第五十二話 誘拐
翌日、昨日訪れてきた商人は思ったよりもずっと早い時間──午前中にアハマス領主館へやってきた。対応に出たサリーシャが応接室へと行くと今日もたくさんの魅力的な装飾品が並べられている。
「とても素敵ね。ただ、まだ閣下がお戻りになっていないの」
サリーシャが申し訳なさそうに眉尻を下げると、商人は大きく手を目の前で振った。
「構いません。こちらは早くアハマス夫人にご紹介したく、持ってきたものです。──ところで、馬の調子は治りましたか?」
「それが、今日も調子が悪いらしくて。いったいどうしたのかしら?」
サリーシャはそう言いながら、小さく嘆息した。
昨日のことが気になったサリーシャは今朝もロランに会いに行ったのだが、相変わらず顔色が悪く、サリーシャの使う馬車を牽く馬の調子が悪いから領主館で過ごして欲しいと言っていた。
「そうですか。それは残念ですね」
商人は残念そうに肩を竦めると、なにかを思案するように考え込んだ。そして、気を取り直したようにサリーシャを見つめる。
「アハマス夫人。実は、ここにないものでもうひとつ見ていただきたいものがあります。馬車の装飾なのですが、いかがですか」
「馬車の装飾?」
「はい。見事な金細工の装飾ですので、ご覧になりませんか? 表の馬車置き場に置いてあるので」
「そうなの? せっかくだから、見てみようかしら」
「是非。ご案内します」
荷物を纏めると微笑んで立ち上がった商人に、サリーシャも続く。
「サリーシャ様、どちらへ?」
ちょうど紅茶の替えを持ってきたノーラが、サリーシャに尋ねる。
「馬車置き場よ。馬車の装飾を見せてもらうの。すぐに戻るから、紅茶はテーブルに置いておいてくれる?」
「畏まりました」
ノーラが一礼して応接室に入るのを見送り、サリーシャはアハマス領主館の敷地内の馬車置き場へと向かった。
馬車乗り場にはたくさんの馬車が停まっている。サリーシャはその一番手前、最もよい位置に停められた馬車を見ておやっと思った。その位置にはアハマス領主夫婦であるセシリオとサリーシャが普段使う馬車が停められているのだが、それに馬が繋がれていたのだ。
──馬の調子、いつ治ったのかしら?
通りすぎながら眺める限り、普段と変わらず艶やかなたてがみと毛並みの、立派な馬にみえる。とにもかくにも、調子がよくなったならよいことだと思った。
「こちらでございます」
商人が案内した馬車は、馬車置き場でも一番奥まった場所に止まっていた。パッと見は商人らしい簡素な馬車だ。
「え? これ?」
サリーシャは目をぱちくりとさせた。
想像していたものとだいぶ違ったのだ。見事な金細工が施されていると聞き、勝手に王族が乗るような豪奢な馬車を想像していた。ところが、目の前の馬車は飾り気が一切なく、普通の商人の馬車にしか見えない。
「装飾は中に施してあります。どうぞ」
商人が馬車の扉を開けたので、サリーシャは中をのぞき混む。昼間とはいえ、窓が閉ざされて片方の扉が開けられただけの馬車の中は、暗くてよく見えない
──どこに飾りがあるのかしら?
背後にいる商人に聞こうと振り返ろうとした瞬間、首の後ろに強い衝撃を感じた。バサリと体全体を覆うように布が被せられた。急速に視界が暗転し、意識が闇に飲み込まれてゆく。
「セシ……リ…オ……様」
絞り出すように呼んだ名は、愛しい人には届くことなく掻き消えた。
***
遡ること一日前。
セシリオ達一行はデニーリ地区へと向かっていた。
軍馬は足が早い上に疲れにくく丈夫だ。
アハマス領主館を早朝に経ったセシリオは順調に足を進めた。途中、セシリオは前方からこちらへ走ってくる馬車の一行を見て目を眇た。
前方の馬車は、アハマス軍の軍服を着たセシリオ達一行に気付くと、道を譲るように端に寄った。
セシリオは近づきつつ、彼らのことをさりげなく観察する。商人風の馬車のまわりに、何騎もの護衛がついていた。
──ずいぶんと厳重な警備の馬車だな……。
二騎程度の護衛ならよく見かけるが、その馬車には全部で十騎程度の護衛がついている。しかも、それなりに腕がたつ連中であることをセシリオは自らの経験から敏感に察知した。
──金持ちの要人でも乗っているのか?
そんなことを思いながら、その横を通過する。セシリオ達一行がデニーリに到着したのは、その日の夕方のことだった。
「これはアハマス閣下。ようこそいらっしゃいました」
出迎えたアルカン長官は平静を装いながら、明らかに動揺していた。両手を忙しなく握りしめては開くことを繰り返している。
前日にはセシリオが送った福祉予算の流れを明らかにせよという手紙が届いているはずだ。さらに、セシリオが前触れなくデニーリを訪れたので、なにか悪いことがあったのかと心配しているのだろう。
急いで準備したであろう部屋へと案内しようとするのを、セシリオは片手をあげて制した。
「急いでいるから本題だ。福祉予算の流れを確認するように連絡したが、もう調べたか?」
「はい。わたしの部屋にあります」
「見せてくれ」
セシリオはすぐにアルカン長官の執務室に向かうと、差し出された紙にざっと目を通した。病院、孤児院、支援施設などの欄には給付した額が記載されており、捲るとその明細が付いていた。給付金はアハマス全土で支給方法を統一しているが、その通りの額が記載されている。
「支出はどうなっている?」
「こちらです。以前、アハマス夫人からバーバラが同じようなことを聞かれたようで、別途で調べて取っておいたものです」
アルカン長官がそう言って差し出した紙の束をセシリオはパラパラと捲った。各施設に支出を問い合わせるのにはそれなりの時間がかかる。サリーシャが以前バーバラに問い合わせたものが役にたった。
セシリオはそれらの紙と先ほど受け取った支給額を見比べ、とあることに気付いた。
「支給額に比べてどこも支出が少ないな?」
「そのようですが、使い方については各施設に任せておりまして……」
アルカン長官は恐縮したように肩を竦める。
セシリオは眉を顰めた。サリーシャはデニーリ地区の孤児院は困窮しているように見えたと言っていた。困窮しているのに支給された額をかなり余らせるなど、どう考えてもおかしい。
「どこか、施設の責任者に話を聞けないか?」
「ここから一番近いところですと、先日アハマス夫人が訪ねた孤児院になります」
セシリオはチラリと壁の機械式時計を見た。時刻は間もなく八時を回ろうとしている。遅いが、施設長は寝てはいないだろう。
「今から行く」
「はい。ご一緒します」
アルカン長官はすぐにそう言うと、セシリオを案内するために立ち上がった。




