事だ。ただその間、きみをブラウナー侯爵とともにここに置いていくことになる」
サリーシャはこくんと息を飲んだ。
ここにブラウナー侯爵とマリアンネとともに残され、セシリオがいない。考えただけでも憂鬱な状況だ。しかし、サリーシャはゆくゆくはアハマス辺境伯夫人になるのだから、夫が不在時の屋敷の取り仕切りもやることになる。サリーシャは一度俯いてから決意したように顔を上げ、セシリオを見返した。
「はい、わかりました」
セシリオの顔にほっとしたような安堵の表情が浮かぶ。
「いいか、この封蝋の色の意味をよく覚えておいてくれ。俺からの手紙も、王室からの手紙も、色の意味は同じだ。だが、絶対に他人に口外しては駄目だ。俺やモーリスや、限られた一部の人間以外は誰も知らない」
何がおこっているのかはよくわからないが、とても重大なことが水面下で動きだしている。この封蝋の意味を理解していないと自分が不安になるようなことがおこりうるのだということは、サリーシャにも分かった。
そして、この封蝋の意味はアハマスにとってのトップシークレットであることは間違いない。これを教えることは、セシリオの『サリーシャを必ず妻にする』との強い意思表示であるように感じた。
「よく覚えておきます」
「よし。……あと、ブラウナー侯爵とは出来るだけ二人きりにならないでくれないか? 気になることがある」
「気になること?」
「ああ。前に一緒に晩餐を囲んだ際に──」
セシリオはそこで言葉を濁した。言うべきか言わざるべきか考えあぐねていているように、口元に手を当てた。言いにくいことなのかもしれないと、サリーシャは聞き出すのをやめ、腰に回ったセシリオの腕をどかすように手に力を入れた。その腕はするりと抵抗なく外れる。
「わかりました。ところで、閣下はわたくしに、言いたいことは全て言ってくれと仰いましたわね?」
「ああ。何かあるのか?」
「あります」
サリーシャはそう言うと、瑠璃色の瞳でまっすぐにセシリオの顔を見つめた。途端にセシリオの瞳に不安げな色が浮かぶ。きっと、また何かをよからぬ方に誤解をしているに違いない。
──ああ。やっぱり口に出して言わなければ、伝わらないのね。
サリーシャは息を大きく吸った。
「わたくし……、閣下のことがとても大切なのです。閣下が思っていらっしゃるよりも、ずっとずっと……閣下が大好きなのです。閣下の任務で必要ならば、わたくしはここで待ちます。けれど、約束して下さい。また戻ってきて、わたくしを抱きしめて下さると」
セシリオが大きく目をみはった。
「それと、閣下に触れられるのは、とても安心します。だから、夜寝る前の挨拶だけではなく、もっと触れて欲しいのです。いつだって、抱きしめて欲しいのです。あとは……キスも……」
最後はさすがに恥ずかしくなり、消え入りそうな声になってしまった。きっと顔は真っ赤になっているだろう。耳も頬も熱くなり、サリーシャはそれを隠すように両手で覆った。
「まいったな」
ため息混じりの声が頭上から降ってくる。呆れられてしまっただろうか。サリーシャは恐る恐るセシリオを見た。ちらりと指の隙間から見ただけなのに、しっかりとヘーゼル色の瞳と視線が絡み合い、サリーシャの胸はトクンと鳴る。
「こんなにも愛らしいきみを置いて国境に行くなど、まるで拷問だな。もうすぐクラーラがきみの朝の準備をしに来るのに、国境どころか朝食にすら行きたくないくらいだ」
顔を隠す両手を外され、サリーシャの顔を覗き込んだセシリオが困ったように笑う。再び腰に手が回され、しっかりと抱き寄せられた。優しく唇を重ねながら、サリーシャは込み上げる幸福の中に身を沈めた。




