第五十八話 入隊試験
サリーシャは屋敷の自室から、アハマス領主館の入り口の辺りを見下ろした。領主館の入り口から始まる人の行列は長く続き内門を超え、更には外門の近くまで伸びている。遠目に見る限りはほとんどが若者達で、十代後半から二十代前半くらいに見える。
「すごい行列ね」
「アハマス軍で働くことは一種のステータスでございますから。雇用も安定しているし、給料も高いです。それに、最近はダカール国との関係も安定していますから、危険も少ないですわ」
洋服をクローゼットにかけていたノーラはにっこりと微笑む。
その長い人の列を見下ろしていたサリーシャは、知った顔を見つけて目を止めた。
「あらっ。あれ、ロランだわ」
「本当でございますか?」
ベッドメイクを終えたノーラも窓から下を覗き込む。ロランはベージュのシャツに黒いズボンを履き、列に一人で並んでいた。ガリガリだった体は少しだけふっくらとしてきたように見える。
「ロランさんは毎朝、軍の練習に顔を出していて頑張っていますのよ。以前はとても痩せていましたけれど、最近は頑張って食べているみたいでだいぶふっくらしてきましたの。前はあんなに痩せているのに、勾留されていた仲間が食べているかを心配してパンを残して窓から投げ入れようとしていたみたいですわ。それに、僅かばかりの日給をデニーリ地区の孤児院に仕送りしていたそうです。もう、そんなことはしなくても大丈夫だとご主人様が諭したそうで──」
つらつらと事情を話始めたノーラに、サリーシャは目を丸くした。
「ふうん。そうなの? ノーラったらずいぶんと詳しいのね?」
「ルーベン様から聞きました」
「ルーベン様?」
「ほら、馬丁のふりしてロランさんと一緒にいた……」
「ああ。あの、体格のよい人ね? 馬丁ではないの?」
「アハマス軍のエリートでございます!」
「あ、そうなの? ごめんなさい。覚えておくわ」
勢いよく訂正されてしまい、サリーシャはたじろいで謝罪した。
サリーシャは自分の取り仕切る福祉関係や領地内の有力者とのやりとりに関わる政務官や、一部のセシリオに特に重用されている軍人のことはだいぶ覚えてきた。しかし、まだ覚えきれていない人もたくさんいる。
「ところで、なぜノーラはそのルーベンさんとお知り合いに?」
「え?」
その途端、ノーラの頬が薔薇色に色づいた。サリーシャはその顔を見てピンときた。何気なく聞いただけなのだが、これは思わぬ収穫だった。
「まあ、うふふっ。しっかりとセシリオ様にそのルーベンさんについて聞いておくわ」
「サリーシャ様! わたくしのことは言わないで下さいませっ!」
真っ赤になったノーラを見つめ、サリーシャはくすくすと笑う。
これだけ詳しい話を聞き出すくらいだから、きっと頻繁に逢瀬を重ねているのだろう。近い未来に、素敵なお知らせを聞ける気がした。
その日の夜、サリーシャはいつものようにセシリオと共に食卓テーブルを囲んでいた。なんでもないけれど、二人にとって、とても幸せな時間だ。
「今日、アハマス軍の入隊試験をやっていたでしょう?」
「ああ、そうだな。部下に任せているから俺は直接見ていないが」
「ロランが受けているのを見たんです。どうだったかしら?」
「ロランが?」
セシリオは少し驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうに笑う。
「では、明日にでも合格者の名簿を確認しておく」
「はい。お願いいたします」
しばらく歓談してふと会話が途切れたとき、サリーシャは部屋の中を見渡した。使用人が一時的にはけたことを確認すると、果実酒を飲んでいたセシリオに小さな声を掛けた。
「セシリオ様、ひとつお聞きしても?」
「なんだ?」
セシリオはサリーシャと目が合うと、優しくヘーゼル色の目を細める。
「ルーベンさんはどんな方ですか?」
「ルーベン? なぜだ?」
セシリオの瞳が動揺したように揺れる。
これは、もしかしたらおかしな方向に誤解しているかもしれない。アハマスに来てから一年と少し。サリーシャはセシリオの考えていることがだいぶ読めるようになってきた。
こうやって夫婦の絆は深まってゆくのだろうかと、自然と笑みが漏れた。
「実は、わたくしの侍女の一人が仲良しなので、どのような方か気になって」
「ああ、そういうことか」
セシリオはホッとしたように息を吐くと、ルーベンの人となりを知る範囲で話してくれた。どうやら、とても仕事に真面目で、性格も穏やかな人のようだ。素敵な方でよかったと、サリーシャは胸を撫で下ろした。
***
大地のそこかしこを覆う鮮やかな緑が眩しい。抜けるような青い空と足元を覆う植物の力強さ。草花萌える一面の景色は、初夏の息吹を感じさせる。
日課となった散歩をしていたサリーシャは、手押し車を押す男性が前方から近づいてくるのを見つけ、足を止めた。
「こんにちは、ロラン」
「こんにちは、奥様」
ロランは押していた手押し車を止めると、被っていた帽子を脱いでペコリとお辞儀した。
「アハマス軍の入隊試験合格おめでとう」
「ありがとうございます」
ロランは恥ずかしそうに頭の後ろに片手をあて、はにかんだ。
「──あの日、閣下が……」
「閣下がどうかされた?」
「俺に頭を下げたんです。奥様を助けたいから頼むって、恥も外聞も投げ捨てて、馬丁見習いで孤児の俺に部下達の前で頭を下げました」
サリーシャはなにも言わず、ロランを見つめ返した。きっと、サリーシャが拐われた日のことを言っているのだろう。
「普通に考えたら無様な光景です。でもそのとき、俺はなぜかすごくカッコいいなと思いました。この人は、普段は毅然として人の頂点に立ちながら、必要とあれば頭を下げることも厭わない、度量の深さがあるんだなって。きっと、部下達のためにもこうやって心を砕くんだろうなって思って……」
「そう……」
サリーシャは心中複雑だった。
セシリオはアハマス辺境伯なのだから、むやみやたらに人に頭を下げたりはしない。今回はサリーシャの浅はかな行動が原因で、そうさせてしまったのだ。
しかし、ロランの言う通り、セシリオはたとえ部下で同じことがおこってもやはり頭を下げただろう。彼はそういう人なのだ。
「それで、この人の下で働いてみたいと本気で思って……。──奥様、色々と失礼な態度をとってすいませんでした」
サリーシャはその言葉を聞き、頬を綻ばせる。
「構いません。これから、アハマスのために活躍してください」
「もちろんです。閣下と奥様には本当に感謝しています。もう道を間違えないように、一生懸命頑張ります」
見よう見まねの敬礼ポーズをロランが取る。
「頼もしいわね。わたくしも負けないくらい、頑張らないと」
何年か先、アハマス軍の重要な地位で活躍する若者の姿が見えた気がした。
砂利道からは、アハマス軍の訓練場が見える。訓練場では何百人もの兵士達が模擬剣を打ち合っていた。
サリーシャはそこに、一際体格がよく凛々しい後ろ姿を見つけた。金色の肩章が太陽の光を浴びて輝いている。
「閣下!」
金属がぶつかり合うけたたましい中でも、セシリオはすぐにサリーシャの声を拾って振り返った。
「サリーシャ」
そういうように、セシリオの口が動く。こちらを見つめるヘーゼル色の瞳が優しく細められた。
サリーシャは嬉しくなってまっすぐにセシリオに駆け寄った。
「ここにサリーシャが来るのは珍しいな。どうかしたか?」
「閣下に会いたくなったのです」
「俺に?」
「ええ。いつもわたくしを、アハマスを、そしてタイタリア王国を守って下さりありがとうございます」
セシリオは意表を突かれたような表情でサリーシャを見下ろした。
「突然、どうした?」
「いつも思っておりますが、どうしても今言いたくなったのです」
サリーシャは戸惑うセシリオの腕を引き、少し屈ませる。短く切られた焦げ茶色の髪から覗く耳に口を寄せた。
「つまり、わたくしは心からセシリオ様をお慕い申し上げているのです」
目の前の耳がほんのりと赤くなる。
サリーシャはふふっと笑う。
こんな可愛らしいところも、やっぱり大好きだ。そして、こんな素敵な人の妻になれた自分は、間違いなく世界一の幸せ者だと思った。




