第十四話 中庭②
ここに来てから気付いたが、セシリオには両親がいないようだった。あの歳で辺境伯なのだから父親である先代のアハマス辺境伯が亡くなっていることはなんとなく想像がついていたが、母親も居ないことは少し意外だった。その質問をしたとたん、明るかったクラーラの表情が曇る。
「その、産後の肥立ちが悪くて……。旦那様を出産されて暫くして儚く──」
「……そう。辛いことを思い出させてしまったわ。ごめんなさい」
「いえ、滅相もございません」
慌てた様子でクラーラは頭を下げた。サリーシャはその様子を見つめながら、数時間前に朝食を共にした男性のことを思い返した。
「では、閣下には幼いころから母君がいらっしゃらないのね。でも、乳母はいたのよね?」
「実は……、乳母は僭越ながらわたくしが務めさせていただいておりました」
クラーラが申し訳なさそうに肩を竦める。
「まあ、そうなのね。どうりで。先ほどの食事の席でのクラーラと閣下のやり取りを見ていて、まるで子供とそれを窘める母親のようだと思っていたの」
サリーシャはふふっと笑った。
先ほどの席で、クラーラがセシリオの無作法を窘める場面が何回かあった。セシリオはアハマス辺境伯であり、ここでは一番偉い人物だ。いくら古参の侍女とはいえ、随分と砕けていると不思議に思っていた。そういうことであれば、すんなりと腑に落ちる。
「閣下はどのようなお子様でしたか?」
「旦那様は、それは素直で、頑張り屋で。とても可愛らしいお子様でしたわ。うちの息子といつも剣の打ち合いをして遊んでましたのよ。あ、わたくしには旦那様と同じ歳の息子がおりまして、これまた僭越ながら旦那様の右腕としてお傍においてくださっておりますの」
クラーラは当時を思い出したのか、急に饒舌に喋りだした。小さなころの失敗エピソードまで喋ろうとして、はっとしたように口元に片手を当てる。
「まあ、申し訳ありません。一人でべらべらと。お喋りが過ぎましたわ。わたくしったら、つい」
「いいのよ。閣下が皆に愛されて育ったことがよくわかりました。ありがとう」
クラーラは申し訳なさそうに恐縮していたが、サリーシャの微笑んだ表情を見て安堵の色を浮かべた。そして、辺りを見渡してから急に表情を明るくし、ポンと手を叩いた。
「そうだわ。サリーシャ様、これからはサリーシャ様がここの女主人ですから、ここも管理されてはいかがでしょう? きっと、旦那様もお喜びになりますわ」
「わたくしが、ここを?」
「はい。この屋敷に女主人ができるのは約三十年ぶりですのよ。ええっと、正確には二十八年ぶりかしら」
クラーラはいいことを思いついたとばかりに頬を緩める。
約三十年ぶりと聞いて、サリーシャは、ああ、なるほどな、と思った。先ほど通った中庭に繋がる階段は苔だらけだったし、ちらりと見かけたガゼボは一部が朽ちて崩れ落ちていた。それに、今歩いている石畳も至る所がひび割れており、一部を苔と土が覆っている。
確かに、ここの庭園には管理する人間が必要だ。きっと、ここの主人亡き後も侍女たちが合間を見つけては世話をしてきたのだろうが、それでも限界はある。
「でも、わたくしがやって、いいのかしら?」
サリーシャは辺りを見渡して呟いた。
「もちろんです。わたくしからも旦那様にお願いしておきますわ」
クラーラはにっこりと笑う。
サリーシャはその笑顔を見てチクンと胸が痛み、目を伏せた。
この庭園は先代のアハマス辺境伯夫人が管理していた庭園。ならば、本当のアハマス辺境伯夫人が管理するべき場所だ。背中の醜い傷という重大な瑕疵があるにも関わらず、それを隠した状態でここにいる自分に、その資格はないと思った。
クラーラはそんなサリーシャの様子には気付かぬようで、嬉しそうに話を続ける。
「わたくし共もサリーシャ様がいらっしゃるのを楽しみにしておりましたが、特に旦那様は、それはそれは楽しみにしていらしたんですよ。足りないものは無いかと何度も何度も私やドリス様や、うちの息子にまでしつこく確認して。さきほどのドレスも、わたくし共が止めなかったら十着以上は買っていたと思います。サリーシャ様のお好みを聞いてからにしましょうとお伝えしたら、やっと四着に落ち着きましたのよ」
「……そうなの?」
サリーシャは意外な話に目を丸くした。そう言えば、ここに着いたときも、朝食のときも、セシリオはしきりに足りないものは無いかと気にしていた。
きっと、とても優しい人なのだろうな、とサリーシャは思った。
「サリーシャ様、どうかされましたか?」
「いえ、何でもないの。とても素敵なところだったわ。ありがとう」
気付けば、クラーラが心配そうにこちらを見つめていた。サリーシャは口の端を持ち上げて、心配させないように微笑んで見せる。クラーラは少しだけ戸惑ったような表情を見せたが、すぐに気を取り直したように穏やかな表情でサリーシャを屋敷へと促した。
「まだお疲れが残っているようですし、そろそろ戻りましょう」
「ええ。ありがとう」
サリーシャも同意して、束の間の散歩を終わりにする。最後にもう一度庭園を見渡した。
──ここをわたくしが管理して美しく蘇らせたら、あの人は喜んでくれるかしら?
そんなことがふと頭によぎる。だがすぐに小さく首を振って、サリーシャはその場を後にした。




