第三十四話 悲嘆(ひたん)
表面上は平穏な日々が続いていた。
サリーシャが見る限り、表立ってアハマスの軍隊が動いているような素振りはなかった。
セシリオはブラウナー侯爵が来てからのここ数日、いつもに輪をかけたように忙しそうにしていた。サリーシャはセシリオとほとんど会話らしい会話も出来ていなかったが、それはマリアンネも同じようで、マリアンネは最近不機嫌そうにしている。
ただ、朝晩の食事の際に顔を合わせると、セシリオはマリアンネに対しては表情を変えないのに対し、サリーシャと目が合うと優しくヘーゼル色の瞳を細めて微笑んでくれる。ただそれだけで、サリーシャは十分に彼の愛情を感じることが出来た。
灰色の刺繍糸の最後の一刺しを縫って、サリーシャはハンカチを置いた。いつもするように少し離れてそれを眺め、おかしなところがないかを確認する。
縁に深緑色のラインの入ったハンカチには、剣と盾、そしてセシリオの頭文字である『S』が入れられている。盾と剣については最近は使っていない、三階のプライベートダイニングルームに飾られていたものを真似してデザインした。灰色と白と黒色の刺繍糸を組み合わせて立体的に見せている。
しばらくそれを眺めていたサリーシャは、満足気に口の端を持ち上げた。
「早くお渡ししたいけど、どうしようかしら」
サリーシャはハンカチを見つめてから時刻を確認した。既に夜の八時を過ぎている。
忙しいセシリオは夕食の後も屋敷の反対側の仕事場に行ってしまうことが多い。部屋を訪ねても居ないかもしれないが、もし居れば、いつぞやのように優しく笑って歓迎してくれるに違いない。抱きしめてキスをしてくれるかもしれない。そう思ったら、自然と表情が緩む。少し迷ってから、サリーシャはハンカチを持って部屋を抜け出した。
三階に上がると、やはりそこは静まり返っていた。サリーシャは照明が落とされた薄暗い廊下の奥を見た。暗がりにある一番奥の両開きのドアの下の隙間からは明りが漏れているのが見えた。明かりが漏れているということは部屋にセシリオがいるに違いない。
サリーシャは目を輝かせると、悪戯心からびっくりさせてやろうと靴を脱いで忍び足で近づいた。しかし、いざドアをノックしようとして腕を上げたところでピタリと動きを止めた。中から小さな話声が聞こえたのだ。
「必要な弾薬はあと三日で指定の倉庫に到着する予定です」
「助かります。代金は後でまとめてでも?」
「構いません」
部屋の中にいるのはセシリオとブラウナー侯爵のようだった。話す内容からして、仕事の話をしているのだろう。これは出直した方がよさそうだと踵を返そうとしたとき、サリーシャは咄嗟に耳を澄ました。自分の名前が出てきたのが聞こえたのだ。
「サリーシャ嬢のことですが、わたしは賛成しかねますね。彼女は長らくフィリップ殿下と親しくしていた。実は愛人だったのではと疑っています」
サリーシャは我が耳を疑った。確かにサリーシャはフィリップ殿下と一番親しい異性だった。しかし、その関係は友人の域を出たことはなく、断じてそのような男女の関係になったことはなかった。
「憶測でものを言われては困ります。彼女とフィリップ殿下はそのような関係ではないはずだ」
セシリオがそれを否定する声が聞こえた。奥のソファーで話しているのか、だいぶ声が遠い。サリーシャはもっとよく聞き取ろうと、部屋のドアに耳を押し当てた。
「しかしですね、先日も『争いは止めればいい』などと頓珍漢なことを言い出すし、アハマス辺境伯夫人としての素質に欠けるとしか思えない」
「アハマス辺境伯夫人が好戦的な性格では、争いが絶えなくなりむしろ素質に欠ける。彼女はあれでいいのです」
「それはそうかもしれませんがね、うちのマリアンネは小さなころからアハマス卿と付き合いがあっただけあり、その辺のところがよく分かっているのですよ。サリーシャ嬢より、よっぽどアハマス辺境伯夫人としての適性があり、相応しい。それに、我がブラウナー侯爵家はアハマスにとってなくてはならない存在でしょう?」
セシリオの返事は聞こえなかった。答えなかったのか、聞き取れなかったのかはわからない。
「それにですよ、彼女は背中に醜い傷跡があるはずです。いくら美しいとは言え、アハマス卿の妻には相応しくない。辺境伯夫人ともあろう者が傷物など──」
「ブラウナー侯爵」
セシリオの怒りを抑えたような低い声が聞こえた。
「あなたの言うとおり、本当に見るに堪えない醜い傷があるのならば俺の妻には適さないのかもしれない。だが、彼女に醜い傷などない。だから、なにも問題はない」
それを聞いたとき、衝撃の余りに頭が真っ白になった。体から力が抜け、持っていたハンカチがハラリと床に落ちる。現実のものが現実でないような、心が空っぽになった気がした。
夢の終わりは儚いものだ。
なぜ、今まで忘れていたのだろう?
これまで積み重ねてきたものがまるで無くなるように、呆気なく終わりを告げる。アハマスに来てから、セシリオと少しずつ夫婦になるための絆を繋いできたと思っていた。でもそれは、ちょっとしたことで崩れ去るような、冬の湖に張った薄氷のようなものだったのだ。
あの日、見つめ合うフィリップ殿下とエレナを見て羨ましかった。
自分もあんな風に笑い合える人が出来たら、と夢見た。
──夢は所詮、夢なのね。
そんな未来はあるわけがないと知っていながら、厚かましくもこの人とならそうなれるかもしれないと、夢見ていた。自分を愛してくれるならば、背中の傷も受け入れてくれるはずだと、愚かな思い違いをした。
──わたくしはなんと、馬鹿なのだろう。
瞳から零れ落ちそうになるものを片手で拭うと、サリーシャは一人そこから走り去った。




