第二十七話 挑発
食事が終わった後、セシリオはサリーシャとマリアンネを伴って二階の客間に送り届けてくれた。二人とも滞在する部屋は屋敷の二階に位置していたが、サリーシャの部屋の方が階段から近いので、先に到着した。
「おやすみ、サリーシャ」
「おやすみなさいませ。閣下、それにマリアンネ様」
「おやすみなさいませ」
部屋の前でサリーシャは小さくお辞儀する。マリアンネがいるのでいつものような抱擁はなく、あっさりとした別れだ。去って行くセシリオの後ろ姿を見おくりつつパタンとドアを閉めると、シーンとした部屋にはドア越しに、遠ざかってゆく足音がかすかに聞こえた。
「これ、渡せなかったわ」
部屋で一人椅子に腰かけたサリーシャは、ハンカチを眺めながら小さく独り言ちた。今夜、セシリオにこれを渡そうと思っていたのに、二人きりになる機会がなくて渡しそびれてしまった。手元にあるそのハンカチに刺繍された『S』の形を指でなぞると、指先に糸の膨らんだ感触がした。
サリーシャはそのハンカチを眺めながら、先ほどの晩餐会の時のことを思い返していた。マリアンネとセシリオ、モーリスは間違いなく旧知の仲のようだ。それも、マリアンネは子どもの頃の話などもしていたので、ずっと昔からの知り合いだ。
「馬に相乗りで出かけたと言っていたわね」
サリーシャはじっとその刺繍の軍馬を見つめた。
相乗りした馬はセシリオのデオだろうか。どんな状況で相乗りしたのだろう。それを思うと急速にもやもやしたものが胸に広がっていく。昔のことをぶり返しても仕方がないことはわかっている。それなのに、嫉妬せずにはいられない自分がいた。
「親戚ではないと思うし、どういうご関係なのかしら?」
親しげに昔話をする三人の様子を思い返し、サリーシャは一抹の寂しさを感じた。
***
翌日は前日とはうって代わり、朝からしとしとと降り続く陰雨だった。
朝食を終えたサリーシャが部屋に戻り窓から外を覗くと、外はぼんやりと白く霞んでいた。いつもならはっきり見える領主館を取り囲む高い塀も、今日は少しぼやけている。すぐ斜め下に見える馬車寄せの地面には水溜まりができており、降り続く雨粒が水面をしきりに揺らしているのが見えた。
こんな日はお散歩にも行けない。サリーシャはもう一枚残ったハンカチの刺繍をすすめるか、本を読むかで迷い、結局本を読むことにした。一日は長いので、刺繍は午後からでもいいだろう。こういうとき、アハマス領主館の大きな図書室は非常に有難い存在だ。
「ノーラ。わたくしは図書室に行こうと思うのだけど、一緒に行く?」
サリーシャはベッドメイキングをしていたノーラに声をかけた。ノーラは緩んだ布団のカバーをピシッと伸ばしてセットしながら、首を横に振って見せた。
「わたくしはもう少しやることがございますので、どうぞお気にせずに行かれて下さい。早く終わればそちらに向かいます」
「そう? わかったわ」
やるべき仕事を中断させてまで図書室につきあわせるのも心苦しい。サリーシャは部屋に作業するノーラを一人残し、図書室へと向かった。
どれくらい書架に並ぶ本を眺めていただろうか。図書室にはやはり、最近の本も何冊か置かれていた。多いのは領地経営に関する本や軍の指揮に関する本で、それらはきっとセシリオが読むものだろう。ただ、それとは別に女性向けの恋愛小説がちらほらと混じっていた。
「これにしようかしら」
サリーシャは一冊の本を本棚から抜き取った。
『窓際の恋人』と書かれたその小説は、読んだことはないが、とても人気があるお話なので話題として聞いたことがある。針子をしている町娘が、毎日決まった時刻に通りかかる配達員の青年を作業場の窓から見かけるうちに恋をするお話だ。表紙には窓から外を覗く若い娘の姿が描かれており、題名の下に記載された発刊年度は今から八年前だった。
その本を持って部屋に戻ろうと出口に近づいたサリーシャは、そのドアが先にカチャリと開いたので足を止めた。そして、そこから顔を覗かせた人物を認めて、少しだけ目をみはった。
「マリアンネ様?」
そこには、朝食のときと同じ水色のドレスを着たマリアンネが立っていた。昨日の晩餐のときほどではないが、レースがたっぷりと付いた豪華なドレスだ。
「あら。サリーシャ様」
マリアンネの方も少し驚いたように目をみはったので、ただ単に暇つぶしに本を選びに来ただけのようだ。マリアンネはサリーシャより格上の侯爵令嬢だ。サリーシャはすぐに頭を少し下げてお辞儀をした。
「本を選んでましたの。わたくしはもう選び終わりましたので、どうぞごゆっくり」
サリーシャはそう言うと、マリアンネの横をすり抜けて部屋に戻ろうとした。しかしその時、マリアンネがサリーシャを呼び止めた。
「待って、サリーシャ様。ちょっとよろしくて?」
「はい?」
サリーシャは戸惑いつつもそこで立ち止まった。マリアンネは視線を左右に走らせてぐるりと図書室の中を見回すと、廊下と繋がるドアを後ろ手でパタリと閉じた。
「あの……、どうかされましたか?」
「わたくし、少しだけサリーシャ様とお話がしたかったの。ちょうどよかったわ。あそこに椅子があるから、少し座らない?」
マリアンネはにこりと笑って見せると、図書室に設えられた小さなテーブルと、テーブルを挟んで向かい合う一人掛けソファーのセットを指さした。
そして、返事を聞くことなく先に自分がそこに腰を下ろしたので、サリーシャもおずおずとそれに従いマリアンネの前に腰を下ろした。
話の区切りで一話が短めのため、本日二話投稿します。




