第四十話 暗号
小鳥の囀りが聞こえて、サリーシャはゆっくりと意識を浮上させた。今日はいつにも増して、心地がいい。自分を包む布団の温かさに無意識に擦り寄ると、くくっと笑いをかみ殺したような声がして、サリーシャはパチッと目を覚ました。擦り寄った布団越しにヘーゼル色の瞳がこちらを見つめている。
「? えっ??」
「おはよう」
「……おはようございます?」
すっかりと明るくなった部屋で、なぜかセシリオが自分のベッドに白いガウン姿で添い寝している。機嫌がよさそうなセシリオは目を真ん丸にするサリーシャの頭をくしゃりと一撫ですると、そっと額にキスをした。柔らかな感触が肌に触れる。
「気分はどう? 体は辛くない?」
「……気分も体調もいいです」
「それはよかった。水を飲む?」
「……はい」
セシリオは柔らかく微笑むと、ベッドからすくっと立ち上がってドアの方へ向かい、部屋を出ていった。サリーシャはその様子をただ呆然と見送った。
「え? ええっ!?」
一体どういう状況なのかと頭を整理して、脳裏に甦るのは昨晩のこと。一部始終が思い出すにつれ、だんだんと頬は紅潮し、顔からは火が出そうだ。サリーシャは昨晩、自分からセシリオに触れて欲しいと誘ったのである。
がばっと布団を上げて自分の姿を見ると、初めて見る白のガウンを着ている。生まれたままの姿でないことには少し安心したが、このガウンを自分で着たのかはよく覚えていない。しかし、それはおそらく思い出さない方がいい気がして、サリーシャは考えるのをやめた。
熱くなった両頬を押さえながら、サリーシャは改めて部屋を見渡した。広さはサリーシャの普段使っている客間と同じくらいだろうか。落ち着いたベージュのカーテンには白い花や幾何学的模様の刺繍がふんだんに施されている。ベッドは客間で使用しているものの倍くらいのサイズがあり、精巧な彫刻が施された天蓋からは白いレースカーテンが下がっていた。壁際には本棚とサイドボードが置いてあるが、使っていないのか殆ど空に近い状態に見えた。そして、その隣にはクローゼットが置かれていた。
ぼんやりとしていると、さきほどと同じドアが開き、セシリオが戻ってきた。片手には水の入ったグラスを、もう片方の手には開封済みの封筒を何通か持っている。
セシリオはまっすぐにサリーシャのいるベッドの脇まで歩いてくると、まずグラスを手渡した。透明の液体がグラスの中でゆらゆらと揺れている。こくりと飲み込みむと、渇いた喉に冷たい水がスーッと染み渡った。
セシリオはじっとその様子を見守っていたが、サリーシャが飲み終えると空になったそれを受け取り、壁際のサイドボードの上にのせた。そして戻ってくると、今度は当たり前のように同じベッドの上に腰を下ろした。サリーシャの腰に逞しい腕を回すと、ぐいっと引き寄せる。後ろからすっぽりと抱え込まれるように抱き寄せられ、セシリオはサリーシャの肩に顎を乗せるように顔を寄せた。
「きみは昼間も可愛いらしいが、夜は妖艶だった。それでいて、寝ている姿は子供のように愛らしい。どれだけ俺を虜にするつもりだ?」
「なっ!」
厚い胸板に自らの背がぴったりと密着するような状態。後ろから囁くように直接耳に吹き込まれた言葉に、サリーシャは顔だけでなく首まで真っ赤になった。朝っぱらからいったい何を言い始めるのか。あわあわしていると、セシリオは真っ赤に色づいた耳にチュッとキスをする。
「さくらんぼのように赤くなるところも可愛いな」
「か、閣下!」
サリーシャがあまりの恥ずかしさから怒ったように言うと、背後のセシリオが楽し気に笑う気配がした。笑っているせいで、背中越しに振動が伝わってくる。
「朝からわたくしをからかっておいでですか?」
「いや?」
そう言うと、セシリオは両腕でサリーシャをぎゅっと抱きしめ、今度は肩にキスをした。
「昨夜の一件で、きみには直接はっきりと言わないと色々と伝わらないということがよく分かった。これからは思ったことは口にしよう」
サリーシャはそれを聞いた瞬間、ぎゅっと心臓を掴まれるような痛みを感じた。
お互いが言葉足らずだったせいで、サリーシャは酷い思い違いをしてセシリオや周りの人達に迷惑をかけた。きっと、昨晩は皆でサリーシャを探して大騒ぎだったに違いない。
「本当に申し訳ありません……」
サリーシャが俯くと、セシリオが窘めるようにポンポンとお腹を軽く指で叩いた。
「俺に謝る必要はない。ただ、クラーラ達には一言労いの言葉を掛けてやってくれ。きみのことをとても心配していた」
「……はい」
きっと昨晩、クラーラ達はサリーシャを探してとても心配したに違いない。サリーシャはとても申し訳なく思った。
「俺とは、お互いにもっと話をしようか? 俺たちはどうやら二人とも、察しが悪いようだ。またこんなことが起こらないように、沢山話をしよう」
サリーシャは自分の腹部に回ったセシリオの手を見つめた。温かくて、サリーシャの華奢な手とは全く違う、ごつごつした大きな手だ。この手を二度と放したくはない。だから、自分も思ったことや言いたいことは言おう。そう思った。
「きみを不安にさせないように、伝えたいことがある。きみが俺の妻になるからこそ、教えるんだ」
セシリオの片腕がサリーシャから外れると、カサリと紙の擦れる音がした。
「サリーシャ。これを見て」
サリーシャはセシリオが前に回した手に持っているものを見つめた。三通の封筒だ。どれも封蝋に王室の印が押されている。
「これは……、王室からの親書でございますか?」
「そうだ」
セシリオは短く答えると背後から腕を伸ばし、その三通をサリーシャの前に並べた。
「何か違いが分かる?」
「違い?」
サリーシャはその三通を見比べた。白い紙は一目で上質と分かる混じり気のないものだ。全て同じ長方形をしており、封の部分に施された封蝋は赤い。そこには、サリーシャのよく知るタイタリア王国の王室の印が押されている。
「同じに見えますわ」
「よく見て」
耳元でセシリオが囁くたびに、くすぐったいような、こそばゆいような、不思議な感覚がする。セシリオはサリーシャの手に自分の手を重ねると、その封筒を持たせた。伝わってくる熱にどぎまぎしながらも、サリーシャはもう一度その封筒をじっと見つめる。
「大きさは……一緒ですわね。紙の手触りも一緒だわ。封蝋の欠け方ですか?」
「封蝋に着目したのは正解だが、欠け方じゃない。こうやって明るい場所で並べて見ると、なにかに気付かないか?」
そう言われて、サリーシャはもう一度その三通、とくに封蝋部分を注意深く見比べた。欠け方でないならば、印の形だろうか。しかし、印はどれも同じに見えた。なおのことじっと見つめていたサリーシャは、ふとあることに気付いた。
「これとこれ、少し色が違いますわ」
サリーシャは、三通のうち二通を選んで、朝日にかざすように斜めに持った。ほんの僅かな違いだが、一方の封蝋が暗い色をしているように見えたのだ。




