父の面影(メラニー視点)
八歳のとき、優しかった母が亡くなった。つい数日前までは朗らかに微笑み、夜眠る前はベッドサイドで本を読んでくれていたのに、呆気なく儚くなってしまった。
母は幼いわたくしから見てもとても美しい人で、艶やかな栗色の髪とヘーゼル色の瞳を持ち、よく歌を口ずさみながらわたくしの髪を結い上げてくれた。
父は辺境伯という立場からか、いつも厳しい表情をして皆から恐れられていた。けれど、そんな父も母の前ではとても優しい表情をしていた。母が亡くなった日の夜、わたくしは寂しくて父の執務室をこっそりと訪れた。一人声を押し殺して泣く父の姿を見たのは、後にも先にもこの一回だけだった。
「メラニー様、こちらが弟のセシリオ様ですよ」
母が亡くなってから数日した頃、父に促されて侍女のクラーラの部屋に行った。クラーラに言われて真新しいベビーベッドを覗くと、もぞもぞと動く小さな赤ん坊がいた。顔を覗き込むと、見えているのかいないのか、赤ん坊はぼんやりとこちらを見つめている。恐る恐る指を差し出してその小さな手に触れると、キュッと指を握られた。
──可愛いわ。
赤ん坊は自分と同じくヘーゼル色──母と同じ色の瞳をしていた。
母が亡くなったとき、父はまだ三十歳になったばかりだった。周りはしきりに再婚を勧めたけれど、父は決して頷かなかった。
母がいないこともあり、弟のセシリオは姉であるわたくしをとても慕ってくれた。
歩けるようになると、よちよちしながらわたくしの元に一生懸命に歩み寄り、喋れるようになると「ねーしゃま、ねーしゃま」と舌っ足らずな口調でわたくしを呼ぶ。忙しい父に気遣っていたのか、剣を上手く振れるようになれば一番に見せにきて、褒めてやると屈託なく笑う。
十八歳になったわたくしがプランシェ家へ嫁ぐとき、父の隣に立つセシリオは口を一文字に結んでじっとこちらを見つめていた。言葉を交わさずとも、泣きそうになっているのはすぐにわかった。セシリオが十歳のときのことだ。
やがて自分が母になって我が子を抱いたとき、赤ん坊だった弟の姿が脳裏に浮かんだ。
タイタリア王国と隣国のダカール国の関係が後に引けない状況になったのは、三人目の子供であるラウルを身ごもっている頃だった。国境を守る辺境伯である父とその嫡男であるセシリオは国境警備の総指揮を担う必要がある。
父の訃報を聞いたのはそれから暫くした頃だった。葬儀の日に大急ぎで掛けつけると、セシリオはあの日と同じように口を一文字に結んで無言で父の棺を眺めていた。わたくしの胸の位置だった身長はいつの間にか遥かに高くなり、表情は父に似て厳しく、人を威圧するような雰囲気がある。
けれど、泣くに泣けずに表情を殺すその姿が嫁ぐ日に見た幼い姿と重なり、わたくしは目を伏せた。
その後に聞いたのはセシリオの婚約解消の話だった。セシリオの婚約は、アハマス家と仕事で深い付き合いのあるブラウナー侯爵令嬢が生まれた、あの子が六歳のときに決められたものだ。孤独な弟を支えてくれる伴侶ができることを心待ちにしていたわたくしは、この知らせに大いに落胆した。そして、いつか弟が良縁に恵まれることを切に願った。
***
社交パーティーに招待されて久しぶりに訪れる故郷は、あの頃とちっとも変っていないように見えた。ここに来るのは、父の葬儀以来──約八年ぶりだ。
飾り気のない要塞のような建物と、その周囲を守るたくさんの軍人。およそ貴族の屋敷とは思えない見た目は、辺境の地であるアハマスならではだ。
「メラニー様、ようこそいらっしゃいました」
馬車を降りると、女主人であるサリーシャ様が笑顔で出迎えてくれた。
「ええ。暫くお邪魔するわ」
軽く挨拶をして屋敷内にお邪魔したわたくしは、すぐに変化に気付いた。
殺風景だった屋敷内の至る所に花が飾られ、甘い香りが鼻孔をくすぐる。案内された部屋のカーテンやソファーは女性らしい柔らかな雰囲気だ。そしてなによりも、働いている使用人たちが皆、笑顔だった。
変わらないと思っていたけれど、随分と変わっていた。きっと、サリーシャ様のおかげなのだろう。
社交パーティーの最中、セシリオは終始穏やかな様子で招待客と歓談していた。
わたくしは周囲を見渡す。料理や席の配置などもきめ細やかな配慮がされており、初めて主催するとは思えない出来栄えだ。きっと、サリーシャ様の尽力の賜物なのだろう。
「とても立派な奥様がお越しになり、メラニー様も安心ですね。ここの社交パーティーにまた来ることができて、僥倖です」
わたくしに気がついて近づいてきた、父の代から付き合いのある馬具の商店の主が、にこにこしながらそう言った。
「ええ。本当に」
わたくしは笑顔でそう答える。
セシリオに目を向けると、隣にいるサリーシャ様と顔を寄せて言葉を交わし、視線を絡ませて表情を緩めていた。
その姿が、普段は厳しい姿しか見せないのに母の前でだけは柔らかく微笑んでいた父と重なった。
──本当に、そっくりだわ。
社交パーティーが終わった後、わたくしはクラーラに頼んでとある場所に行きたいとお願いした。久しぶりに訪れたそこは、美しい花が置かれていた。まだ飾られてそれほど時間が経っていないように見え、まるで大地から生えているかのような瑞々しさを保っている。
「これは?」
「いつも奥様が。旦那様はここには来ても、こういうことには気が回りませんから」
「そうでしょうね」
困ったように笑うクラーラに、わたくしは微笑み返す。綺麗に手入れされた墓石の前に跪いて手を合わせた。
──お父様、お母様。アハマスはこの先も安泰ですので、安心してください
穏やかな風が吹き、墓前の花を優しく揺らす。
天国にいる両親も、笑ってくれた気がした。




