第三十話 溢れる思い
その言葉を聞いたとき、抑えていた気持ちが堰を切ったように溢れ出てきた。
本当はサリーシャだって二人で出掛けたかった。一緒に馬に乗りたかった。休みが殆ど取れないセシリオと半日過ごせるのを、どんなに楽しみにしていたか。感情が長雨のあとの河川の濁流のごとく押し寄せ、大きなうねりとなって一気にサリーシャを覆い尽くした。
「わたくしだって閣下と二人で出掛けたかったです! 凄く楽しみにしてたのに! 婚約者はわたくしなのに、まるでわたくしが邪魔者みたいでしたわ! マリアンネ様ったらずっと閣下にくっついていらっしゃるし! 馬にも乗れないし!」
ぼろぼろと零れ落ちる涙と共に、一度口から飛び出した不満は次から次へと溢れ出し、留まることを知らない。涙ながらに怒り出したサリーシャを見つめながら、セシリオは驚いたように目を丸くしていた。そして、一通りの不満をぶちまけたサリーシャがはぁはぁと息を切らせると、優しく抱き寄せてポンポンと背中を叩いた。
「ああ、俺が悪かった。きみの優しさに甘えてしまった。済まない。……埋め合わせに、今からデオに乗りにいこうか?」
「今から?」
サリーシャは驚いて顔を上げた。まだ暗くはないが、だいぶ日が傾いている。壁の色は既にオレンジから赤に変わってきていた。出掛けるには少し遅すぎるし、もう少ししたら夕食の時間になる。
「でも、もうすぐ夕食の時間ですわ」
「またきみはそうやっていい子になる。一緒に馬に乗りたかったのだろう? こんなに怒るくらい」
「……乗りたかったわ」
「じゃあ、行こう。この時間にはこの時間のよさがある」
セシリオはすくっと立ち上がると、サリーシャの手を引っ張りあげ、立ち上がらせた。そのまま力強くサリーシャの手を引き、迷うことなく歩きだすと厩舎へと向かう。
「ドリス、夕食は遅くなる。マリアンネには先に食べて貰ってくれ」
屋敷の入り口付近でドリスに会い、セシリオは短く要件を伝えた。ドリスは目をぱちくりとさせると、すぐに何かを察したように柔らかく微笑んで「かしこまりました」と、お辞儀をした。
「急ごう。間に合わなくなる」
セシリオはサリーシャの手を引いて少し早歩きするように促した。アハマス領主館はとても広いので、厩舎もそれなりに離れているのだ。
「何に間に合わなくなるのです?」
「行けばわかる」
セシリオは振り向いてサリーシャの顔を見つめると、意味ありげに口の端を持ち上げた。
そうしてデオに乗って連れられてきた小高い丘に到着したとき、サリーシャはそこから見える景色に息を飲んだ。遥か遠くまで見渡せる景色は、まるで円盤のようにぐるりと丸く地平線が見えた。黒い陰のように見える地上に対し、真っ赤に染め上げられた空。その空は上にいくにつれて青さを増し、何重にも絵の具をかさねたかのような複雑な色彩を放っていた。
近くには町が広がっているが、その向こうには森林の緑が広がっている。さらに先には、サリーシャがいた王都があるのだろう。
「……すごい。綺麗だわ」
「そうだろう? 晴れた日の、この時間帯にしか見られない。間に合ってよかった」
セシリオは夕焼けに染まる景色を見つめながら、目を細めた。そして、デオから降りると、サリーシャのことも地面にそっと降ろした。大きな石がゴロゴロとした足元の悪い丘に立ち、サリーシャはおずおずとセシリオを見上げた。
「マリアンネ様とも、デオに乗ってここへ来たのですか?」
「マリアンネと? いや、来てないが?」
「でも、以前はよく相乗りして出掛けたと仰ってました」
沈んだ声でそう言ったサリーシャを見て、セシリオは驚いたように目をみはった。そして、耐えきれない様子で肩を揺らし始めた。
「マリアンネとよく相乗りしたのは、まだ彼女が十歳くらいの頃だ。デオがまだ俺のところに来る前だ」
「……そうなのですか?」
「ああ、そうだ」
「閣下はマリアンネ様と婚約していたって……」
「昔にな。マリアンネが生まれたときに、父親同士が決めた。だが、昔のことだ」
セシリオはゆっくりと大きな手を伸ばすと、サリーシャの頬を包み込んだ。ヘーゼル色の瞳でサリーシャのことを覗き込む。
「それで拗ねていたのか?」
優しく見つめられ、止まっていたはずの涙がまたぽろりと零れ落ちた。
「……閣下は…、わたくしと婚約解消してマリアンネ様とまた婚約されるのですか?」
「なにを、ばかなことを。そんなことをするわけがないだろう?」
セシリオの眉が不愉快げに寄る。
「でも、マリアンネ様のご実家はアハマスに欠かせない存在だって……」
「サリーシャ。マリアンネから何を聞いてどう思ったのかは知らないが、俺はきみと結婚したいと思っている。ほかの誰とでもなく、きみとだ」
両頬を包まれたまま、セシリオの顔が近づき、不意に唇へ柔らかなものが触れた。サリーシャは驚きで目を見開いた。鼻と鼻がぶつかりそうな近距離で、ヘーゼル色の瞳がサリーシャを見つめている。
「それに今、きみは全身で俺を好きだと言っている」
「っ! そんなことは!」
サリーシャは羞恥からカアッと体が熱くなるのを感じた。確かにぼろぼろと泣いて一緒に出掛けたかったと拗ねるなど、セシリオを好きだと言っているようなものだ。
「そんなことは?」
「……」
「聞かせてくれ、サリーシャ。俺が信じられない?」
「いいえ、……お慕いしています」
その言葉を小さく呟いた途端、セシリオはヘーゼル色の瞳を細めて少年のように笑った。
「いいか、サリーシャ。なにも心配はいらない。きみは俺が必ず幸せにしてやる。だから、安心して愛されていていいんだ」
今まで生きてきて、誰かからこんなにも嬉しい言葉を言われたことがあっただろうか。滲む視界にもう一度大好きな人の顔が近づくのを感じ、サリーシャはそっと目を閉じた。




