第五十一話 商人
朝食を食べながら、サリーシャはふぅっと息を吐いた。
目の前には半熟のスクランブルエッグに塩漬け肉のソテー、サラダ、パン、野菜スープ、そしてイチゴジャム添えのクッキーが置かれている。とても美味しそうだし事実美味しいのだけど、なんとなく物足りない。
「一人で食べると味気ないわ」
「明日の夜には戻られるそうですよ」
「わかっているわ。でも、やっぱり寂しいわ」
クラーラには苦笑されてしまったけれど、寂しいものは寂しい。
セシリオには昨晩、急用ができてデニーリ地区のアルカン長官に会いに行く必要があると聞かされた。今朝、まだ夜が白み始めたような時刻にお供の者を引き連れてデオに乗って行ってしまった。なんとか見送りはできたが、セシリオはサリーシャが寝ている間に準備や朝食を全て済ませてしまったので、朝食はこうして一人で食べている。
いつも朝食と夕食はセシリオと歓談をしながら頂くので、一人だととても寂しく、味気なく感じた。
日中、ノーラとここ最近の日課になった領主館の中の散歩をしていると、とぼとぼと歩く小柄な後ろ姿を見つけてサリーシャは声を掛けた。
「ロラン!」
サリーシャの掛け声に、前を歩くロランが振り返る。その顔を見て、サリーシャは驚いた。酷く顔色が悪かったのだ。
「まあ。どうしたの? 真っ青よ?」
「え? いや……」
ロランは狼狽えたように後ずさり、次いでハッとしたような顔をした。
「なあ。アハマス夫人は今日出掛けるのか?」
「今日? まだ決めていないわ」
「今日は止めておけ! 領主夫妻様用の馬車の馬の調子が軒並み悪いんだ」
「あら、そうなの? それはよくないわね」
サリーシャは眉をひそめた。
馬の調子が軒並み悪いなど、昨日使った餌か水の問題だろうか。もしくは、馬特有の伝染病かもしれない。とにかく、馬丁見習いであるロランからすれば、同時に複数の馬の調子が悪いなど一大事だろう。こんなに顔色が悪くなるのも頷けた。
「わかったわ。今日このあとはお屋敷で過ごすことにするわ」
サリーシャはロランにお礼を言うと、ロランはホッとしたような安堵の表情を見せた。
サリーシャはまた散歩を始める。ちょうど見える訓練場では兵士達が銃を持って隊列を組む訓練をしており、横一列に見事に調和のとれた動きを見せていた。道の端ではタンポポの綿毛が丸いボールを作っていた。それを摘み取ると、サリーシャはふうっと息を吹きかけた。ふわりふわりと白い綿毛が舞い上がる。
──セシリオ様は、今ごろどの辺りにいるのかしら?
空高く舞い上がる綿毛を見つめながら、最愛の人に思いを馳せた。
***
夕方、部屋で過ごしていたサリーシャはドアをノックする音に気付いた。読んでいた学校の建設に関する資料から顔を上げてそちらを見ると、ドアから顔を出したのはクラーラだ。
「どうかして?」
「下にどうしてもサリーシャ様に面会したいと言う行商人がいらしていますが、いかがいたしましょうか? 王都から自慢の品を持ってきたのでご紹介したいと。わたくしからお断りいたしましょうか?」
辺境伯であるアハマス家には領地はもちろん、タイタリア各地から献上品や商品を紹介したいという商人が集まってくる。辺境伯であるセシリオや辺境伯夫人であるサリーシャが使用していることや、アハマス家と取引していることは、どんな宣伝文句よりも箔が付くからだ。
アハマス家への献上や売り込みは王家にするそれよりはだいぶ敷居が低い。そのため、多くの平民の有力商人が日々様々な品を持って集まってくる。品物だけ受けとることもあれば、品物の説明をセシリオ本人や対応した使用人に話して行くものもいる。サリーシャも絹織物などを何度か直接紹介されてから献上されたり購入したことがある。
「その方は今、下にいるの?」
「はい、いらっしゃいます。なんでも、サリーシャ様に装飾品をご紹介したいと」
「わかったわ。一階の客間にお通しして」
特にこのあと予定があるわけでもない。わざわざ王都からこのためだけに来たわけではないだろうが、ここに寄り道するのはそれなりの時間と労力を要したはずだ。
「畏まりました」
クラーラはドアの前で黙礼すると下に降りてゆく。サリーシャは手元の資料を手早くまとめてトントンとテーブルの上で揃えてから片付けると、階下へと向かった。
部屋に着くと、商人の男性は頭を下げてサリーシャを出迎えた。いかにも羽振りのよい商人といった、身なりのよい格好をしている。ただ、背は高く服の上からでも体か引き締まっているのがわかり、精悍な雰囲気の男性だ。
「ごきげんよう。遠路ご苦労様です」
サリーシャはお辞儀をすると商人を座らせ、その向かいに自分も腰を下ろした。テーブルの上には様々な宝飾品が並んでいる。
「こちらは全て、王都から取り寄せた一流品でございます。是非ともアハマス夫人にご紹介したいとお持ちしました」
四十歳過ぎであろう商人は口の端を上げ、その宝飾品の数々を手で指し示した。金属に精緻な彫刻が施され、確かにどれも洗練された一流品に見える。
「どれもとても素敵ね。これなんか、可愛いわ」
サリーシャは並べられた宝飾品の一つを手に取った。リーフがモチーフの金細工のイヤリングには、真珠が一粒添えられており上品で可愛らしいデザインだ。
「さすがお目が高い。こちらは侯爵家でも御用達の職人による作品です」
サリーシャはそれを手に取り、鏡を見ながら耳に添えてみた。顔の向きを変える度に、組み合わさったリーフが動きに合わせて揺れる。耳元には大粒の真珠が一粒、鈍く光っている。
「それはアハマス夫人に献上いたしましょう」
「え? でも、これはとてもお高いでしょう? いただけないわ」
「アハマス夫人に使用していただくことは私どもにもメリットが大きいのですよ。アハマス家のご贔屓となれば、箔がつきますから」
商人はニヤリと笑うと、目の前の商品をしまい始める。
「ところで、アハマス夫人にお願いがございます。ダカール国への通行証の交付を頂きたいのですが」
「通行証? 前回の通行証はお持ち?」
「いえ。ありません」
それを聞いたサリーシャは申し訳なさげに眉尻を下げた。
「二回目以降ならわたくしや他の事務官でもいいのだけど、初めてダカール国に出る方については閣下が確認することになっているの。今日は閣下が不在だから、明日の夕方以降また来ていただけると助かるわ。長期不在中は別の者が権限委譲されるみたいなのだけど、今はされていないわ」
「アハマス閣下は只今ご不在でございますか? 明日、お戻りに?」
「ええ。デニーリに行っているの。明日の夕方に戻るわ」
「デニーリに?」
商人はなぜか狼狽えたような表情を見せたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「アハマス夫人では発行できませんか?」
「ごめんなさい。初回は無理だわ」
「……そうですか。承知しました。また別の商品もお見せしたいので、明日もう一度伺いましょう」
「ありがとう。助かるわ」
サリーシャがお礼を言うと、行商人は目を細める。
「アハマス夫人はあまり市中のお店には行かれないですか? 今、わたくし共が期間限定の店舗をアハマス市街地に出しているので是非ともご招待したいのですが」
「時々出掛けるのだけど、今日は馬の調子が悪いから無理なのよ」
「馬の?」
「ええ。餌か水でも悪かったのかもしれないわ」
商人はそれを聞くと眉を寄せて「それは残念です」と呟き、その場を後にした。




