第四十三話 花畑と滝
一夜明けたよく翌朝、窓の外を見上げたサリーシャは「わぁっ」と歓声をあげた。雲一つない抜けるような青空。とてもよい天気だ。
今日サリーシャはセシリオとデニーリ地区を発つので、帰りにデニーリ地区の景勝地へと寄り道する約束をしているのだが、絶好の観光日和だ。
朝食後、出発を前に応接室で二人が寛いでいると、ドアをノックする音が聴こえた。セシリオが入室許可を出すと、アルカン長官とカリーリ隊長が現れた。
「閣下。こちらが昨日ご相談されたものでございます」
アルカン長官がセシリオになにか紙を差し出すと、セシリオはそれにざっと目を通して悩むように口許に手を当てた。
「やはり、蛍にはまだ時期が早いか?」
「まだ早いかと」
「やはりそうか。デニーリでもまだ早いなら、アハマス領主館の近くはまだまだだろうな」
セシリオはその答えを聞いて落胆した表情を見せた。
きっと、サリーシャが蛍を見たいと言ったのでわざわざこの辺りで見られるかどうかを確認してくれたのだろう。だが、蛍は初夏の一時期にしか見られないようで、まだ時期が早かったようだ。
セシリオは気を取り直したように手元のメモに視線を落とした。
「この中だと、どこがいいかな?」
「ルツファの滝は雨の多い季節になる前の今が一番美しく見えます。ここから領主館に戻る途中ですし、大河沿いの花も近くで一緒にご覧いただくのにちょうどよいかと思います。あとは──」
昨日、セシリオはアルカン長官に蛍の時期と付近の景勝地についてどこがお勧めか教えて欲しいと頼んでいたようだ。セシリオはアルカン長官が用意したメモに書かれたいくつかの場所を眺めて、アルカン長官の説明に聞き入る。
「サリーシャ、滝はどうだ? 山から大河に流れ込む河川の水が今の時期は水量が少なくて、白糸のように見えるんだ。花摘みもできる」
「素敵ですね。行きたいですわ」
「では、ルツファの滝と花畑に寄ってから領主館に戻ろう。蛍はまた時期を見て連れて行こう」
「はい。楽しみは取っておきます」
嬉しそうに微笑むサリーシャを見たセシリオは表情を綻ばせると、今度はアルカン長官の後ろに控えるカリーリ隊長に向き直った。
「カリーリ隊長」
「はい」
「一晩考えたのだが、やはり昨日の連中の様子は異様だ。少し気になるから、俺直轄のアハマス軍の収容施設に移送しようと思うのだが」
「アハマス軍の? たかだか窃盗犯にそこまでする必要がありますか?」
カリーリ隊長は眉をひそめた。カリーリ隊長の言うとおり、たかだか窃盗団の一味をわざわざアハマス軍の収容施設まで移送して取り調べるなど、異例だ。しかし、セシリオはどうしても昨日見た男達のあの様子が気になった。
それを伝えると、カリーリ隊長は納得いかない様子ながらも頷く。そして、後日アハマス軍から移送のための部隊を迎えに来させることで同意した。
***
ルツファの滝は、馬車の通れる街道から少し奥まった山あいにある。到着すると、空には雲が出始めていた。
──雨が降らないといいのだけど。
サリーシャは空を見上げてそう思った。
観光地なのだがそれほど整備もされていないため、馬車置き場から滝へと向かう道の足もとには至るところにゴロゴロした石が転がり、木の根がせりだしていた。
その少し足場の悪い道を、セシリオはサリーシャの手を引いて歩いた。いつものように力強い手に、とても安心できる。
「気を付けて。転ぶなよ?」
少し大きな段差があり、セシリオがサリーシャを気遣うように後ろを振り返る。
「はい。でも、転びそうになったらセシリオ様が受け止めて下さるでしょう?」
サリーシャが笑顔でそう言うと、セシリオは僅かに目をみはる。そして、「もちろんだ」と微笑んだ。
ルツファの滝は高さ十メートルほどとそこまで高低差はないが、大河にふさわしい幅があった。
十分ほど歩いて辿り着いた川岸からそれをみると、数えきれないほどの水の筋が遥か向こうの川岸まで垂れ下がるように続いているのが見えた。その水の筋がまるで白糸のカーテンのように見えるので、景勝地として人気が高いのだとセシリオはサリーシャに教えてくれた。
その滝を臨むように整備された河川敷を、サリーシャとセシリオはゆっくりと散歩した。のんびりと歩いていると、ふとセシリオが繋いでいない方の腕を上げて川の方向を指さした。サリーシャがその指の先に視線を追いかけると、川に水鳥が二羽浮いているのが見えた。
──あ、そうだわっ!
サリーシャはいそいそと持っていたベルベットの袋から望遠鏡を出すと、それを覗いた。遠くに見える鳥は、望遠鏡で覗くと首元の模様が違う。一羽が鮮やかな色合いをしているのに、もう一羽は落ち着いた色合いだ。
「二羽で、模様が違うわ」
「模様? では、雄と雌なんだろうな」
「きっと、夫婦ですわね。わたくし達と一緒だわ」
サリーシャが嬉しくなって望遠鏡から目を離してセシリオに笑いかけると、セシリオも微笑み返してくれる。そんな些細なことがとても幸せに感じた。二羽の鳥は仲良く寄り添って水面を優雅に泳いていった。
そのまま少し歩くと、河川敷にはたくさんのポピーと、所々に遅咲きの菜の花が咲いていた。
「まあ、綺麗だわ。ポピーですわね。それに、あれは菜の花かしら?」
「花摘みをする?」
「でも、皆さん待ちくたびれていないかしら?」
馬車を停めた場所で待たせている護衛の騎士達に悪い気がしてサリーシャが躊躇していると、セシリオは顎で後方を指し示した。
「大丈夫だろう。少しゆっくり戻った方が、彼らも休憩できる。この後は走りっぱなしだから。それに、ほらっ」
振り返ると、ノーラやセシリオの侍女、それに何人かの騎士達が笑顔で滝を眺めているのが見えた。きっと、サリーシャ達がいないので彼らなりに休憩をしているのだろう。
「あら、本当だわ。では、遠慮なく摘みます」
サリーシャは安心してポピーを摘むことにした。ミツバチ達が花粉を集めているのを邪魔しないように、綺麗に咲いているものを選んでゆく。
「これは花冠にはできないのか?」
セシリオは手近にあった一輪を摘まむと、それを眺めながら尋ねてきた。
「うーん、どうかしら? シロツメクサでしか作ったことがないです。摘んだお花はお屋敷まで持ち帰って、しばらく飾ろうと思います。戻るまでに萎れてしまわければいいのだけど」
サリーシャが手に握るポピーの束を目の前に差し出すように持ち上げる。セシリオは自分が手に持っていた一輪の茎を短くちぎると、サリーシャの顔へと近づけた。耳の上になにかが載せられるような、微かな感覚。
「花冠の代わりだ。サリーシャは可愛らしいから、どんな花も似合うな」
優しく目を細められると、胸がキュンとする。サリーシャはほんのりと赤くなった頬を隠すようにセシリオの横に立つと、腕を絡めた。ついさっきまで曇っていた空にはいつの間にかまた青空が広がり、滝から聞こえる心地よい水音が鼓膜を優しく揺らした。
***
慣れない道を歩くことは、想像以上に体力を使うようだ。
寄り道したとは言え、今夜遅くには領主館に到着するだろう。辺りはすっかり陽が傾きかけている。あとたった数時間の距離なのだが、馬車の揺れと隣にいるセシリオの温もりが心地よく、睡魔が襲ってくる。
抱き寄せるように回された逞しい腕が心地よい。疲れはてたサリーシャは、セシリオに寄りかかるとうつらうつらとした。
そのとき、馬の嘶く声と男性の叫び声がしてサリーシャはハッとした。ガタンっと大きな音がして馬車が急停車して、車体が大きく揺れた。セシリオがサリーシャを庇うように全身を包み込んだため、衝撃による体の痛みはない。
──なにかしら?
恐怖心を覚えたサリーシャはぎゅっとセシリオの上着を握りしめた。セシリオの胸の中でも、外からがやがやとざわめき声が聴こえた。
「サリーシャ、大丈夫か?」
「はい」
サリーシャが答えると、セシリオはホッと安堵の息を吐く。そして、すぐに厳しい表情で外に声をかけた。
「どうした?」
顔を強張らせた一人の騎士がすぐに馬車に近づいてきた。
「子供です」
「子供?」
「子供が飛び出してきました」
騎士のただならぬ様子に、セシリオはさっと表情を固くした。




