第五十六話 救出②
どれくらい経ったのだろう。
両膝を抱えて座り込んでいたサリーシャは、ドアを開くカシャンという音で顔を上げた。通気口から差し込む光も薄暗くなり、部屋の中は暗い。そこに突然光が差し込んできたので、サリーシャは眩しさから目を細めた。
「出ろ」
「どこへ行くのですか?」
怯えたサリーシャはそう尋ねたが、ドアの前に立った男はその質問に答えることなくサリーシャの腕ごと体をさっとロープで縛りあげる。そして、強くそれを引いた。サリーシャはよろけそうになりながら、おずおずと後に続く。
外に出ると、辺りはすっかりと薄暗くなっていた。周囲に建物はなく、低い雑草とまばらに生える木々。目の前には比較的大きな街道が走っており、そこには何頭もの馬と複数の馬車が停まっていた。そのうち一台は、サリーシャが連れ去られたときに乗せられた馬車だ。
しかし、なによりもサリーシャが驚いたのは夕暮れの空に浮かび上がる、小高い丘にあるアハマスの領主館だった。炎までは見えないが、もくもくと煙が上がってるのが薄暗い中でもはっきりと見える。
──火事?
サリーシャはショックのあまり立ち尽くした。セシリオに留守を預かっていたのに、女主である自分は誘拐された挙句に、領主館は火事になっている。
呆然と立ち尽くしているともう一度紐が引かれ、馬車に乗るように促された。そして、おずおずと乗り込んだ馬車の中にいた人物に、サリーシャは目を見開いた。
「カリーリ隊長? なぜこんなところに?」
助かった、と思って安堵したのは一瞬のこと。すぐに、背中につぅっと嫌な汗が流れ落ちるのを感じた。
先ほど聞き覚えのある声がしたと思ったのは、カリーリ隊長の声ではなかろうか。しかも、部下に命じるような口調だった。
カリーリ隊長は先日デニーリ地区で会ったときと何ら変わらぬ様子の、穏やかな表情を浮かべていた。
「アルカン長官が閣下の結婚式で余計なことを言うものだから、ここは住みにくくなってしまった。わたしは国を出ようと思います」
「国を出る?」
サリーシャは掠れた声で聞き返した。すぐさま、昨日のことが思い出された。あの商人はこのために通行証を欲しがっていたのだ。
「アハマス領主館で発行した通行証がないと、国境は通れないわ」
「もちろん知っております。そのためにアハマス夫人をお連れしたのですから。あなた様を溺愛する閣下なら必ずや国境が開くとわかっておりました」
カリーリ隊長はにっこりと微笑む。
サリーシャは、頭を殴られたような衝撃を受けた。この男は自分を脅しの道具に使おうとしているのだ。この馬車に乗せたのは、万が一国境が開かなかったときに、脅しとして使うためだろう。
──なんとかして逃げ出さないと。
サリーシャは、走り出した馬車の中を見渡した。
正面にはカリーリ隊長が座っており、その脇には立派な剣とマスケット銃が置かれている。唯一開いている前方小窓から外を見ると、周囲はたくさんの馬に乗った兵士に囲まれていた。
前にも同じような馬車が走っている。どの馬車にサリーシャやカリーリ隊長が乗っているかを悟られないためのカモフラージュであることは、容易に想像できた。
馬車はどんどん国境へと近づいてゆく。サリーシャは、このままダカール国へと連れて行かれるのではないかと恐怖を覚えた。国境を超えるまで、この人達は自分を解放しないだろう。いや、解放しないどころかダカール国に引き渡す可能性も高い。
そうなれば、タイタリア王国へ戻ることはおろか、セシリオにも二度と会えなくなってしまうかもしれない。
そのとき、馬車の外から馬の嘶く声がした。それとともに、たくさんの蹄の音と怒声。更には剣がぶつかり合うような金属音が聞こえてきた。
「何事だ!」
カリーリ隊長が動揺したように叫び、閉めていた側面の窓を少しだけ開ける。そこから僅かに覗く新緑色のアハマス軍の軍服を、サリーシャは見逃さなかった。
「くそっ! こいつがどうなってもいいのか!?」
カリーリ隊長が顔を歪めて剣を握ると、サリーシャの体を引き寄せた。その瞬間、サリーシャの体はカリーリ隊長の横にくる。
──なんとかして、わたくしがここにいることを報せないと。
サリーシャはとっさに、すぐ近くにあったマスケット銃を後ろ手に引き寄せる。そして、かつては怖くてひくことができなかった引き金を、力いっぱいにひいた。




