第三話 夢の終わり②
サリーシャは礼服に身を包んだフィリップ殿下と豪華なドレスに身を包んだエレナに視線を向けた。フィリップ殿下はエレナを片手で抱き寄せ、優しい眼差しを向けている。エレナは緊張と興奮からか、頬を紅潮させ、目をキラキラとさせていた。
幸せを絵に描いたような光景。
それを眺めながら、さも微笑ましいものを見ているかのように口の端を持ち上げる。
──大丈夫よ、わたくしはうまくやれているわ。
心の中で、自分にそう言い聞かせた。
フィリップ殿下がエレナ様の手をとり、その手を重ねたまま高く上にあげた。
「聞け。俺は我が未来の妃にエレナ=マグリットを選んだ!」
その声に応えるかのように、広間のあちらこちらからお祝いの声と拍手が湧き起こる。
「フィリップ殿下、エレナ様。おめでとうございます」
「タイタリア、万歳!」
「フィリップ殿下。お喜び申し上げます」
次第に大きくなる歓声と拍手の音は大きなうねりとなってあたりを覆い尽くす。ぐわんぐわんと反響しながらまるで逃れることなど許さないと言いたげに、サリーシャを包み込んだ。
今日、タイタリア王国の未来の国王が正式にその伴侶を選んだ。将来の国母となる、唯一無二の尊い女性を。多くの美しく咲く花々の中で、選ばれるのはたった一輪だけ。どんなにその座に近づこうが、選ばれなければ皆同じ。その他大勢は主役の大輪を引き立てる添え花でしかない。
そして、その座を見事に射止めたのはエレナ=マグリット子爵令嬢だった。艶やかな薄茶色の髪とクリッとしたこげ茶色の瞳に、透けるような白い肌。未来の王妃にふさわしい、とても可愛らしく、聡明な女性だ。
サリーシャも笑顔を浮かべ、二人に惜しみない祝福の拍手を送った。
──でもね、おかしいの。
サリーシャはぼんやりと目の前の光景を眺めた。
目の前で笑い合う人達が、まるで演劇のように現実感なく見える。
これが夢だったらいいのにと思ってしまう。永く続く、壮大な夢物語。
サリーシャはこの貴族の世界に、フィリップ殿下の隣に立つためだけに送り込まれた。
まだ十歳だったあの時、周りの大人から口酸っぱく言われたことは『必ず王妃の座を射止めろ』ということだった。毎日毎日、朝から晩まで、厳しいレッスンの数々。わけも分からないまま毎日を過ごし、十一歳のときに初めてお仕事で用事があった養父──マオーニ伯爵に王宮に連れてこられた。
その後はことあるたびに王宮に連れていかれた。王宮に訪れる頻度が高ければ、王太子殿下に会える可能性が上がるから。マオーニ伯爵のこの作戦は見事に功を奏した。
ホームシックで泣くサリーシャに声を掛けてくれたのはフィリップ殿下本人だった。あの頃は、フィリップ殿下がその絶対に射止めなければならないお相手などとは、サリーシャは想像すらしていなかった。ただ、辛くて、生まれ育った家が恋しくて、寂しくて、泣いているときに声を掛けてくれた男の子。それだけだった。
「どうしたの? 悲しいの?」
王宮の庭園の陰で泣いていたサリーシャにおずおずと話しかけてきた男の子は、サリーシャが返事をしないのを見て首をかしげた。
「──ねえ、僕とお話しようか。少しは気が紛れると思うよ」
差し出された小さな手に縋りたいと思うほど、サリーシャは弱っていた。
「……うん」
サリーシャの花冠作りになど全く興味がなかったはずなのに、にこにこしながら付き合ってくれた。
「ねえ。僕、よくここにいるからまた寂しくなったらおいでよ。人に教えてもらった、秘密の場所なんだ。僕も遊び相手や話相手があまりいないから」
「うん」
彼が未来の国王陛下だとサリーシャが知ったのは、それから数ヶ月経過したころだった。マオーニ伯爵はサリーシャがフィリップ殿下といつの間にか仲良くなっていたことを、とても喜んだ。よくやったと屋敷に戻ってからもしきりに褒められた。
しっかりと勉強してフィリップ殿下の隣に立つのだと、ただそれだけを言われ続けた。
それからは辛い王妃候補の教育も、文句一つ言わずにしっかりとこなした。頑張ってお勉強もしたし、礼儀作法も完璧だ。初めて会う人は、だれもサリーシャが田舎の農家の娘だなんて想像しないだろう。
しかし、サリーシャは与えられたミッションに失敗してしまった。
きっと、最初から無理だったのだ。元は田舎の農家の娘なのに、王妃様になれだなんて、無理がある。
長い付き合いのサリーシャから見ても、彼女と見つめ合って微笑むフィリップ殿下はとても幸せそうにみえた。優しいフィリップ殿下は皆の王子様で、サリーシャの大切な友人。
さあ、友の幸福を祝おう!
そう思うのに、心からお祝い出来ない自分がいた。
──わたくしは明日から、どうすればいいのかしら?
この期に及んで、そんなことが脳裏をよぎる。もしかしたら、フィリップ殿下は自分のこんなふうに醜い部分に気付いていたのかもしれない。そんなふうに思った。
サリーシャはフィリップ殿下を騙そうとした。自分可愛さに、養父であるマオーニ伯爵に言われるがままに、彼を虜にしようと画策した。
景色は歌劇のように移り変わる。
主役を演じるのはフィリップ殿下とエレナだ。
サリーシャはただそれを眺めるだけの観客にしかなれなかった。
本当は、こんな結末になることにずっと前から気付いていた。けれど、サリーシャはそれに気付かないふりをして、マオーニ伯爵にいい顔をし続けた。そうするしかなかったのだ。
──ねえ、わたくしはこれからどうすればいいのかしら?
またもやそんなことが脳裏を過る。ぼんやりと眺めるサリーシャの視界の端に、キラリと光るものが映った。
その男が飛び出してきて主役の二人に近づいたとき、サリーシャは反射的に体を前方に滑り込ませた。
肩から背中の中央部に感じたのは鋭い痛みと燃えるような熱さ。笑顔だった人々の顔が恐怖に染まる。
更なる激痛が背中を襲い、ヌメッとしたものが滴り落ちるのを感じた。
「誰か、賊だ! 捕らえろ!!」
「衛兵! 衛兵!」
あたりに怒声が響き渡る。すぐに近衛騎士と衛兵達がなだれ込み、鬼のような形相の男が囚われるのをぼんやりと見つめた。
──痛い。寒い。
今日の自分はやっぱりおかしい。
視界がぼやける。
──なぜそんなひどい顔をしているの?
その問いは、口にしようとしても上手く出てこなかった。
ヒューヒューと喉が鳴る。
大切な友よ。さあ、笑って。
今日はタイタリア国民が盛大に祝うべき、喜ばしい日。
未来の国王の、生涯の伴侶が決まったのだから。
サリーシャは力なく口の端を持ち上げた。
──もうこんな茶番はおしまいにしましょう。
サリーシャはフィリップ殿下を射止めるためだけに、この世界に迎えられた。しかし、サリーシャにとってのフィリップ殿下は騙すには優しすぎる、大切な友人だった。そして、サリーシャもこの役目を負えるほどの、完璧な役者にはなれなかった。
フィリップ殿下がサリーシャではない人を選んでくれたことに、サリーシャ自身が一番ホッとしていた。
サリーシャは思った。
やっぱり、今日はなにかがおかしい。
自分でもよくわからない。
自分はこれから、どうすればいいのだろうか。
幸せな行く末が全く見えない、終わりのない迷路に放り込まれたようだ。
泣きそうな顔をする友人と、その愛する人──エレナをサリーシャは見上げた。
フィリップ殿下とエレナ様が微笑み合う姿を見て、本当は羨ましかった。
──化かし合いはもうたくさんだわ。
自分にも、あんなふうに微笑んでくれる人がいたら……
厚かましくもそんなことを思った。
自分でも思う。どうかしていると。
そんな未来、あるわけがないのに。
──だからわたくし、こんなことになっても、ちっとも後悔はないのよ。