第十八話 シロツメクサ
サリーシャは斜め前に立つセシリオの後ろ姿をまじまじと見つめた。
今日はいつもの深緑色の軍服を着ておらず、真っ白なシャツと黒いズボンを履いている。けれど、その体格のよさから普通の人にはとても見えない。つまりは、衛兵にしか見えない。そのセシリオと小柄な小麦屋の店主が話し込んでいる姿は、さながら職務質問しているかのように見えた。
「──ということは、入荷量は例年より一割ほど少ないということだな?」
「そうだねぇ。今年はほら、あのバクガの幼虫が至る所で付いちまってよ」
「わかった。他のところも同じようなことを言っていた」
「でも、味は変わんねえよ? また買ってくれよ」
「知っている。アハマス領主館にまた届けてくれ」
セシリオの最後の言葉を聞いた小柄な小麦屋の店主はホッとした表情を見せる。品質が落ちて一番の大口顧客であるアハマス領主館から取引量を減らされるのを恐れたのだろう。そして、先ほどからセシリオと話しながらチラリチラリと視線を向けていたサリーシャのことを、上から下まで舐めるようにジロジロと見つめた。
「ところで領主様よ。今日のこの綺麗なお連れさんはどうしたんだい?」
「俺の婚約者だ」
「へえ!」
小麦屋の店主は驚いたように目を見開き、まじまじとサリーシャを見つめる。
「ここらじゃ見かけないすごい美人だな。瞳の色が珍しい色だ。青……とはちょっと違うな」
「ああ、綺麗な瞳だろう? 今日初めて街に出たんだ」
「──領主様、そりゃ、デートだな? デート中に仕事しちゃダメだろう? 愛想つかされるぞ。それなら、そうだな……。おすすめはあっちの公園だ」
眉をひそめた小麦屋店主が通りの向こうを指さす。デートのおすすめ場所を紹介され、セシリオとサリーシャはこの日だけで四件目となる小麦屋を後にしたのだった。
沈黙したまま横を歩くセシリオが、少しだけ気まずそうにサリーシャを見下ろす。
「……ドレスでも見に行くか?」
「いえ。沢山持っていますわ」
サリーシャは首を振った。ドレスなら、マオーニ伯爵家で用意されたものをたくさん持ってきたので不自由していない。それに、アハマスでも事前に普段使い用を数着用意してくれていた。
「では、宝石でも」
「宝石も持参したものがありますから、大丈夫ですわ」
「……そう」
セシリオは困ったように答えると、沈黙した。
その様子を見てサリーシャは、もしかしてセシリオが先ほどの小麦屋さんで言われたことを気にしているのかと気づいた。本当にこの人は……と胸がじんわりする。
「閣下。では、侍女達にお土産を買いたいので、お菓子屋さんに連れて行ってくださいませんか。それに、先ほど教えていただいた公園にも行ってみたいです」
「! 菓子屋と公園か。わかった」
役目を与えられた子供のように笑うその姿を見て、サリーシャは頬を綻ばせた。
***
教えてもらった公園は、大通り沿いにある大きな公園だった。道に沿った長細い形をしており、中には花壇や芝生広場、噴水などが設えてある。午前中ずっと歩きっぱなしだった二人は芝生の上に腰を下ろすことにした。
「あら、このハンカチ……」
サリーシャは芝生に敷かれた見覚えのあるハンカチを見て、小さく呟いた。
「ああ、済まない。今、これしか持っていなくてな。きちんと洗うから」
セシリオがサリーシャの服が汚れないようにと敷いてくれたハンカチには、シルクハットと『S』のアルファベットが刺しゅうされていた。初めて会った日、サリーシャが持っていたものだ。スカチーニ伯爵の『S』を刺しゅうしたものだったのだが、口の回る義父のマオーニ伯爵はセシリオのためにサリーシャが刺したものだとうそぶき、そのままセシリオの手に渡った。
──こんなところにも、わたしは嘘をついているのね。
サリーシャはそのハンカチを無言でしばらく見つめてから、おずおずとそのハンカチの上に腰を下ろした。セシリオは汚れることなど気にならない様子で、そのままゴロンと芝生に横になる。心地よい風が吹き、陽の光が温かく辺りを照らしていた。
セシリオは頭の横にひょろりと生えたシロツメクサを一輪手に取ると、それを頭の上に上げてぼんやりと眺めていた。
「今日は、花冠は作らないのか?」
「花冠?」
「きみと初めて会った時に、王宮の庭園でこれで作った花冠を貰った。ここの平和を守る俺に敬意を表して、と言って」
セシリオはシロツメクサを見つめたまま表情を綻ばせると、ゆっくりとサリーシャに視線を移した。それを聞いた瞬間、すぐに一つの遠い記憶とリンクしてサリーシャは目を見開いた。
「……閣下は……もしかして、あの時のお兄さん?」
「ああ、そうだよ。きみは小さかったけど、おぼえているんだな」
「だって……、あそこに来た人はフィル以外では後にも先にもあのお兄さんしかいなかったわ」
「そうか。実は、フィルにあの場所を教えたのは俺だ」
セシリオはフッと笑った。サリーシャはぼんやりとセシリオを見つめる。
もうずいぶんと昔のことで、記憶が曖昧だ。けれど、一度だけフィリップ殿下以外の男性が待ち合わせ場所に訪れてきて、花冠をプレゼントしたのは覚えている。あれは確か……
「わたくし、閣下の気持ちも知らずに勝手なことを申し上げました」
「なぜそう思う?」
「だって……」
サリーシャは顔を俯かせた。
あの日はアハマスで起きた戦争の祝勝記念式典だった。後から聞いた話で、戦況はとても厳しく激しいものだったと知った。
あの時、あのお兄さんは「沢山やっつけた」と言って自嘲気味に笑った。それは恐らく、そういうことなのだろう。それに、クラーラから先代のアハマス辺境伯もあの戦争の傷が元で亡くなったと聞いた。つまり、セシリオはあの当時、父親も失ったばかりだったのだ。
言葉に詰まるサリーシャの頭に大きな手が伸びてきて、ポンポンと撫でた。
「あの日、自分が何もかも嫌に感じていた俺は小さなレディの言葉に心底救われたんだ。ありがとう」
こちらを見上げるヘーゼル色の瞳が優しく細まる。
「違う」とサリーシャは思った。救われたのはサリーシャの方だ。当時は国境付近で戦火を鎮圧し、文字通り物理的に守られた。今は老人伯爵に売られそうになっていたところを、間一髪で救われた。そして、サリーシャに、このようによくしてくれる。
「救って下さるのは、いつだって閣下ですわ」
セシリオはゆったりと上半身を起こすと、少しだけ首をかしげた。
「いや、きみだ」
ゆっくりと大きな手がサリーシャの顔に近づく。マメだらけの手は優しく頬を撫で、髪をすいた。
「俺はきみに救われた。俺がそう思っているのだから、間違いなくそうだ」
低い声と落ち着いた口調は彼の真摯さを感じさせる。サリーシャはそっとその瑠璃色の瞳を伏せた。
襲ってきたのはとてつもない罪悪感。
「閣下。このハンカチは汚れてしまったから、お返しできませんわ」
サリーシャは少しだけ身体を離し、セシリオを見上げた。セシリオは困惑したように眉を寄せる。
「だから、新しいハンカチに刺繍して差し上げます。午後は裁縫用品店に連れて行ってくださいませ」
サリーシャのおねだりに、セシリオが小さく目を見開く。
今度は『セシリオ』の『S』を刺しゅうしたハンカチをプレゼントしよう。この人についてしまった嘘を、少しでも減らしたいと思った。




