第九話 決心
ふと気が付いた時、辺りは明るかった。
サリーシャはゆっくりと辺りを見渡した。見慣れたアイボリーカラーのドレープは無く、シンプルな設えの室内をカーテンの隙間からもれる明るい光が照らしている。
すぐにアハマスの領主館に到着したことは思い出したが、何かがおかしい。到着した時はすっかりと日が沈みかけていたのに、今は反対側方向から日の光が部屋に差し込んでいるのだ。同じ日の中で、太陽というのは一方向にしか進まないことぐらい知っている。
ということは……と気づき、サリーシャはさあっと青ざめた。
「た、大変だわ……」
到着した時、サリーシャは晩餐を一緒にとるとセシリオと約束した。それが、すっかり寝過ごして、いつの間にか朝になっていた。つまり、サリーシャは到着早々、ここの主であるアハマス辺境伯との約束をすっぽかしたのだ。とんでもない失態である。
ふと自分を見下ろすと、服も昨日のままで、すっかり皺だらけになっていた。当然ながら顔も洗っていなければ、髪の毛も昨日のままだ。
「なんてことっ!」
サリーシャは慌てた。
どうすればいいのかと途方に暮れていると、トン、トン、トン、トンと部屋をノックする音がした。入室を許可する返事をすると、初めて会う女性が顔を覗かせた。年の頃はサリーシャよりも随分と上に見えて、自分の母よりも年上だろうと思った。白髪交じりの栗色の髪を後ろで一つに纏めた、優しそうな雰囲気の女性だ。着ている紺色のワンピースは、昨日到着した時にこの屋敷の使用人達が着ているのを見かけた。
「おはようございます、サリーシャ様。わたくしはサリーシャ様のお世話係を任命されました、クラーラと申します。どうぞ、クラーラとお呼びください」
クラーラと名乗った女性はにっこりと微笑むともう一度お辞儀をした。呆然と立ちつくすサリーシャの前を横切って、少しだけ開いていたカーテンを順番に全部開けてゆく。窓の外からは眩しい光が差し込み、壁紙が白く浮き上がった。サリーシャはその眩しさに、少しだけ目を細めた。
「よくお休みになれましたか?」
「……ええ」
よく休めたどころか、初めて訪れた場所にも関わらず、休み過ぎた。いくら長旅の疲れが出たとはいえ、サリーシャがしたことはとても失礼な行為だ。セシリオが怒って、この婚姻話はなかったことに、といい出してもおかしくないくらいに。
「あの……、アハマス閣下は、大層お怒りになられたでしょうね」
サリーシャはおずおずとクラーラを上目遣いに見上げた。クラーラはキョトンとした表情をして、片手で口元を覆うとおほほっと笑った。
「いいえ。怒るというよりは、がっかりしておられました。疲れて寝ていらっしゃるだけだと何度もお伝えしたのですが、自分が何か不手際をしたせいで嫌われてサリーシャ様がいらっしゃらないのかと、しきりに気にしておられてて」
「わたくしが閣下を嫌って?」
「そのくせ、起こしてくるとお伝えしたら、『疲れてるなら可哀想だから寝かせておいてやれ』って仰るんですよ。おかしいでしょう?」
サリーシャはどんな反応を返せばよいのかがわからず、クスクスと笑うクラーラを見つめ無言で小首をかしげた。セシリオは、まさか朝までサリーシャがぐっすり寝てしまうとは思っていなかったのだろう。むしろ、叩き起こしてくれた方がよかったかもしれない。
「でも、今朝もサリーシャ様がいらっしゃらなかったら本当に落ち込んでしまいますので、是非朝食にはお越しください」
「……ええ。わかったわ」
朗らかな笑顔を浮かべるクラーラの様子から見て、嘘を言っているようにも見えなかった。
サリーシャがセシリオを嫌う? そんなこと、全く理由がない。むしろ、約束をすっぽかしたサリーシャがセシリオから嫌われそうなものだ。とにかく、二日も連続して失礼を働くわけにはいかない。サリーシャはすぐに準備に取りかかろうと立ち上がった。
「わたくし、お湯を用意して参りますわ。昨日はそのままお休みになられていたので、お召し変えされる前に体を拭かないと気持ち悪いでしょう?」
その言葉を聞き、サリーシャはハッとした。服を着替えるには服を脱ぐ必要がある。服を脱げば、背中が晒される。自分のこの醜い傷を、ここの侍女たちに見られるわけにはいかないと思った。
「あのっ、ノーラはどうしているかしら? わたくし、いつも着替えや湯あみはノーラに手伝って貰っているの」
「ではノーラさんを呼んで参ります。今、昨日のうちに顔合わせ出来なかった使用人達と挨拶をしているはずですから、すぐに参りますわ」
クラーラはサリーシャの言葉を特に不審にも思わない様子で頷くと、部屋を出て行った。
その後ろ姿を見つめ、サリーシャはしばらく立ち尽くした。
サリーシャはまだ、アハマス辺境伯のセシリオと執事のドリス、それに侍女のクラーラの三人としかきちんと話してはいない。しかし、昨日のセシリオの対応といい、今日のクラーラの様子といい、ここの人達が自分を未来のアハマス辺境伯夫人として歓迎してくれていることは感じた。
「どうしましょう……」
サリーシャは部屋のドアを呆然と見つめながら、小さく呟いた。
化かし合いはもうたくさん。そう思っていたのに、自分はまたここの人達に重大な嘘をつこうとしている。早く言わなければならないと思うのに、サリーシャにはそれを言葉にする勇気がなかった。
アハマス辺境伯であるセシリオの怒りを買ってここを追い出された場合、マオーニ伯爵はサリーシャが屋敷に帰ってくることを許さないだろう。言えば、間違いなく自分は家無しになり、路頭に迷う。最悪、ガラの悪い連中に連れ去られて高級愛玩奴隷として売られるかもしれない。
それを考えると、どうしても言い出す勇気が持てなかった。
昨日会ったセシリオの体格がよく衛兵のような姿は、お世辞にも貴族らしい貴族とは言い難かった。目つきも鋭く、多くのご令嬢は彼を見て恐怖を感じるだろう。けれど、サリーシャは彼が自分を歓迎しようとしてくれていることは十分に感じたし、その態度は紳士的だったと思う。
「ああ、困ったわ。どうすればいいのかしら」
部屋の中をうろうろと歩き回っても解決策は出てこない。客間には絨毯が敷かれており、その格子模様がまるで出口のない迷路のように見えた。
「サリーシャ様。お待たせしました」
そうこうするうちに、ノーラがやってきた。クラーラもたらいにお湯と布を入れたものを部屋に運びこむ。その様子を見ながら、サリーシャは小さく首を振った。
どう誤魔化そうと、こんな事がばれないはずがない。気付かれない可能性を模索しても、その糸口すら思い浮かばないのだから。
ぼんやりとたらいがテーブルにセットされるのを見つめていると、作業を終えたクラーラはお辞儀をしてから笑顔で部屋を辞した。
「では、後ほどまた伺います」
「ええ、ありがとう」
その姿を見送りながら、サリーシャは決心した。
どうせいつかはこの事がばれて、自分は路頭に迷う運命なのだ。ならば、隠せるところまで隠し通すまでだと。