第二十一話 願い
サリーシャは中庭に立っていた。
初めてここを訪れた時と同じく、通路の石畳はところどころがひび割れ、苔が付いている。花壇になっていたと思われるブロックに囲まれた一部も崩れ落ちているし、全体的に荒れていると思った。
つい先日、セシリオから中庭を管理して欲しいと言われ、鍵を渡された。その時、それをたまらなく嬉しいと感じた自分がいた。
食事に向かうたびに気持ちが浮き立つ自分に、とっくに気付いていた。
微笑まれるたびに胸の鼓動が跳ねることに、とっくに気付いていた。
包み込むように与えられる抱擁に歓喜する自分に、とっくに気付いていた。
そして、頬に触れる温もりに、物足りなさを感じている自分にも……
足元に咲くスミレが目に入り、サリーシャはそれを摘むと顔を寄せた。
「綺麗だわ……」
紫と黄色の花弁は小さくとも、しっかりと自らの美しさを自己主張している。サリーシャは暫くそれを見つめ、ふぅっと息を吐いた。
サリーシャは今も背中の傷のことをセシリオに隠し続けている。それを知られたとき、セシリオはこれまでどおり、あの優しい目で自分を見つめてくれるだろうか。あのヘーゼル色の瞳で軽蔑するような眼差しを浴びせられたら、自分は耐えられないかもしれない。
大切な友とその愛する人を守るために、この身を挺した。後悔など絶対にしないと思っていたのに、この背中の傷さえなければ……、と思ってしまう自分にも嫌気がさす。
「サリーシャ」
ふと呼ばれて顔を上げれば、仕事中のはずのセシリオがいた。廊下を歩いていたようで、ちょうど入り口から階段を降りてくるところだ。
「閣下。お仕事は?」
「ちょっと私室に忘れ物をしたから、取りに戻ったんだ。それで戻る途中に、きみを見かけたものだから」
セシリオは柔らかく微笑むと、右手に持っている封筒を少し高く上げてサリーシャに見せた。白い封筒は一見するだけで上質なもので、赤い封蝋の一部が開封したせいで欠けているのが見えた。
「さっそく中庭の改造計画を練ってくれているのかな? だいぶ荒れているだろう? 俺が小さなころは、まだ母親が管理していた当時の面影があったんだが……」
セシリオは体格がいいので足の長さもサリーシャとは比べ物にならない。あっという間に間合いを詰め、サリーシャの前に立つとぐるりと周りを見渡した。
「あまり、今と変えないようにしようかと思うのです」
「そうなのか? 本当にきみの好きにしてくれて構わないのだが?」
「このお屋敷の方にとってここは何かと感慨深い場所のようなので、出来るだけ今の形を踏襲しようと思います。閣下に何かご希望はございますか?」
「俺の希望?」
サリーシャには好きにしろという癖に、自分が聞かれることは想定していなかったのか、セシリオは黙り込むと顎に手を当てて考えるような仕草をした。二人の間に沈黙が流れ、優しい風が木々を揺らす。
「そうだな。きみとゆっくりできる場所があるといいな」
「わたくしとゆっくり? 大きめのガセボということでしょうか?」
「大きめのガゼボでもいいし、外から見えにくい芝生でもいい」
ニヤッと笑ったセシリオの表情を見て、サリーシャは目をパチクリとした。すぐに、ピンと来た。それは、あの王宮にあったような秘密の場所だろう。
「どうしたいか決めたら、ドリスに言うといい。すぐに庭師を手配する」
柔らかな眼差しでこちらを見つめるセシリオを見返し、サリーシャはぎゅっと胸を掴まれるような痛みを感じた。
そろそろ仕事に戻ろうと背を向けたセシリオを、思わず呼び止めた。
「閣下!」
セシリオは足を止め、ゆっくりと振り返った。こちらを向いたヘーゼル色の瞳が優しく細められる。
「どうした?」
「あの……、わたくしは……。わたくしは、本当にここを管理してよいのでしょうか?」
──あなたに、大事なことを隠したままなのに。
けれど、その言葉は最後まで言えなかった。言ってしまって、この人に軽蔑されることが心底怖かった。
セシリオは少し首をかしげると、もう一度サリーシャの元に戻ってきた。
「もちろんだ。きみに任せたい」
「……でも。でも……、わたくしは……」
「きみは?」
聞き返したセシリオの眉根が僅かに寄り、大きな手がサリーシャの頬を撫でた。節くれだった指が両頬を滑り、サリーシャは自分が泣いていることに気づいた。
「……わたくしは、相応しくないのです」
やっと口からこぼれ落ちた言葉を聞き、セシリオはサリーシャの両頬を包んだまま、その瑠璃色の瞳を覗きこんだ。
「そんなことはない。だが、一人では心配なら、一緒に考えようか。まだここに来たばかりで、不安なんだな。気づいてやれなくて、悪かった」
両頬から手が離れ、代わりに体がすっぽりと包まれた。毎晩のような、優しい抱擁。大きな手が背中を優しく撫でる。サリーシャはその温もりにすがりたい気分になり、大きな背中に手を回した。
──わたくしは、この人にだけは、嫌われたくないのだ。ずっと抱きしめられて、安心させて欲しいのだ。そして、できる事なら、愛して欲しいのだ。
それは、酷く自分勝手な欲望だ。自分は隠し事をしながら、相手には愛情を求める。けれど、どうしても失いたくなくて、サリーシャは背中に回した腕の力を込めた。
「今日は、随分と甘えん坊だな」
「……ダメでしょうか?」
「いや、構わない」
答える声は、少しだけ笑いを含んでいた。背中に回るセシリオの手がポンポンとあやすようにサリーシャの背を規則正しく叩く。
今はその幸福な感覚に浸りたくて、サリーシャはそっと目を閉じると広い胸に頬を寄せた。




