第三十二話 ハンカチ
サリーシャは部屋の中を見渡した。
広さはサリーシャが滞在する客間の倍程度の広さで、大きな執務机と本棚、サイドボードが置かれている。執務机の上には何かの書類が無造作に置かれていた。屋敷の正面から見て左側の建物にもセシリオは執務室を持っているので、これは持ち帰った仕事やプライベートのものなのだろう。
奥に目を向けると、一人用の小さなベットと接客用のソファーとテーブルが見えた。飾られた装飾品は、やはり剣や盾だ。壁には長さや太さの違う三本の剣が横向きに並べられている。そして、壁には今入ってきたのとは違うドアがもう一つ、付いていた。
「今、侍女が出払ってるから水くらいしかないんだ。──酒は飲まないだろ?」
「はい、飲みません」
ソファーに座ったサリーシャが頷くと、セシリオはサイドボードからグラスを取り出し、手ずから水差しから水を注いだ。透明の液体が透き通ったグラスの中に並々と揺れている。
「酔わせてみたい気もするが、また今度だな」
セシリオは口の端を持ち上げてニヤリと笑うと、水の入ったグラスをサリーシャの前に置いた。
「それで、どうかしたか?」
自分用のブランデーを片手に持ったセシリオが隣に腰を下ろす。
「あの、約束していたハンカチが出来たのでお渡ししようと思いまして。最近いつもマリアンネ様がいらっしゃるので渡しそびれてしまって」
サリーシャはポケットに入れたハンカチを取り出し、セシリオに手渡した。セシリオはしばらく無言でそれを眺めると、指で刺繍部分をなぞった。
「これは……デオか?」
「はい。いかがでしょう?」
サリーシャはおずおずとセシリオを見つめた。気に入ってくれると嬉しいとは思ったが、やはり緊張する。セシリオはハンカチから顔を上げると、ヘーゼル色の瞳を細めて微笑んだ。
「とても上手だ。ありがとう」
その表情を見て、サリーシャはホッと胸を撫で下ろした。
「気に入っていただけてよかったわ。もう一枚も一週間程度でお渡しできると思います」
「そうか。楽しみにしておく」
そう言ってセシリオはハンカチを自身の膝の上に置いて、サリーシャを見つめた。
「サリーシャ。これからは言いたいことがあるときは言ってくれ。もう知っているかも知れないが、俺はあまり女性の機微に気付くことができない。きみを我慢させたくないんだ」
「……一つだけお願いしても?」
「もちろん」
サリーシャは自分の手元を見つめてから、勇気をもって顔を上げた。ずっとこちらを見つめていたのか、セシリオのヘーゼル色の瞳とすぐに視線が絡まった。
「本を。マリアンネ様には本を贈られたと聞きました。わたくしも、閣下から贈って欲しいです」
語尾に行くにつれて段々と声が小さくなっていることには自分でも気づいた。色々なものをプレゼントされているマリアンネが羨ましくて、だいぶ大人げないおねだりをしている自覚はある。
「本? 本だけでいいのか? ドレスや宝石は?」
セシリオは少し拍子抜けしたような顔をした。
「ドレスと宝石は今のところ大丈夫ですわ。でも、本は読み終わったらまたすぐに新しいものが欲しくなりますから。その……、閣下にプレゼントして頂けたら、とても素敵だと思ったのです」
「すぐにドリスに今人気の本を調べさせて用意しよう。きみのためなら、本屋ごと買い取ってもいい」
「それは多すぎますわ!」
サリーシャは慌ててセシリオににじり寄って言った。
そう言えば、初めてクラーラと会った日に、クラーラはセシリオがドレスを十着以上買おうとして止めたと言っていたのを忘れていた。きちんと見張らないと、本当に本屋ごと買い取ってしまうかもしれない。
「そうか? 遠慮しなくていいのだが……。では、リストを作るから好きな本を何冊か選んでくれ。いくらでも、贈ろう」
「はい」
勢いよく詰め寄ったので、気付けばセシリオの顔がとても近い。思った以上に近い距離に、サリーシャの胸がトクンと跳ねた。
セシリオは片手をサリーシャの頭の後ろに回すと、髪を撫でながら柔らかく微笑んだ。
「きみが俺になにか物をおねだりしてくれるのは、初めてだな」
「面倒だと思われましたか?」
「いや? 女の我儘は面倒だと思っていたが、きみからのおねだりは、むしろ嬉しいものだな」
そう言うと、ヘーゼル色の瞳を真っ直ぐにサリーシャに向けた。
「今日の俺は、色々と浮かれている」
こちらを見つめる瞳の奥に熱を孕んでいるのに気づき、サリーシャはドキリとした。ゆっくりと顔が近づくのを感じ、目を閉じるとそっと唇が重なる。最初は触れるだけだったそれは、角度を変えながら徐々に深まっていった。
鼻に抜けるような吐息が漏れる。僅かなお酒の味と、ふわりふわりと浮つくような高揚感。遠くからカツンカツンと、何か固いものを鳴らすような音がした。
トントンと木を叩くような音。
突如セシリオがガバっとサリーシャから離れた。
入り口の方を向いて不愉快そうに顔を顰め、チッと小さな舌打ちをする。その時、もう一度扉がノックされ、セシリオが応える前にガチャリと開いた。
「おい、セシリオ。今、早馬がきた──って、お邪魔だったか?」
そこから顔を覗かせたのはモーリスだった。サリーシャが部屋にいることに気付くと、少しだけ気まずそうな表情を浮かべる。サリーシャは慌てて密着しているセシリオから距離を取ろうとしたが、最初からソファーの端に居たので大した距離は取れなかった。
「ああ、邪魔だ。出て行け」
「黄色なんだよ」
忌々し気に睨みつけるセシリオに対し、モーリスは肩を竦めて手に持っている封筒を掲げた。それは真っ白な封筒に赤い封蝋が施されているように見えた。
「赤の間違えじゃないか?」
「イチャイチャしているところを邪魔されて現実逃避に走りたい気持ちは分かるが、残念ながら黄色だ。よく見ろ」
「……今は見たくない」
セシリオの眉間にぐっと皺が寄る。
「駄目だ。見ろ」
近づいてきたモーリスは、セシリオの前にズイっと封筒を差し出した。その封筒を受け取ると、憮然としたセシリオが封蝋を確認するように眺めた。
「確かに黄色だな。くそっ」
セシリオは忌々しげにそう吐き捨てると、片手で鼻の付け根部分の両目頭のあたりをぐりぐりと押した。そして、あからさまに不満げな表情をしたまま、はぁっとため息をつくとサリーシャの方を向いた。
「すまない、急な仕事が入ったようだ。部屋まで送ろう」
サリーシャはきっと赤くなっているであろう頬を両手で押さえてコクリと頷き、セシリオが持つ封筒をみた。赤い封蝋の印はサリーシャの知る、王室の紋章に見えた。
──何が黄色なのかしら?
封筒は白いし、封蝋は赤い。どこにも黄色い要素は見当たらなかった。サリーシャはちょっとした疑問を覚えたものの、セシリオに促されるまま部屋に戻ったのだった。
アハマスと国の中央部とのやり取りにおける封蝋の意味は第十二話に記載してあるのですが、念のため再度記しておきます。
深紅→一般的な親書
黄色ががった赤→重要(特に重要だったり、緊急案件の親書)
黒みががった赤→ダミー(何らかの理由で事実と異なる記載をして偽装した親書)
「ぱっと見はどれも同じに見えるくらいの微妙な違い」という設定です。




