第三十八話 デニーリ地区
帰り道、セシリオはサリーシャが車窓から見える景色に興味をそそられるたびに馬車を停めて、ゆっくりと眺めるのに付き合ってくれた。そのため、デニーリ地区の領事館に着いたのは、辺りがすっかり暗くなった時間帯だった。
街を巡回中の警ら隊からセシリオ達一行の報せを既に受けていたのか、こんな時間帯にも関わらず、屋敷の前には出迎えの人々がずらりと並んでいた。
ガタンと馬車が止まると、セシリオが先に馬車を降りて中にいるサリーシャに手を差し出す。その手に自らの手を重ねて馬車から降りると、馬車からすぐのところにはデニーリ地区のアルカン長官が立っていた。妻のバーバラも一緒だ。
そして、その隣には体格のよい中年の男性がいた。行きの馬車の中で見かけた警ら隊と似た制服を着ているが、装飾が多い。
「ようこそいらっしゃいました、アハマス閣下、アハマス夫人」
「ああ、世話になる」
アルカン長官が慇懃なお辞儀をすると、セシリオは軽く会釈して労いの言葉をかける。
「こちらはデニーリ地区の警ら隊長をしているカリーリ隊長です。閣下がお話したいと仰ってたので、今日は顔合わせだけでも」
続いて、アルカン長官は隣の男性をセシリオに紹介する。男性はセシリオに向かって軽く頭を下げた。
四十代前半に見えるが、隊長というだけあり、精悍な男性だった。セシリオはカリーリ隊長のことをじっと見つめてから、僅かに首を傾げた。
「セシリオ=アハマスだ。──どこかで会ったことがあるような気がするのだが……」
「デニーリ地区の警ら隊長のラウロ=カリーリです。わたしは二年ほど前までアハマス軍におりました。領主館の施設で働いていたので、それででしょう」
「ああ、そうだったか」
セシリオは納得したように頷く。アハマス領主館の執務棟には多くの人々が働いている。カリーリ隊長の年齢などを考えて二年前に軍を引退し、デニーリ地区で新たな職を得たのだろう。
「さあ、こんなところではなんですし、入りましょう。部屋の用意はできております。食事もすぐに用意させましょう」
アルカン長官が朗らかに微笑み屋敷へと誘う。背後に見えるお屋敷を眺めたサリーシャは、幻想的な光景に目を眇めた。
三階建ての、とても大きくて豪華な屋敷だ。白い外壁沿いにいくつもの松明が掲げられ、白い壁をオレンジ色に浮き上がらせている。その外壁には、大きなガラス窓が等間隔にいくつも並んでいるのが見えた。
「サリーシャ、行こう」
セシリオに優しく促され、サリーシャは小さく頷いてアルカン長官の後に続いた。バーバラとカリーリ隊長もその後を続く。
今は夜なので町全体は暗く、殆どなにも見えなかった。しかし、サリーシャは行きの馬車から眺めた美しい町並みを思い出していた。
「ここは、とても美しい町ですわね」
「そうですか。ありがとうございます。よろしければ明日、妻のバーバラに、アハマス夫人のお好みに合いそうな場所を見繕って町を案内させましょう」
自身の管理する町を誉められて気をよくしたアルカン長官は、嬉しそうに相好を崩した。
サリーシャはちらりとセシリオを見上げる。目が合ったセシリオはヘーゼル色の瞳を優しく細めて微笑んだ。
「俺は明日、アルカン長官やカリーリ隊長と色々と仕事の話がしたい。サリーシャは息抜きに楽しんで来るといい」
「はい、ではそうしようかしら。バーバラ様、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか?」
サリーシャは後ろを歩くバーバラの方を振り返る。
「もちろんでございます。どこにお連れするのがいいか、わたくしも明日までに考えておきますわ」
バーバラはにこりと笑って頷いたのを見て、サリーシャはとても明日が楽しみになった。
***
翌日、目を覚ますとカーテンの隙間からは白い筋が差し込んでいた。差し込んだ光は上品な柄の絨毯と白い壁に一本の線を描いている。もう朝だ。それも、とてもよい天気である予感がする。
サリーシャは寝返りを打って後ろを振り返り、セシリオがいなくてがっかりした。
朝が早いセシリオはサリーシャより先に起きて活動し始めることも多い。
そんなとき、セシリオはサリーシャをそのまま寝かせておいてくれるのだ。おそらくそれはセシリオの優しい心遣いなのだが、サリーシャとしては少し不満でもあった。遠出しているときくらい、恋愛小説のワンシーンのようにセシリオの腕の中で目覚める素敵な夜明けを迎えてみたい。
サリーシャはもぞもぞとベッドから抜け出すとバサリとカーテンを開け放った。外を覗くと、規模はさほど大きくはないものの、手入れの行き届いた庭園が見えた。昨日は暗くて気が付かなかったが、庭園には色とりどりの花が咲いているのが見えた。
「いないわね……」
独りごちたサリーシャは、窓を開けて下を覗き込んだ。きっとセシリオは外で剣の訓練をしていると思ったのだが、その姿が見えなかったのだ。
見下ろした窓の下にも誰もいなかったが、遠くから微かにカン、カン、と金属がぶつかり合う音が聞こえた。サリーシャの滞在する部屋からだと見えない場所で誰かが模擬試合でもしているようだ。そこに、セシリオもいるかもしれない。
サリーシャは侍女を呼ぶための鈴を鳴らすと、ノーラに手伝ってもらって手早く準備を終えた。
部屋を出てまっすぐに音のした方へ近づいて行くと、屋敷の裏側の庭園沿いに門があり、その向こうには土の広場が広がっていた。門を開けて様子を窺うと、セシリオが何人かの男性と剣を振るっているのが見えた。男性達はデニーリ地区の警ら隊の制服を着ており、端には昨日見かけたカリーリ隊長もいる。
「閣下!」
サリーシャの呼びかけにセシリオはハッとして振り返り、ヘーゼル色の瞳を柔らかく細めて微笑む。そして、長い足でさっとサリーシャのもとまで歩み寄った。
「サリーシャ、今日は早いな?」
「初めての場所なのに閣下がお側にいてくださらないのだもの。寂しくて起きてしまいましたわ」
サリーシャが少し拗ねたように口を尖らせると、セシリオは驚いたように目をみはる。そして、くしゃりと表情を崩した。
「それは……気が利かずに悪かった。デニーリ地区の警ら隊の早朝練習にまぜてもらっていたんだ。戻ろうか」
「いいえ。わたくし、見ていますわ。閣下の剣をふるうお姿は素敵だから好きですもの」
「っ、……そうか」
セシリオの耳がほんのりと赤くなる。最近のセシリオはサリーシャの愛情表現に出会ったときほどは頻繁に照れることはなくなった。久しぶりに見るこの姿に、サリーシャは愛しさが込み上げた。ふふっと微笑んでその腕に華奢な手を絡めた。
「万が一剣がはね飛ばされたりすると危険だから、少し離れた場所にしよう」
「はい、わかりました」
「よし。ここなら大丈夫だな」
そう言ってサリーシャがセシリオに促されて座らされた場所は、少しどころかだいぶ離れていた。
「ずいぶんと遠いですわ」
「我慢してくれ。模擬剣だが、はじけ飛んだものに当たればただでは済まない。サリーシャが怪我したら大変だ」
その口調からはこれ以上は近づかせることは許さないという意思が明確に感じられた。
サリーシャがむうっと口を尖らせる。すると、セシリオは困ったように眉尻を下げた。おでこに柔らかなものが押し当てられ、すぐに離れた。
「危ないから近づいたらダメだぞ」
「……わかりましたわ」
こんな不意打ちは反則だ。
サリーシャは赤くなった頬を隠すように両手で包み、セシリオを見上げる。セシリオは柔らかく微笑むと警ら隊達の元へと戻っていった。
「アルカン長官からは聞いてはいましたが、本当に仲がよろしい。戦時中は鬼神と恐れられた閣下にも弱点があるのですね」
警ら隊達の元へ戻ると、カリーリ隊長は少し驚いたような顔をしていた。他の隊員からも「あんな美人と羨ましいなぁ」などという声が漏れ聞こえてきて、セシリオは照れを隠すように表情を綻ばせた。




