第三十三話 ブラウナー侯爵
ハンカチを渡した翌日のこと。
サリーシャはセシリオと並び、アハマスの領主館の入り口に立っていた。ブラウナー侯爵が乗っていると思しき馬車が見えると見張り台の兵士から報告があったのだ。
アハマス辺境伯の屋敷に到着したブラウナー侯爵を見た時、サリーシャはこの人はなんとまあ上位貴族らしい上位貴族なのだろうと、半ば感心にも近い感情を覚えた。
たっぷりと蓄えた口ひげは芸術的なほどに横に長細く伸び、でっぷりとしたお腹はまるで妊婦のように前に突き出している。髪はよく見る貴族男性らしく、長く伸ばして後ろで一つに結われ、藍色のベロアのリボンで結ばれていた。そして、最もサリーシャがブラウナー侯爵を『上位貴族らしい上位貴族』と評した理由は、その傲慢な態度にあった。
「ブラウナー侯爵、こちらが俺の婚約者のサリーシャです」
「サリーシャ=マオーニですわ」
セシリオに紹介され頭を下げたサリーシャに対し、ブラウナー侯爵は一瞥するのみで会釈すらしなかった。そして、一緒に出迎えた娘のマリアンネを「どういうことだ」とでも言いたげに睨みつけると、マリアンネは恐縮するように俯いた。
サリーシャはその様子を見て、マリアンネはおおかた父親に『セシリオを射止めてこい』とでも言われて先に送り込まれたのだろうとすぐに察した。
マリアンネはサリーシャ同様、フィリップ殿下の婚約者候補だった。タイタリア王国は一夫一妻制であり、それは王族とて例外ではない。その座を逃したら側室という選択肢もないため、別に嫁ぎ先を探す必要があるのだ。
今、多くの有力貴族の年頃の令嬢がフィリップ殿下の婚約者になれなかったことにより、一斉によいお相手を探し始めている。辺境伯でありまだ若いセシリオが、彼女達にとって相当の優良物件であることは容易に想像がついた。
そのふてぶてしい顔を眺めながら、サリーシャは強い不快感を覚えた。
セシリオからは、マリアンネとの婚約はブラウナー侯爵家側から解消が申し入れられたと聞いた。一度婚約した相手に解消を申し入れておきながら、もっと条件のよい王太子殿下の婚約者になれなかった途端にやっぱりもう一度婚約して欲しいなど、そんな虫のいい話があるのか。同格の貴族のなかでは若輩に当たるセシリオを馬鹿にしているとしか思えないような、失礼な行為に思えた。
ブラウナー侯爵はすぐに娘のマリアンネから目をそらすと、何事もなかったように笑みを浮かべてセシリオに向き直った。
「『瑠璃色のバラ』とうたわれただけありお美しい婚約者ですな。しかし、アハマス卿、気を付けられた方がよい。美しいバラには棘がある」
「……どういう意味でしょう?」
スッと目を細めたセシリオに対し、ブラウナー侯爵はフンと鼻で笑うような仕草をし、片手を振った。
「ものの例えですよ。世間の一般論を申し上げたまでだ。さあ、疲れたから部屋に案内してもらえませんかな?」
「ご用意できております。どうぞこちらへ」
横に控えていたドリスが小さく頭を下げて声を掛け、部屋に案内するためにブラウナー侯爵を先導する。ステッキを片手に持ったブラウナー侯爵は太った巨体を揺らしながら、のそのそとその後に続いた。
「この狸が」
「え?」
小さな呟きに驚いたサリーシャが隣に立つセシリオを見上げると、セシリオはいつになく厳しい表情を浮かべたまま、じっとその後ろ姿を睨み据えていた。
***
それから二日ほど、サリーシャは領主館の敷地の中を散歩したり、刺繍の仕上げをしたりして過ごしていた。
ブラウナー侯爵が到着してからというもの、セシリオは通常の仕事に加えて侯爵との商談のようなもので、日々とても忙しそうだ。食事のときもマリアンネやブラウナー侯爵が同席するので、ゆっくり話すことも出来ない。刺繍の剣を刺し終えたサリーシャは、壁の機械式時計を見た。時計は五時半を指していた。そろそろ夕食の時刻だと、サリーシャは刺繍道具を片付けるといそいそと準備を始めた。
「フリントロック式マスケット銃が五千丁と、その点火剤と、装填用弾薬。それに車輪付き放架を備えた大砲を六百門、砲丸を一万五千……」
その日も皆で囲んだ食事の最中、セシリオの正面の上座を陣取ったブラウナー侯爵は、熱心に武器の売り込みをしていた。昨日は防具の売り込みをしていたが、今日は攻撃用の新兵器の紹介のようだ。
「フリントロック式マスケット銃は最近出始めたばかりだが、そんなに沢山を短期間に用意できるのか?」
「我がブラウナー侯爵家の流通力を甘く見て貰っては困りますな。有事に備え、二週間以内に用意できます」
「二週間? 大砲も? もうどこかに在庫があるのか?」
訝しむセシリオに、ブラウナー侯爵はにんまりと口の端を持ち上げて見せた。
フリントロック式マスケット銃とは、近年火縄式銃に代わって台頭してきた新型の銃だ。従来製品と比較して不発率が低い、射撃間隔が短い、湿度に強いなどの利点がある。アハマスでも数年前から徐々に揃えはじめているが、まだせいぜい数百丁程しかないという。
何年もかけて数百丁しか揃えられなかったのに、二週間で五千丁。セシリオが訝しむのも無理はなかった。
それに、大砲だって普段から作るようなものではない。突然購入しようとしても、なかなか急に多くの数を揃えるのは難しいのだ。
「我々も持てる手を全て使って集めているのです。なにせ、ダカール国との危機的状況ですからな。いやはや、敵も思い切ったことをやらかしたものです。我が国の未来の国母を狙うとは──」
「未来の国母を?」
「エレナ=マグリット子爵令嬢のことですよ」
「なるほど」
怪訝な顔をして聞き返したセシリオに、ブラウナー侯爵はなにを当たり前のことを、と言いたげな態度で説明した。
サリーシャはその様子を、ハラハラした気分で見守っていた。
ブラウナー侯爵がフィリップ殿下から受け取って持ってきた親書には、襲撃事件はやはりダカール国が疑わしいこと、国境付近のアハマスではいつでも対応できるように準備を始めること、全権はセシリオに任せることが書かれていた。ブラウナー侯爵家にとって、軍需産業は最大の収入源だ。ここぞとばかりに鼻息荒く、次々と新兵器の紹介をしていた。タイタリア王国がこの親書をブラウナー侯爵に託したのも、兵器を確保するための準備をスムーズに進めさせるためだろう。
「あの……、争いを回避するということは出来ないのでしょうか?」
会話の途中で、サリーシャはおずおずとそう切り出した。それを聞いたブラウナー侯爵は不愉快感を隠さない様子で、じろりとサリーシャを見据えた。
「フィリップ殿下の婚約披露パーティーでエレナ嬢が襲われたのですぞ? こんな仕打ちをされて黙っておくなど、タイタリア王国の威信にかかわる。我が国はなにをされても抵抗できない腰抜けだと知らしめるようなものだ。これだから、何もわかっていない素人は──」
「──余計なことを申し上げました。申し訳ありません」
すごい剣幕で捲し立てるブラウナー侯爵に睨まれ、サリーシャは小さな声で謝罪すると顔を俯かせた。
サリーシャにはよく分からなかった。
つい先日、デオに乗って出掛けたときに、ダカール国と戦争になるのではと心配するサリーシャに、セシリオは『戦争にはならない』と言った。安心しろと何回も言い聞かせて抱きしめてくれた。それなのに、今の会話やフィリップ殿下からの親書の流れでは、完全にダカール国と開戦が近いような方向に話が進んでいる。
開戦すれば、アハマスの兵士達はもちろんのこと、総指揮官となるセシリオが危険に晒される。そんなことにはなって欲しくなくてつい口を挟んでしまったが、ブラウナー侯爵の不興を買ってしまったようだ。
「争いはないに越したことはない。サリーシャの言い分はもっともだ」
俯くサリーシャを擁護するように、セシリオが口を開いた。ブラウナー侯爵の片眉がピクリと動く。セシリオはそんなブラウナー侯爵を見つめて、言葉を続けた。
「しかし、万が一に備えることも重要です。これらの商品は購入の方向で、後ほど話を進めましょう」
それを聞いた途端、ブラウナー侯爵は不機嫌そうにしていた表情を綻ばせた。
「いや、わたしも争いはないに越したことはないと重々承知ですよ。しかし、アハマス卿の言われるとおり、万が一にもあちらから攻めてこないとも限らない。それに、これは国の威信に関わるので回避不可能です。さすがアハマス卿、話が分かっている。賢明な選択だ。この話は後ほど進めましょう」
ブラウナー侯爵は横に伸びた髭を何回か揺らしながら、満足げに頷いた。サリーシャはその様子を見つめながら、どうかセシリオが危険に晒されないようにと縋るような気持ちで祈った。




