第十六話 図書室
その日の朝もセシリオと食事をしていたサリーシャは、セシリオの発した言葉にふと手を止めた。
「図書室……で、ございますか?」
「ああ、そうだ。もう行ったか?」
「いいえ、まだです」
サリーシャは小さく首を振った。そう言えば、初日にセシリオから屋敷内に図書室があると聞いた気がする。
「古い歴史書から、ちょっとした小説まで色々と揃っているはずだ。ここは辺境なので、さすがに最新の流行本はないのだが、欲しいものがあればドリスに言って揃えさせよう。……本は好き?」
「はい! 好きです」
「そうか。では、このあと案内しよう」
「ありがとうございます」
サリーシャは思わず両手を胸の前で固く握りしめた。
本は好きだ。
マオーニ伯爵に引き取られてからの勉強は辛いことも多かったが、それでもサリーシャがやってよかったと思い、マオーニ伯爵に深く感謝していることの一つに、文字の勉強がある。
マオーニ伯爵邸に来る前のサリーシャは、文字が読めなかった。そのため、サリーシャが知る物語は身近な人が語り伝えるごく僅かなものだけだった。
それが自分で文字が読めるようになると、これまで知らなかったようなお話を沢山知ることが出来た。行ったこともない遠い地のお話もあれば、サリーシャが想像すらしないようなファンタジーのお話、はたまた既に亡くなって何年も経った人の手記もあった。何よりも、長いお話が読めるようになったのが嬉しかった。
サリーシャが嬉しそうに瑠璃色の瞳を輝かせるのを眺めながら、セシリオも優しく目を細めた。
セシリオに案内されたのは、居住スペースとなる建物の二階部分、サリーシャが今滞在している部屋と同じフロアに位置していた。階段部分から見ると、二階の長い廊下には同じようなドアがいくつも並んでいるように見えるのだが、サリーシャに宛がわれた部屋を通り過ぎて更にその廊下を奥に進むと、曲がり角がある。その曲がり角のすぐそこに両扉のドアがあり、そこが図書室になっていた。
ドアを開けると、独特の匂いがすんと香った。紙と、インクのような匂いだ。
「まあ。とても広いのですね」
サリーシャは入り口から中をぐるりと見渡した。見える範囲でもかなりの広さがあることは明らかだった。
「ああ。この屋敷が建った時から少しずつ集められた本が揃っている。アハマスという土地柄、ダカール国の本もある。それに、兵法が記された本が多いな。歴代のアハマス辺境伯夫人が使っていたから女性向けの本もそれなりにあるはずだ」
「少し見てみても?」
「もちろん。ここにある全ての本を好きにする権利が、きみにはある」
サリーシャは少し浮ついた気分のまま、図書室の書架の間を歩いた。廊下は石タイルだが、部屋の中は絨毯が敷かれているため、靴の裏から絨毯の柔らかな感触が触れた。部屋はサリーシャが滞在している客室を二部屋潰したくらいの広さがある。目測で約一メートル間隔に並んだ本棚は三分の二ほどが埋まっており、残りの三分の一は何も入っていない。きっと、この先もここで暮らす人々が買い足していくのだろう。
ざっと歩き回って背表紙を眺めると、「兵法」だとか「陣の組み方」だとか、やはり戦術に関わる本が多そうだ。しかし、そんな中にも刺しゅうのデザイン集やお花の図鑑、ファッションの本や旅行記や恋愛小説らしきものもあるのが見えた。
「とても素晴らしいですわ。わたくし、しばらくはここに籠ってしまいそう」
「籠るのもいいが、適度に息抜きして過ごしてくれ。外に出たかったら、言ってくれれば護衛もつける」
セシリオは興奮気味に本棚の一部を見つめるサリーシャの様子を見て、くくっと小さく笑う。
「やはり、きみは笑顔の方がいい」
「はい?」
「ここに来てからのきみを見ていると、時々なにか思い詰めたように暗い表情をしている。きみは笑顔の方がよく似合う」
セシリオの言葉を聞き、サリーシャは驚いた。セシリオは時々塞ぎ込むサリーシャに気付き、気分転換をさせようとここを紹介したのだろうか。
「どうした?」
「閣下はお優しいですね」
「そう? 婚約者殿を大切にするのは、当然だろう?」
そう言ってセシリオはサリーシャに手を伸ばす。大きな手が優しく頬に触れ、胸の鼓動がトクンと跳ねた。セシリオは婚約者に対する礼儀として優しく接している。それなのに、自分が愛されているから優しくされているのだと、サリーシャは勘違いしそうになる。
「っ、ありがとうございます」
「どういたしまして。その顔を見られただけで、十分だ」
セシリオは立ち並ぶ書架の方をちらりと見た。
「どんな本が好き?」
「お姫様が出てくるようなおとぎ話も好きですし、旅行記も好きです。あとは、冒険物語とか……」
「そうか。また後で、ゆっくり聞かせてくれ」
セシリオは口の両端を少し持ち上げると、「では、俺は仕事に行くから」と図書室をあとにしようとした。しかし、背中を見せたと思ったらすぐにこちらを振り向いた。なにかを言い忘れたのだろうかと、サリーシャは小首をかしげる。
ゆっくりとセシリオの顔が寄り、頬に柔らかな感触が触れた。
***
サリーシャは一旦自室に戻った後、侍女のノーラを連れて早速図書室に向かった。ノーラも本が好きなので、喜ぶと思ったのだ。
「まあ、まあ、まあ! 素晴らしいですわね。マオーニ伯爵邸よりも、沢山あるのではないかしら?」
「そうなのだけど、半分近くが兵法とか戦術の本なのよ。わたしたちが読むような本は、そこまで多くないわ」
「それでも十分でございます」
「そうね。沢山だわ」
口元を綻ばせるノーラを見て、サリーシャも微笑んだ。
ノーラは早速書架の隙間に立ち、本の物色を始める。すぐに何冊かを抜き取り、胸に抱えた。そして、さらに本を選ぼうと本棚を眺めていたのだが、ふと一冊の本の背表紙に目を留めると、懐かしそうに目を細めた。
「お嬢様。これ、マオーニ伯爵邸にも置いてあったものですわ。お嬢様が大好きで、何度も読んでいた──」
「本当? どれ??」
サリーシャはノーラの声に反応してそこに駆け寄った。横から並んでいる本の背表紙を覗きこむ。
「まあ! 本当だわ。わたし、これ好きだわ。確か、森の精霊と騎士様の恋物語ね?」
サリーシャは表情を明るくしてその本を本棚から抜き取った。『森の精霊と王国の騎士』と書かれたそれは、確かにサリーシャの知る本だ。確か、サリーシャがマオーニ伯爵に引き取られて一年ほどした頃に発刊され、大人気となった。サリーシャが必死で文字を覚えた理由の一つは、この本が読みたかったからでもある。
「最近の本もあるのですね」
「そういえば、そうね。これは、発刊が七年前?」
サリーシャは持っている本の表紙を眺めた。馬を連れて歩く騎士が森の中の湖の川辺に座る精霊の乙女と見つめ合う景色が描かれたそれは、物語冒頭の二人の出会いのシーンだろう。絵の上には本の題名と作者名、書かれた年度が記されている。
七年前と言えば、前アハマス辺境伯夫人は既にこの世を去っている。当時既に二十歳を過ぎていた、しかも男性であるセシリオが読んだとも思えない。
「使用人用に購入したのかしら?」
サリーシャは首をかしげてさらりと本の表紙を撫でた。見下ろしたそれは、まるで新品のように真新しかった。




