第二十四話 愛らしい人
紅茶を片手にゆったりと本を読んでいたサリーシャは、ふと廊下から響く騒がしい物音に気付いた。
この屋敷は廊下が石タイルなので、足音がよく響く。セシリオによると、要塞という特性上、敵が気付かないうちに侵入してきにくいよう、わざとそうなっているのだという。カツンカツンとなる女性用の靴のような足音に、何人かが通るようながやがやとした物音。姿は見えずとも、少なくない人数がサリーシャのいる部屋の前の廊下を通り過ぎて行ったことはわかった。
「何も聞いていないけど、今日はお客様でもいらっしゃるの?」
サリーシャは首をかしげて、部屋に飾られた花瓶の水を変えていたクラーラに尋ねた。今朝も朝食をセシリオと共にしたが、お客様の話は何も聞かなかった。
「どなたでしょう? 使用人の朝会でも聞いておりません」
クラーラも首をかしげる。朝会というのは、執事のドリスからその日の予定などを使用人全員に伝える会のことのようだ。使用人達は毎朝集まって、それを行っているという。
「では夕食の時間にでも、セシリオ様に聞いてみるわ」
サリーシャは壁の機械式時計を確認すると、夕食まではあと三時間ほどある。気を取り直して再び本を読み始めようと、窓際のテーブルに手を伸ばした。
と、その時、テーブル越しの窓から見える屋敷の馬車用の車寄せ付近に、深緑色の軍服を着た大きな男が二人立っているのが見えた。ここでは深緑色の軍服を着た大男は沢山いるが、今見える男性の肩に金色の肩章が付いているのが見えて、サリーシャは窓際に寄った。話し込んでいるもう一人の軍服にも肩章が付いているが、それは銀色だ。目を凝らして、そのうちの一人がセシリオであることを確認したサリーシャは目を輝かせた。
「セシリオ様だわっ」
屋敷の左側の空間に行くことのないサリーシャが昼間にセシリオの姿を見かけることは滅多にない。なんだか無性に嬉しくなって、サリーシャは部屋を飛び出した。
***
マリアンネが本当にここアハマスに来るとは、セシリオにとって誤算だった。
表向きは父親から仕事の話──国境警備に使用する武器や火薬などの購入に関する手紙を預かって届けに来たと言っていた。しかし、手紙など、郵便業を営む専門業者かそのための使者に託すのが普通だ。それに、数日後にブラウナー侯爵本人が来るのであれば、マリアンネがわざわざ先に来たこの来訪に、別の目的があるのは明らかだった。
「本当に来たのかよ。すげーな。ある意味、その面の皮の厚さに畏敬の念すら湧いたよ」
マリアンネが乗った馬車を止める位置などを指示して屋敷に戻ろうとすると、セシリオを追いかけるようにちょうど屋敷から出てきたモーリスが、呆れたような顔で立っていた。
「来るにしても今の時期はちょっとまずいよな。もちろん、お前の結婚のこともあるんだが、例の件が……」
セシリオのすぐ前まで来て顔を寄せたモーリスが、二人にしか聞こえないような小さな声で囁く。それを聞いたセシリオは、ぐっと眉を寄せ、口をへの字にした。
「ああ、想定外だ。しかも、ブラウナー侯爵まで来ると言っていた」
「そりゃ、想定外だ。もう王都にボールは渡したと思っていたんだかな。まあ、しかし、来ちまったもんはしかたがねーな」
モーリスは首の後ろに片手をあて、弱ったような顔をした。
モーリスの言う通り、今マリアンネが来るのは非常に時期が悪い。サリーシャのこともあるが、国から調査依頼されたフィリップ殿下の婚約披露会の襲撃の件で動きがありそうなので、今はとても重要な時期なのだ。マリアンネの相手などしている暇はない。それに、マリアンネの父親であるブラウナー侯爵はよりによって……
「閣下!」
大男二人で厳しい表情で向き合っていると、鈴を転がすような可愛らしい呼び声がした。声がした屋敷の方へ目を向ければ、サリーシャが息を切らせてこちらに駆け寄ってくるところだった。急いで来たのか、少し頬が紅潮して真っ白な肌をピンク色に染めている。
「サリーシャ? どうした??」
セシリオは突然の婚約者の登場に首をかしげた。その途端、サリーシャがピタリと足を止め、しまったというような顔をする。みるみるうちにピンク色の肌は赤色に染まった。
「あのっ…、その……、特に用事はなかったのです。ただ、窓から閣下の姿が見えたので……」
言いにくそうに小さく弁解するサリーシャを見て、セシリオは目を丸くした。どうやらサリーシャは、たまたま窓から外を眺めている時に自分の姿を見つけて、特に用事もないのに飛び出して来たらしい。思いがけない愛らしい姿に思わず顔がだらしなく緩みそうになり、慌てて表情筋にぐっと力を入れた。
「そうか。ちょうどよかった。こちらが前にも話していた、モーリスだ。俺の右腕だ」
努めて平静に横にいたモーリスを紹介すると、モーリスに視線を移したサリーシャの表情がパッと明るくなる。
「まあ、あなたが。初めまして、モーリス様。サリーシャ=マオーニですわ。母君のクラーラにもお世話になっております」
「初めまして。モーリス=オーバンです。以後よろしく」
モーリスがサリーシャの右手をとり、軽くキスをする。馴れ馴れしく触るなとその手を叩き落としたい衝動に駆られたが、そこはぐっと堪えた。静かに見守っていると、モーリスはチラリとセシリオの方を向いて、ニヤリと笑ったような気がした。
「こんな辺境までようこそ、お嬢様。こいつは今、鬼神のごとき恐ろしい顔をしてますが、これはあなたが突然現れたことへの照れと、あなたと仲良く喋る俺への嫉妬心を燃やしているだけなので怖がらないでやって下さいね」
「怖くなどありません。閣下はいつもお優しいですわ」
サリーシャはキョトンとした顔で、少し首をかしげた。そして、ふふっと照れたように笑う。
殺人的な愛らしさである。数々の修羅場をくぐり抜けたセシリオですら、一撃で致命傷を負って白旗を上げそうになり、慌てて気を引き締めた。無理に顔の緩みを是正しようとしたため、益々眉間に皺が寄った。
「ほう? これはこれは。へぇ、ふーん……。じゃあ、俺は戻るよ。お二人はごゆっくりどうぞ」
モーリスが片手を上げてそう言った。笑いをかみ殺したようなニヤニヤした表情を浮かべて。後で覚えていろよ、とセシリオはモーリスを忌々し気に睨み据える。
「あの……、わたくし、お仕事のお邪魔をしてしまいました。申し訳ありません」
しばらく屋敷の方を睨み据えていると、落ち込んだようなサリーシャの声がしてセシリオはハッとした。目を向ければ、サリーシャは目を伏せて、手で自身のドレスのスカートを握りしめている。
「いや、全くもって邪魔ではない」
「でも、閣下は今、怒ったお顔をされています」
サリーシャの眉尻が困ったように下がったのを見て、セシリオは自分がどんな表情になっているか今更ながら気付いた。しかし、表情筋の緩みを隠し通すためにこの表情を崩すわけにはいかなかった。
「仕事のときは大抵この顔だ」
「まあ……、そうなのですか? 大変なお仕事ですわね」
サリーシャは本当に心配している様子で、眉をひそめてセシリオを見上げた。それを見て、もうだめだと思った。サリーシャが可愛らし過ぎるのが悪い。どうやったって勝てそうにない。根性の表情筋の酷使も虚しく、セシリオは声を上げて笑った。
「どうかされましたか?」
サリーシャが目をまん丸にしてセシリオを見上げる。セシリオはくくっと肩を揺らした。
「いや、きみは本当に可愛らしいと思ってな」
そう言った途端にサリーシャの顔は、耳まで真っ赤になる。セシリオはそんなサリーシャの頬に手を伸ばし、そっと撫でた。滑らかで柔らかい感触が、指先から伝わってくる。赤くなっているせいか、いつもより少し熱をもっていた。
「……明日は無理なのだが、明後日であれば半日くらい時間が取れそうだから、約束していたデオの乗馬で出掛けようか?」
「本当ですか? 行きたいです!」
「では、決まりだな」
サリーシャの表情が、大輪の花が咲いたかのように綻び、瑠璃色の瞳が歓喜の色に染まる。セシリオはその様子を愛しげに見つめ、瞳を優しく細めた。




