辺境の獅子は優しい夢に誘(いざな)われる
辺境伯であるセシリオは元々忙しいが、最近は王都やプランシェに行くなどして長期で不在にすることが多かったため、忙しさに拍車がかかり、多忙を極めていた。
「セシリオ。あんまり根詰めるな」
「わかっている」
書類を持参したモーリスに諭され、セシリオはため息交じりに机に積み重なったものを見た。そこには、セシリオの決裁待ちの書類が山積みになっていた。
すぐに書類に目を移し黙々と作業を始めたセシリオを見て、モーリスは嘆息する。ずっと働き詰めの幼馴染を休ませてやりたいが、セシリオがこれをやらないと部下の政務官達が困るのもまた事実なのだ。
「なんとかならんものかな……」
ぼやきながら領主館の廊下を歩いていると、ちょうど向かいから休憩用の軽食を持参する侍女がやってくるのが見えた。
放っておくと、セシリオはろくな休憩も取らずに働き詰めになる。それを防止しようと、クラーラの発案で数年前からこうして決まった時間になると侍女が休憩用の菓子とお茶を持参するようになったのだ。
最近は、サリーシャがお菓子を作って、それが休憩用の菓子として運ばれることも時々ある。そういうときは、セシリオのいつも険しい表情がふわりと緩むのだ。
「あいつ、奥様絡みだとちゃんと休憩するんだよな」
そのとき、ふと閃いた。セシリオは、サリーシャ絡みの用事があれば、きちんと休憩するのだ。現に、どんなに忙しくとも屋敷に戻ってサリーシャと一緒に夕食をとるし、たとえその後執務室に戻ってきたとしてもサリーシャが寝る時間に合わせて必ず仕事を終わらせる。
たった五分でも、しっかりと休憩してリフレッシュするのとしないのでは、疲労の溜まり具合もその後の仕事の効率も全く違う。
早速サリーシャに相談しに行こうと、モーリスは居住棟へと向かった。
その日もセシリオは朝から執務室で仕事にかかりっきりだった。書類から視線を外すと鼻の付け根と目頭の辺りをぐりぐりと押さえる。ずっと書類を眺めていると、目の奥が重くなってくる。元々体を動かすことが好きなセシリオにとって、書類と向き合う仕事はなおさら疲れを感じさせた。
その時、ドアをノックする音がしてモーリスが顔を出した。
「セシリオ。そろそろ休憩時間だ。今日こそ休めよ」
「わかっている」
「そうだな……、十五分だ」
「五分」
「いいや、十五分だ」
「……一〇分」
「わかった。一〇分経ったら声を掛けるからそれまできちんと休めよ」
ドアが閉まったのを見計らい、セシリオは嘆息する。その直後、再びドアをノックする音がした。
「入れ」
休憩用の軽食とお茶を運んできたと思ったセシリオは碌に確認もせずにそう言った。ところが、ドアが開いて驚いた。そこには笑顔のサリーシャがいたのだ。
「休憩にしましょう。あんまり働き詰めはよくありませんわ」
すぐにモーリスの差し金だと気付いたが、せっかくサリーシャが来てくれたのだから少し一緒に過ごすのも悪くないかと思い直す。サリーシャは菓子を厨房で焼いたのだと言い、いつものようにセシリオに食べさせようとしてきた。甘い味わいが口いっぱいに広がる。
「セシリオ様、きちんと休憩して下さいね。万が一にもセシリオ様が倒れたら、大変です」
「ああ。これ以上仕事を溜めたら大変だ」
ため息交じりにそう言った瞬間、穏やかだったサリーシャの表情が険しくなる。
「そういうことではありません」
「サリーシャ?」
普段は怒ることなどないサリーシャのこの反応に、セシリオは戸惑った。形のよい眉は顰められ、こちらを睨んでいる。
「わたくしはセシリオ様の体を心配しているのです。いくら働いても平気な人など、存在しません。お仕事より、セシリオ様の方が大切ですわ」
セシリオはまじまじとサリーシャを見つめ、相好を崩した。自分を心配してこんなに怒ってくれるなど、なんとも可愛らしい。
「わかった、わかった。では、これを食べ終わったらサリーシャが休ませてくれ」
「わたくしが?」
「そうだ」
首を傾げるサリーシャの膝の上に寝転ぶとさすがに驚いた顔をされたが、すぐにサリーシャは嬉しそうに笑う。そして、微笑みながらセシリオの髪を撫でてきた。いつもはサリーシャの髪をセシリオが撫でるので、今日は立場が逆だ。
華奢な指で髪を梳かれるのは思いのほか心地いい。今日も朝からずっと書類を睨みっぱなしで、疲れが溜まっていた。
***
セシリオの執務室の前に立ったモーリスは、胸元から懐中時計を出して時刻を確認した。
「よし、そろそろだな」
ぴったり一〇分経ったことを確認して、ドアをノックしてから扉を開ける。
「セシ……」
ソファーに腰かけたサリーシャはモーリスと目が合うと、右手の人差し指を口元に当てて静かに、と促す。それを見て、モーリスは口を噤んだ。そして、思わぬ光景に驚いた。サリーシャの膝の上に頭を乗せ、セシリオがすやすやと眠っている。
目が合ったサリーシャがにこりと笑う。モーリスはそっとドアを閉じて退出した。
「…………。三〇分だな」
セシリオが執務室であのように無垢な寝顔を晒しているのを見るのは、モーリスも初めて見た。それだけサリーシャがいると気が休まるのだろう。
いつも働き詰めなのだから、たまにはこんな日があってもいいだろう。少しゆっくりとさせてやりたい。補佐官を増やしてセシリオの負担を少しでも減らす検討を本格的に始めようと思った。
***
モーリスを見送った後、サリーシャは膝の上に頭を置き穏やかに眠るセシリオの顔を覗き込んだ。長い睫毛が目元に影を作っている。
「セシリオ様、いつも皆のためにありがとうございます」
眠るセシリオはなんの返事も返さない。それだけ疲れが溜まっていて、よく眠っているということだ。アハマスのために、まさに身を粉にして働いている。
──どうかわたくしが、セシリオ様の心休まる場所でありますように。
そんなことを思いながら、愛しい人の髪に再び指を滑らせた。




