第三十六話 和解
一文字一文字丁寧に、間違いなく。
社交パーティーを終えた翌日、サリーシャは御礼状の宛名書きをしていた。社交パーティとは、パーティーが終わればそれでお終いではないのだ。
ノートを見ながら丁寧に住所と名前を書いてゆく。そして、メラニ-とジョエルの直筆サインが入ったパーティーへのお礼のカードをその封筒へと封入していった。
「まだたくさんあるわね」
積み重なった封筒の束はまだ十枚くらいはありそうに見える。レニーナとメラニーと手分けしているとはいえ、あと一時間はかかりそうだ。
ふうっと息を吐いたところで、テーブルの空いている場所にトンっとトレーが置かれた。目を向ければ、トレーの上には紅茶と焼き菓子が乗っている。
「あまり根詰めると疲れてしまう。休憩しようか」
顔を上げると、穏やかな表情を浮かべたセシリオがサリーシャを見下ろしていた。
確かに、朝からずっとこの作業をしている。少し気分転換した方がいいかもしれない。
「はい。ありがとうございます」
サリーシャは笑顔で頷くと、テーブルの上の封筒類を片付け始めた。
「まだたくさんあるのか?」
サリーシャの前の空いたスペースにティーカップを置いたセシリオは、チラリとその封筒の束を見る。サリーシャは首を横に振って見せた。
「あと十枚くらいですわ。終わったら、ラウル様に遊んで欲しいと言われているのです」
サリーシャはそこで一旦言葉を止めた。
「あとは……ローラ様の様子を見に行きたくて」
「あぁ、そうだな」
昨日、ローラはメラニーに部屋に連れ戻されたまま、社交パーティーが始まってもとうとう戻っては来なかった。顔を強ばらせたメラニーと騒ぎに気付き階下に降りてきて事情を知ったジョエルにはしきりに謝罪された。
セシリオもジョエルと共に事の真相を知り、大層驚いていた。屋敷の誰かが悪さをしているとは気付いていたようだが、それがローラだとまでは予想していなかったようだ。
そして、ローラがあの後からどうしているのかは、よくわからない。
セシリオは神妙な面持ちでサリーシャを見つめ、身を屈める。そして、労わるようにそっと頭頂部にキスをした。
***
ローラの部屋に行くとき、さすがのサリーシャも緊張した。セシリオは一緒に行こうかと言ってくれたが、それは断った。自分とローラの二人で話すべきだと思ったのだ。
ここにくる前に厨房に寄って、紅茶と菓子を用意した。ドアの前で大きく深呼吸をしてから、トン、トン、トンとノックする。中からは「どうぞ」と小さな声がした。
サリーシャが部屋の中を覗くと、ローラはぼんやりと窓の外を眺めていた。
「ローラ様、失礼します」
声をかけられて、ようやく訪問者がサリーシャだと気付いたようだ。振り返ったローラの茶色い瞳は大きく見開かれた。しかし、すぐにサリーシャから逃げるようにまた窓の外に視線を戻した。
サリーシャはつられるように窓の外を見る。庭園の一画で、パトリックとセシリオが銃を持ってなにかを話しているのが見えた。きっと、パトリックに銃の使い方を教えているのだろう。
「ローラ様、お茶をしませんか?」
ローラは窓の外を眺めたまま、なにも答えなかった。
返事がないことを肯定であると前向きに捉えたサリーシャは、ローラの前のテーブルにティーカップとお菓子を並べる。そして、自らも正面の椅子に座った。
「……ないの?」
「え?」
「怒ってないの? わたくし、ひどいことをしたわ」
横を向いたままのローラは、口を一文字に結んでいる。
まっすぐに窓の方向を向いた目には一杯の涙が浮かんでいた。よく見ると瞼は泣きはらしたようになっている。きっと、メラニーやジョエルに強く叱られて昨晩はずっと泣いていたのだろう。
窓の外など、最初から見ていなかったのかもしれない。
「怒っていますわ。とても、怒っています。でも、仲直りしに参りました」
「仲直り?」
ローラは怪訝な表情を浮かべてサリーシャを見つめる。
「ローラ様はわたくしが好きだからあんなことをしてしまったのでしょう? わたくしもローラ様が好きだから仲直りにきました。それに、ローラ様にはひとつ謝らなければなりません」
「謝る?」
「はい。わたくしがローラ様に『セシリオ様とは恋愛して婚約したわけではない』などと申したからローラ様は誤解されたのでしょう? 言葉足らずでした。わたくしは、セシリオ様と恋愛して婚約したわけではありませんが、セシリオ様を愛しているのです。だから、いくらローラ様のお願いでもセシリオ様と離縁することはできませんわ」
ローラは黙ったまま、サリーシャをじっと見つめていた。
「わたくし、セシリオ様に助けていただいたのです」
「……助ける? なにから?」
「全てですわ。暗闇で迷子になっているところを救っていただいたとでもいえばいいのかしら」
「救う? 恋物語の騎士様みたいね」
「ええ、本当に。いつでも沈みそうになるわたくしを引き上げてくれるのです。セシリオ様といると、全てが彩りを増して輝いて見えて、つまらなかった日常ですら特別なものに感じて──」
「待って、わたくし、それ知っているわ! 恋に落ちるとそうなるのよ!」
ローラは少し身を乗り出すと、口早にそう言った。本ででも読んだことがあるのかもしれない。
「そう。わたくし、セシリオ様に恋しているのです。そして、セシリオ様もわたくしを慈しんで下さいます」
にっこり微笑んだサリーシャと目が合うと、ローラは顔を歪めた。すぐに目を逸すと、スカートの上に置いていた手をぎゅっと握りしめた。淡い紫色のスカートにぽつりぽつりとシミができる。
「──ごめんなさい……、ごめんなさい……」
顔をくしゃくしゃにして涙を零すローラを、サリーシャは優しく抱きしめた。いつも、セシリオが自分にしてくれるように、抱きしめながらポンポンと背中を叩く。
「ローラ様は謝ってくださいました。だから、仲直りですわ。でも、もうこんなことはしてはいけません。メラニー様とジョエル様にも、もう一度謝って下さいね」
「うん。……そうしたら、またお茶をしてくれる?」
「もちろんです」
「刺繍は?」
「一緒にしましょう」
小指を差し出すと、ローラはおずおずと指を絡めてきた。
***
サリーシャがローラの部屋を出ると、廊下にはメラニーが立っていた。所在なさげな表情は、もしかしたら途中からサリーシャとローラの会話を聞いていたのかもしれない。
メラニーはサリーシャと目が合うと、項垂れるように目を伏せた。
「サリーシャ様には本当に申し訳ないことをしました」
「いえ……」
サリーシャはゆるゆると首を振る。メラニーはぐっと唇を噛みしめた。
「実は一昨日の夜、セシリオが席札のカードを届けに来たとき、あの子にひどく怒られたわ」
「セシリオ様に?」
サリーシャは初めて聞く話に目を丸くする。昨晩もその前日も、セシリオはそんなことは一言も言っていなかった。
「ええ。自分はサリーシャ様と離縁する気などない、サリーシャ様のことは自分が一番よくわかっている、余計なことを言うなと」
メラニーはそのことを思い出したのかはぁっと息を吐いた。
「わたくしがプランシェ伯爵家に嫁いできたとき、セシリオはまだ今のローラより幼いくらいの年頃でした。嫁ぐために馬車に乗り込むわたくしを、泣きそうになるのを堪えながら口を一文字に結んで見送るあの子の表情を、今もはっきりと覚えています。父の葬儀のときにも、立場上弱さを見せるわけにはいかなかったのでしょうね、泣くに泣けなくてじっと表情を殺したまま立ち尽くしていたわ。その後やっと戦争が終わったと思ったらあんな婚約破棄騒動があったりして……。もういい大人なのに、いつまでも自分が守ってあげなければならない小さな子どものような気がしてしまったの。わたくしに対して本気で怒りを露わにするセシリオを見るのは初めてで、とても動揺したわ。それで、気付いたら深夜で、ローラに問いただすのが遅れて──」
メラニーは小さく頭を振って、「こんなことは言い訳にしかならないわね」と呟く。そして、すっと姿勢を正してから深々と頭を下げた。
「サリーシャ様には本当に不愉快な思いをさせてしまったと思います。心から申し訳なく思っているわ。それに、ローラがあんなことをしでかしたのは、親のわたくしの責任でもあります」
サリーシャはぼんやりとそのメラニーの姿を見つめた。
メラニーの気持ちは、サリーシャにも何となくわかった。
サリーシャにも田舎に弟や妹がいた。もしあの子達と再会したら、やっぱり自分が姉なのだからと面倒を見ようとしてしまうかもしれない。そして、メラニーが純粋に弟であるセシリオと故郷のアハマスを心配して行動していたこともわかった。
「メラニー様、どうか顔を上げてください」
サリーシャはメラニーに顔を上げるように促した。
「ここに来て半月と少し、とても勉強になりました。落ち込むこともありましたが、それ以上に楽しかったです。メラニー様のおかげですわ。わたくしはまだ女主人としては未熟ですので、また至らぬ点は指導してくださいませ」
顔を上げたメラニーは意表を突かれたように目を見開き、泣きそうな顔をした。
「わたくしなどでお役に立てるのならば、もちろんよ。サリーシャ様、セシリオとアハマスをよろしくお願いします」
メラニーはそう言うと、もう一度深々と頭を下げた。




