第三十九話 氷解
そのドアの向こうは、寝室になっていた。
セシリオの執務室にも一人用の簡易ベッドのようなものがあるが、この部屋のベッドはサイズが全く違った。サリーシャの宛てがわれた客間の大きなベッドよりも更に大きなベッドには豪華な天蓋の枠が付いており、そこには花と蔦のような模様が彫刻されている。寝具はピシッと整えられており、香を焚いてあるのか僅かに甘い香りがした。明かりは執務室よりかなり暗めにライトダウンされている。
「ここは、寝室ですか?」
「そうだ。俺の寝室でもあるし、結婚後には俺ときみの寝室だ。普段、俺は執務室の方で寝ることが多いが、いつでも使えるように毎日準備してくれている。殆ど使っていないが……」
説明しながら、セシリオは少し気まずそうに視線をさ迷わせた。疚しい事がなくとも、まだ正式に結婚する前のサリーシャを寝室に連れ込むのは、あまり褒められることではないからだろう。
サリーシャは、その様子を見て初めてセシリオがマオーニ伯爵邸に来たときのことや一緒に初めて朝食をとったときのことを思い出した。少し照れたり気まずくなったりすると、セシリオは視線をさ迷わせることが多い。先ほどまでの怒れる鬼神のごとき様子から想像もつかない可愛らしい姿だ。
こんな可愛らしさを持ちながら、誰よりも男らしい人。こんな場面にもかかわらず愛しさがこみ上げ、この人と少しの間でも夢を見れた自分は幸せ者なのかもしれないと思った。
「それで……見てみても?」
「はい」
ためらいがちに聞かれ、サリーシャは頷いた。覚悟を決めてセシリオに背を向けると、自らのドレスのボタンを外し始めた。緊張で指が震えて、いつものように上手く外せない。
一つ目のボタンを外すとき、セシリオと初めて会った王宮の秘密の場所が鮮やかに蘇った。フィルとの待ち合わせの場所に突然現れた年上のお兄さん。まさか婚約者になるなんて、あの時は想像だにしていなかった。
二つ目のボタンを外すとき、求婚に来た日のセシリオの様子が脳裏を過ぎた。怒っているように顔をしかめていたあの日の表情は、今思い返せば照れていたのだろう。
三つ目のボタンを外すとき、二人で城下へお出かけした日のことが思い浮かんだ。握られた手が温かくて、なぜだか安心した。きっとあのときには既に、自分はこの人に恋をしていたのだろう。
一つボタンを外すたびに思い出が蘇った。そして、最後のボタンを外すとき、サリーシャの脳裏に蘇ったのは、デオに相乗りして一緒に夜空を見に行った日のことだった。
『きみは俺が必ず幸せにしてやる。だから、安心して愛されていていいんだ』
そう言ったセシリオの言葉が、サリーシャには何よりも嬉しかった。
ストンとドレスが床に落ち、シュミューズだけになったサリーシャは、それも肩ひもから外し、床に落とした。その瞬間、背後のセシリオが息を飲んだのがわかった。
──やっぱり、気味が悪いわよね……
サリーシャは目を伏せた。
無防備な姿は酷く心細い。ましてや、下にドロワーズは着ているとはいえ、男性にこのような姿を見せるのは初めてだ。後ろからは見えないはずだが、なんとなく胸を隠すように両手を前でクロスさせて自分の肩に触れると、幾分か気持ちが落ち着いた。
沈黙のベールが部屋を包む。
「閣下?」
こちらを見ているはずのセシリオが一言も発しないのを怪訝に思ったサリーシャは、小さく呼びかけた。背中を見せているせいで、セシリオの表情は伺えない。
「……少し触れても?」
「はい」
ようやく紡がれた問いに返事をすると、背中に優しく触れる温もりを感じた。傷痕の具合を確認するように、指先が肌をゆっくりと這う。
「これは……思ったより酷いな……。だいぶ深かったはずだ。痛みは?」
「普段はないのですが、動いたときに時々ひきつれるような痛みが」
「そうか……」
そう言ったセシリオは、背中から手を外す。ガザリと音がして、サリーシャの肩にずっしりとした重みがかかった。見ると、セシリオの着ていた軍服の上着が肩からかけられていた。つい今までセシリオが着ていたそれは、まだ仄かに体温を残して暖かい。そして、その軍服の上から、セシリオはサリーシャを包み込むように抱き締めた。
「きみに醜い傷などない。今確認したが、やはりなかった」
サリーシャは驚きで目を見開いた。傷はある。今確認したはずなのに、何を言っているのかと理解出来なかった。
「何を……。今、ご覧になったのでしょう?」
「ああ、見たさ。こんな大ケガを負って、きみが生きていてくれてよかった」
「……では、なぜ?」
震える声に答えることなく、背中からセシリオの体温が消え、再びばさりと衣ずれの音がした。サリーシャが振り返ると、セシリオは自らの上衣を脱ぎ捨てたところだった。鍛え上げられた肉体が暗い明かりに照らされる。突然の行動に、サリーシャは驚きのあまりになにも言えなかった。
「きみは、俺の体を見て醜い傷だらけだと思うか?」
セシリオが静かにサリーシャに問う。
「え……?」
両手を広げたセシリオの体は、よく見ると腕、胸、腹の至るところに傷痕があった。銃創のような痕や何かが刺さったような小さな傷もあれば、大きな傷痕も複数残っている。恐らく、実際の戦争で負った傷だということは、見てすぐに分かった。サリーシャはふるふると首を振る。
「思うはずがありません」
「なぜ?」
「だって……閣下の傷痕は、タイタリアのために戦った証です。醜いだなんて、思うはずがないわ」
そう言ったサリーシャをセシリオは静かに見返した。
「きみだって、同じだろう?」
サリーシャは息を飲んだ。
「きみの傷痕は、タイタリアの未来の国王夫婦を敵から守った、勇敢さの証だ。何も醜くない。きみは、とても美しい」
そう言うと、セシリオは微笑んでサリーシャの頬を優しく撫でた。止まっていたはずの涙がまたぽろりと溢れ落ちる。
「いいか。きみに醜い傷などない。人を殺めた俺の方が、よほど醜い」
「そんなこと、ありません!」
サリーシャはぶんぶんと首を横に振った。そして、まっすぐにこちらを見つめるヘーゼル色の瞳を見返した。
「閣下の傷痕は、決して醜くなんてありません」
「なら、きみだって同じはずだ」
零れ落ちる涙はもう止められそうにない。
「わたくしは……わたくしは閣下のお側にいてもよいのでしょうか?」
「まだそんな愚問を発するのか? きみのことは俺が幸せにすると言ったはずだ」
セシリオの眉間に皺が寄る。片手を取られて引き寄せられると、大きな軍服ごと抱き締められた。それだけで、言い様のない幸福感がサリーシャを包み込む。
サリーシャはおずおずと大きな背に手を回した。直接触れあう肌からは温かな熱が伝わってきた。ほんのり温かく、そして、とても安心する。
「サリーシャ。実は……傷のことは最初から知っていた。だが、クラーラ達とも相談して、きみが気にしているかもしれないから口に出すのはやめていたんだ。……逆効果だったな。きみが何かに悩んでいるのに気づいた時点で、この事に気づくべきだった」
セシリオの手が軍服越しに優しく背中を撫でる。
それを聞いたとき、自分はなんて馬鹿な思い違いをしていたのだろうかと思った。
思い返せば、ヒントはたくさんあった。ここに来たときにサリーシャのために用意されていたドレスは、若い女性向けにも関わらず全て背中が隠れるデザインだった。マリアンネから意地悪を言われたとき、これが似合うとセシリオとモーリスは庇ってくれた。着替えや湯浴みを一人、もしくはノーラとしかしたがらないサリーシャに対し、クラーラは疑問ももたずに好きにさせてくれていた。
たった一言だけどちらかが言えれば、こんなにお互いが誤解して拗れることにはならなかったのに。その一言が、どうしても言えなかった。
「服を……」
しばらくすると、セシリオが周囲を見渡して呟く。温かな熱が離れようとするのを感じ、サリーシャは咄嗟に背中に回していた腕の力を込めた。困惑気味にこちらを見るセシリオを、サリーシャはまっすぐに見上げた。
「わたくしを醜くないと、ずっとお側に置いて下さると仰るならば、閣下にはもっと触れて欲しいのです」
セシリオが目を見開き、ひゅっと息をのんだ。
***
金糸のような長い髪が白いシーツに広がり、光を浴びた海面のように煌めく。
大きなベッドに横たわり外を眺めると、窓越しに大きな月が見えた。眼前にいる最愛の人を見上げれば、逞しい体が部屋の仄かな明かりと月明かりに照らされて浮かび上がっている。『辺境の獅子』とはセシリオの二つ名だが、その姿は本当に獅子のようだとサリーシャは思った。
しなやかで、雄々しく、そして、とても美しい。
「怖い?」
ヘーゼル色の瞳が心配そうに覗き込む。サリーシャはまっすぐにその顔を見返し、微笑んだ。
「いいえ。閣下ならば、怖くはありません。むしろ、とても……とても嬉しいのです」
そう、嬉しいのだと思った。
この人と結ばれることが、とても嬉しい。
セシリオは少し驚いたように目をみはると、少し照れたのか眉根を寄せる。サリーシャはその様子を見て、ふわりと笑う。誰よりも勇敢でありながら、こんなにも可愛らしいこの人が、心から愛しい。
「約束だ。きみのことは、必ず幸せにする。だから、ここにいろ」
「……はい」
サリーシャが頷くと、セシリオが優しく微笑む。
慕っている人に愛されるとは、なんと幸せな奇跡なのだろう。
その幸せを噛みしめながら、サリーシャはそっと目を閉じた。




