第十五話 おやすみと言われたのは
夕食の場に、セシリオは約束通り時間に遅れることもなく現れた。まだ仕事が終わっていないのか、アハマスの軍服である上下深緑色の服を着ている。
「もしかして、まだお仕事中でいらっしゃいましたか?」
その姿を見て立ち上がったサリーシャがおずおずと尋ねると、セシリオは気にするなと片手を横に一度振った。
「俺の仕事はアハマスの領地経営だけでなく国境を守る必要があるゆえ、突発任務やトラブルで遅くなることも多いんだ。つまり、その日のその時間にならないと何時に仕事が終わるかはわからない。気にしないでくれ」
「でも、仕事を中断させてしまってご迷惑だったのでは?」
「きみがいてくれるおかげで夕食を取りに戻れた。むしろ感謝すべきところだ。明日からもきみを言い訳に食事に戻れるな」
セシリオはサリーシャと目が合うと、いたずらっ子のように目を細めた。そして、何かに気付いたようにピタリと視線をサリーシャに留めた。
「あの……、閣下? 閣下の用意して下さったドレスを着てみたのですが、どうでしょう?」
サリーシャはおずおずとセシリオを見上げた。散歩から帰ってきた後、早速普段使い用の水色のドレスに着替えてみたのだ。シンプルなスカートの裾を少しだけ持ち上げると、セシリオは口元に手を当てて上から下まで視線を動かしてから、朗らかに笑った。
「とても似合っている。やはりきみは何を着ても可愛らしいな」
「まぁっ! ありがとうございます」
サリーシャは思いがけないストレートな褒め言葉に思わず頬を赤らめた。
よく、舞踏会の会場で歯の浮くような甘言──例えば、「きみの美しさには夜空に煌めく星も嫉妬する」だとか、「バラのように可憐なきみに近づく栄誉を」などと言ってくる輩はいた。しかし、こんなにも直球な誉め言葉を贈ってくる人はかえっていなかった。
機嫌がよさそうなセシリオが椅子に座り、サリーシャも椅子に腰を下ろした。主の片手を少し前後させる合図に合わせ、給仕人が食事を運んできた。
今朝、サリーシャはどうか自分に気を遣わずに普段通りの食事にして欲しいとお願いした。毎回毎回多くの余りものを出すのは心苦しいし、幼いころを田舎の農家で過ごしたサリーシャは食べ物の大切さを痛いほど知っている。
その希望が通ったようで、給仕人がサリーシャの前に置いたのは、サラダの入った小さなボールが一皿と、メインディッシュの肉料理と温野菜のプレート、パン、コーンスープだった。セシリオの方を見ると、同じ料理が皿に盛られて置かれている。サリーシャが予想したとおり、そのお皿はどう見ても大皿料理に使われるサイズであり、盛られた量はサリーシャのゆうに三倍くらいはありそうだったが。
「普段はこのような料理なのだが」
二人に食事が用意されると、セシリオがサリーシャの反応を窺うように言った。サリーシャはセシリオを見返した。サリーシャには、なんの問題もない食事だ。美しく盛られているし、野菜と肉もバランスよく入っている。端的に言えば、とても美味しそうだ。
「十分です。ありがとうございます。マオーニ伯爵邸でも、似たようなものでしたわ」
「そうか。よかった」
セシリオはホッとしたように笑うと、「では頂こうか」と言った。
「はい。頂きます」
サリーシャはその態度に少し違和感を覚えたものの、セシリオが何事もなかったようにナイフとフォークを手にしたのを見て、自分も食事を始めた。
朝食もとても美味しかったが、夕食も見た目どおり美味しかった。肉は柔らかく食べやすいし、味付けも程よい塩気や甘みがちょうどよかった。きっと、ここの調理を担当するのはとても優秀な料理人なのだろう。
「その様子だと、口には合う?」
「もちろんです。とても美味しいです」
「それはよかった。王都は華やかだから、このような田舎くさい料理は口に合わないと言われないか、皆心配していた」
「毎日夜会のような料理を食べる方が疲れてしまいます。わたくしはこの料理がとても好きですわ」
「そうか」
セシリオはそれを聞いて笑顔で頷くと、少し沈黙してから「ここに来てくれたのがきみでよかった」と小さく呟いた。
「ところで、我々の結婚式なのだが、三ヶ月後を考えている。きみはドレスを作る時間が必要だろう? 今日、結婚しているものに聞いたところ、完全オーダーメイドで作成すると最低一ヶ月以上はかかると言われた。ここは辺境ゆえに、招待客はあまり呼ばずに内輪で済ませようとおもうのだが、色々な準備を考えるとやはり三ヶ月は必要だとドリスも言っていた。どうだろう?」
「結婚式でございますか……」
サリーシャはその言葉を聞き、戸惑った。
ここの人達が皆いい人なので居心地がよくてすっかりと忘れていたが、自分はここにアハマス辺境伯夫人となるために来たのであり、遊びに来たわけではないのだ。結婚式をすれば、サリーシャはセシリオの妻となる。妻となれば、この背中の傷は隠し通せない。
「……三ヶ月は、少し早すぎませんこと?」
カラカラに乾いた喉を絞り出してやっとのことで出てきたのは、そんな台詞だった。
時間稼ぎをしても行きつく先の未来は同じだ。けれど、サリーシャは図々しくも、思った以上に居心地のよいこの地に、少しでも長くいたいと思ってしまった。
「早すぎるか? ドリスには三ヶ月あれば大丈夫だろうと言われたのだが……。俺はこういうことにあまり詳しくない。確かにドレスを作るのにもっと時間がかかる可能性もあるし、きみが早すぎるというなら、そうなのかもしれないな」
セシリオは特に疑問を持つ様子もなく納得したように頷くと、「では、きりよく半年後で調整しようか」と微笑んだ。その笑顔があまりにも眩しすぎて、サリーシャは泣きたい気分になって、そっと瞳を伏せた。
夕食後、セシリオはサリーシャを階下の部屋までエスコートしてくれた。差し出された腕に手を回すと、触れるのは分厚い軍服の感触と、その上からでもわかるほど筋肉質な腕。今までの夜会で貴族のご子息方にエスコートされた時に触れた上質な綿や絹の感触とも、程よくスレンダーな腕とも全く違う。
「今日もゆっくり休むといい。湯あみは、クラーラとノーラが少ししたら用意しに来るはずだ」
「はい。ありがとうございます」
部屋の扉を開けてこちらを向いたセシリオを見上げて、サリーシャはお礼を述べた。こちらを見るヘーゼル色の瞳とまっすぐに目が合い、どきりとする。
「サリーシャ」
「はい?」
サリーシャが見上げると、ゆっくりとセシリオの手が近づき、サリーシャの頬をさらりと撫でた。
「おやすみ。よい夢を。また明日」
すぐに手は離れ、そう言うとセシリオは微笑んだ。
「はい。おやすみなさいませ、閣下」
サリーシャは小さくお辞儀をする。
パタンと閉じたドアの向こうから、遠ざかる足音が聞こえた。
ノーラ以外の誰かから『おやすみ』と微笑まれたのは何年振りのことだろう。触れられた頬に重ねるように右手を被せると、サリーシャは閉じたドアにもたれ掛かかって天を仰いだ。
明日より更新頻度を落とします。当面は一日一話投稿が目標です。




