第三十八話 告白
サリーシャは俯いたままソファーに座っていた。ローテーブルを挟んで反対側には無言でセシリオが座っているが、怖くて顔を上げることが出来なかった。
サリーシャがセシリオの部屋の前で屋敷を飛び出したのが一時間半ほど前のこと。上手く抜け出したと思っていたのに、外門の検問所で呆気なく追いつかれ、そのまま屋敷に連れ戻された。今はセシリオの部屋のソファーでこうして二人向き合っている。
サリーシャは俯いたまま自分のスカートのすそを握りしめた。何も言わないセシリオがかえって怖かった。目の前でこちらを見据える相手が一体何を考えているのかがわからなくて、口汚く罵られた方がまだましだとさえ思えてくる。
しばらくそうやって無言で向き合っていたが、先に沈黙を破ったのはセシリオだった。
「なぜ、あのようなことをした?」
落ち着き払ったように聞こえる声は実際には固く、サリーシャには彼が怒っていることがすぐに分かった。こんなことをしでかして、怒らないでくれという方が無理がある。
「申し訳ありません……」
俯いたままなんとか声を絞り出すと、セシリオが深いため息をつくのが聞こえた。サリーシャはビクンと肩を震わせる。
「謝って欲しいわけではないんだ。あんな行動をした理由を教えてくれ。一歩間違えれば、強盗に襲われて命を落とす可能性だってあったんだぞ」
「……」
何かを言わなければならないと思うのに、声が出てこなかった。無我夢中で後先考えずに行動したので、強盗に襲われる可能性なんて微塵も考えていなかった。
──わたくしは、今まであなたを騙していました。
──わたくしは傷物なので、あなたには相応しくありません。
──どうかマリアンネ様とお幸せになってください。
──今までお世話になりました。そして、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。
言うべき言葉は頭では分かっているのに、どうしてもそれが口にできなかった。自分勝手だと分かっていても、別れなど告げたくはないし、セシリオとマリアンネが寄り添う姿など想像したくもない。
じんわりと視界が滲むのを感じた。
なにも答えないサリーシャに痺れを切らしたように、セシリオが質問を変えた。
「どこに行くつもりだったんだ?」
「……以前、閣下と訪れた支援施設に。一人で生きていこうと思いました」
「──サリーシャ」
深いため息まじりに、セシリオは言う。
「あそこはやむにやまれぬ理由で庇護を必要とする者が身を寄せる場所だ。家出人を匿う場所ではない」
「はい……」
セシリオの言うとおりだった。彼らは戦争で夫や両親を失い、あそこに身を寄せなければ生きていけない人々だ。傷付くことが怖くてここを飛び出した自分とは、根本的に違う。なんと甘ったれた考えをしていたのだろうかと、自らに呆れてしまう。
謝らなければと思ったのに言葉が出てこず、かわりにハラリと頬を涙が伝った。水色のスカートには青いシミができる。とめどなく溢れるそれはポタリ、ポタリと滴り落ち、スカートを水玉模様に染めた。
シーンと静まり返った部屋に、チクタクと時を刻む時計の音だけが響く。サリーシャはぐっと唇を噛み、俯いた。
「悪かった」
どれだけそうしていただろう。
しばらく無言でサリーシャを見つめていたセシリオは、絞り出すように一言、そう言った。
サリーシャは驚いて顔を上げた。サリーシャには、セシリオから謝られることなど、何一つない。本当によくしてもらったと思っている。全ては最初にきちんと本当のことを打ち明けなかったサリーシャが悪いのだ。
サリーシャが見たセシリオのヘーゼル色の瞳には、怒りとも悲しみともとれるような感情が揺らめいていた。
「俺はきみが俺のことを慕ってくれていると、勘違いをしていた。冷静に考えれば、きみにはこの婚約を断る術が何もなかった。社交界で『瑠璃色のバラ』とうたわれたきみだ。こんな貴族らしからぬ男の妻には、なりたくなかったんだろう? だからと言って、あんな夜更けに飛び出すなんて……、本当になにかあったらどうするつもりだったんだ? そんなにも切羽詰まっていたと今まで気づいてやれなくて……悪かった」
自嘲気味に笑い、吐き捨てるように言ったセシリオの言葉に、サリーシャは頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。
「ち、違うっ……」
「違う? では、なぜこんな夜更けに人目を避けて逃げ出した? 結婚が嫌だったんだろう?」
「違いますっ!」
違う、断じて違う。
サリーシャは自分の行動がどんなに愚かだったかを思い知らされた。なにも言わずに去れば、セシリオがそう思うのも無理はなかった。こんなにもよくしてくれた人をサリーシャは酷く傷つけ、侮辱するような行動をとった。恩を仇で返したのだ。
「違うのです。わたくしが全て悪いのです。……わたくしは、閣下をずっと騙していました」
自分が傷つくことなど恐れずに、最初からちゃんと言うべきだった。もしここに到着した日にきちんと告げていれば、まだ目の前の男性と引き裂かれることに、こんなにも気持ちを抉られなかっただろう。全ては、先へ先へと伸ばした自分の責任なのだ。
「俺を騙していた?」
セシリオが訝し気に眉をひそめる。サリーシャはぼろぼろと零れ落ちる涙を拭いながら、頷いた。
「夕食のあと、ブラウナー侯爵とのお話を立ち聞きしてしまいました。ブラウナー侯爵の言うとおり、あれは真実なのです」
「──どの部分がだ?」
地を這うような低い声だった。子どもであればその声だけで震えあがり泣きだすような、怒りに満ちた声。サリーシャは、一度目を閉じると深く息を吸い込み、覚悟を決めてセシリオの顔を見つめた。
「わたくしの背中には、醜い傷があります。ブラウナー侯爵の言うとおり、傷物なのです。閣下の妻には相応しくありません」
「ほかには?」
「……ほか?」
今度はサリーシャが怪訝な表情でセシリオを見返した。しばらく無言で見つめ合ったのち、セシリオは小さく首を振ると、毒気を抜かれたような表情で、またサリーシャを見つめ返した。
「もしかして、それで屋敷を飛び出したのか?」
「……はい。挙式の後にすぐに離縁したのでは閣下の醜聞になってしまいますので、本当は中庭の改造が終わったら打ち明けるつもりでした。けれど、先ほどの会話を聞いて、もうここには居られないと思いました」
「俺との結婚が嫌だったのではないのか?」
「断じてそのようなことはありません。わたくしは、閣下をお慕いしています。信じて頂けないかもしれませんが、それは本当なのです」
セシリオはぐっと眉を寄せてから片手で額を押さえると、大きくため息をついた。そして、眉間のあたりを指で押さえて項垂れた。
「俺は今、激しく怒っている」
「……はい」
「きみに対してではない。自分に対してだ」
「はい?」
サリーシャは困惑気味にセシリオを見た。それはつまり、サリーシャの嘘を見抜けなかった自分自身に怒っていると言うことだろうか。
顔を片手で覆ったままだったセシリオはゆっくりとその手を下ろすと、真剣な眼差しでサリーシャを見つめた。
「見せてくれ」
「え?」
「その傷を、見せてくれ。この目で見ないと、納得できない」
サリーシャはコクンと息をのんだ。
傷痕の状態はこの屋敷を飛び出す前に鏡で確認した。薄暗くライトダウンしたサリーシャの部屋で鏡越しに見てもはっきりとわかるほどの酷い傷痕が、右肩から左わき腹にかけてはいっていた。このような明るい執務室で直接見たら、見るに堪えないほどの醜さだろう。最悪の場合、化け物呼ばわりされるかもしれないと思った。
「……今、ここでですか? こんな明るいところでお見せするのは……」
震える声でなんとか紡いだのは、そんな言葉。セシリオは考えるように手を顎に当てた。
「では、暗い部屋でならいいか? 行こう」
立ち上がったセシリオがサリーシャの手を引いて促したのは、壁にある出入り口とは違うもう一つのドアだった。




