第二章その2
そして美咲は一敏に揺さぶられて現実に引き戻された。
「おい美咲! 大丈夫か!?」
「あっ……僕は、どれくらいの時間……気を失ってたんだ?」
「二〇秒くらいだぞ大丈夫か!? 急にボーッとして声かけても反応しなくなったんだ……それにお前、泣いてるじゃないか!」
一敏に指摘されてそれで初めて気付いた。頬に手を当てると大粒の涙が伝っているのがわかった。ああ……まただ、またあの女の子の夢を見ている。夢から覚めると記憶が朧気で何も思い出せなくなる。
直美も心配した表情でハンカチを取り出し、涙を拭う。
「美咲……あんたまるでハムスターみたいにフリーズしてたわよ……もしかして何か思い出したの!?」
「いや、でも確かなのは、ここではないどこかに……僕はいたんだ」
美咲は思い出せない白昼夢とも、フラッシュバックとも言えるもので、唯一覚えてるのはあの思い出せない名前の、それこそ直美とは対照的な控えめで芯の強い女の子だった。
合流時刻の一〇分前、改札の向こう側に江ノ電の電車が藤沢駅に到着し、ワラワラと改札を通って降りてくる人々の中に陽奈子もいた。
「みんな、おはよう」
陽奈子は白いフリル付きのサマードレスに麦わら帽子、ヘップサンダル、それにピンクの可愛らしいポシェットを肩にかけていた。
「お、おはよう紺野さん……随分気合いが入ってるわね」
直美は同級生の思わぬ私服姿に困惑してる様子で、陽奈子は誇らしさと照れ臭さが入り交じった微笑みをみんなに見せた。
その数十分前、江ノ島にある開店前のしらす丼屋、奥平唯は開店の準備で忙しい両親の隙を見てこっそり化粧し、部屋着からホットパンツにチューブトップに着替えて七分袖の上着を羽織ると、ショルダーバッグを取ってパンプスを履き、家の玄関から出ようとしていた。
「ちょっと唯! 勉強しないなら店手伝いなさいよ!」
「悪いけど友達と大事な約束があるのよ、夏休みが終わったらいくらでも手伝うから」
「あんた、その頃には地球が滅亡してるからと考えてるでしょ?」
唯は思わずギクッとしながら母親の小言を振り切る。
「そんなの、どう考えたってあたしの勝手よ、いってきます!」
「あっ、コラッ! 唯待って! 行くならついでにこれを坂井さん家に届けてちょうだい」
母親は唯に二一世紀になって二〇年以上が経過しようと言うのに、荷物を包んだ緑色の渦巻き柄の風呂敷を押し付けてきた。
「げっ!? わかったわ、いってきます!」
押し付けられた荷物を持って玄関の扉を閉め、そこから表の弁財天仲見世通りに出ると、既に観光客で溢れかえっていた。
江ノ島は高低差があり、アップダウンの激しい石段を上ったり下ったりしないといけない。唯は文句を呟きながらも、幼い頃から鍛えた健脚で江ノ島の奥にある坂井さん家に届けると、すぐに来た道を急いで戻る。
「ヤバいヤバいヤバい間に合うかな?」
そう呟きながらも以前に比べて何となく年齢層が若いような気がする、私服で修学旅行に来てるのかと思うくらい、唯と同い年前後の子たちも多いような気がした。
「みんな……いい顔してるわね」
眩しいほど表情を輝かせてる。夏休みの終わりに世界が滅びるかもしれないのに、いやだからこそ、精一杯過ごそうとしてるのだろう。早いうちからエーデルワイス団を結成した人たちはきっと、もう一夏の経験とかをしたのかもしれない。
あたしはというと、友達の表情を窺いながら先生や親の言うことをそれなりに聞いて、直美とやりたくもない夏期講習や受験合宿に参加して、願いが叶うなら夏休みの始まりの日に戻りたいと思うくらい灰色の夏休みだった。
唯は同い年前後の人たちを羨望の眼差しですれ違いながら、比較的足の速い小田急の片瀬江ノ島駅から藤沢駅に向かい、合流時刻の数分前に到着した。
「おはよう唯ちゃん!」
陽奈子は穢れなど一切知らない幼い女の子のように満面の笑みで手を振る。
夏の空に浮かぶ雲のように白いサマードレス、麦わら帽子、可愛らしいポシェット、シンプルだけど、それだけダイレクトに伝わる可愛らしさに唯は一瞬で心を奪われた。
次の瞬間、灰色の世界が一瞬でカラフルに眩しく輝いた。
「おはよう陽奈子! ってかなにその格好、超似合う!! っていうかメッチャ可愛い!!」
「あ……ありがとう唯ちゃん、唯ちゃんも今日はなんか大人っぽくって……可愛いね」
唯はモジモジ照れながら上目遣いで言う、その仕草がまさに萌え萌えで、心がキュンキュンしててもう平静を装うのがこんなに大変だとは思わなかった。
「うん! お化粧教えるわ!」
唯は表面上気さくな笑みで言うが、内心では自分でもドン引きするほどだった。
ほっひぃいいいいいい!! なにこの子!! 天使の生まれ変わり!? 超可愛い!!
裏返った奇声とも歓声と言える声で叫びたい気分だったが、直美はそれに薄々気付いてるのか、軽蔑の眼差しで見つめていてそれでハッと我に返る。
「唯……あんたいつから紺野さんと仲良くなってたの?」
「えっ? ええ……っと、な、直美だって水前寺君と仲良くしてるじゃない?」
ヤ、ヤバイ……直美に陽奈子のことをいやらしい目で見てるってバレたかも? 直美にドン引きされて全身から冷や汗が滲み出る。
「まぁ、そこはお互い様ね。早速どこに行こうかしら?」
敢えて問わないのか、それとも気付かなかったのか、それはわからないが一先ず唯はホッと胸を撫で下ろすと、陽奈子は無邪気に手を上げて提案した。
「は~い! 私みんなと江ノ島に行きたい!」
「あたしその提案に一票!!」
唯は地元民が地元を観光するのはどうかと一瞬迷ったが、陽奈子の可愛らしさに迷いを振り払い、賛同すると一敏も肯く。
「そうだな、地元が観光地でよかったかもな」
「うん! 私もそう思うわ!」
好きな男の子である一敏が賛同してれたのがよっぽど嬉しかったのか、陽奈子の瞳と表情は恋する乙女そのものだ。
「それなら小田急に乗ろう、あれなら足が速いしそっちの方が座れるわ」
直美が言うと唯は肯きながらちょっと残念に思う、本当ならみんなで江ノ電に乗る方が風情があるけど、この時期は明らかにキャパシティを超えるほどの人が乗る。
元々は地元住民の足のはずが、いつの間にか観光列車となってる江ノ電、沿線の地元住民にはちょっと気の毒な話だと思ってると、一敏が待ったをかける。
「待て、美咲は今年……記憶を失う前、江ノ電に乗ってたと話していた……だから、江ノ電に乗って行こう」
「そうなのか一敏? 僕が江ノ電に?」
美咲は縋るような眼差しで見つめると、一敏は美咲に目を合わせて自信ありげに肯く。
「ああ、乗った途端に思い出すかもしれないんだ」
なるほど、記憶喪失だから些細なことで思い出すかもしれない。だが美咲は少し考えるような表情になると、首を横に振った。
「いや、気持ちはありがたいが僕のためにみんなの時間を使うわけにはいかない」
「そうよ、あたしは美咲の意志を尊重すべきだと思うわ」
直美が美咲に味方すると、一敏は反論する。
「直美! このまま美咲の記憶が戻らないまま滅亡を迎えていいのか!?」
「そう言ってるんじゃないわよ! あたしたちのために気を遣ってくれるのにそれを無駄にするつもり!?」
直美が強気で返すと唯はオロオロする、ヤバいこのままじゃまたこの前みたいに口喧嘩が始まってしまう。そう思った時、陽奈子が遮るような声で言った。
「二人ともそこまで! 多数決で決めるわ、江ノ電がいい人!」
唯は正直に「はい!」と手を上げると陽奈子、一敏も手を上げる。あっさり決まって、直美は気まずそうな表情になり、ぎこちない口調になる。
「まあ……ちょっと歩くけどいいか、歩きながらゆっくり行くのもいいかもね」
「僕はどっちでも構わないさ」
美咲はどちらでもよかったのか、と唯は内心呆れる。よく言えば臨機応変だが悪く言えば優柔不断とも言える。と言うことは事実上直美の味方はいないと言える。だがそれよりもこの可愛らしい今日の陽奈子、絶対に一敏の気を引くためだろうと確信する。
頑張るのよ、陽奈子!
唯はチラッと陽奈子に視線を送り、真剣な眼差しでアイコンタクトすると陽奈子は緊張と自信が入り混じった笑みで肯いた。
「さぁ決まったなら、行こうみんな! 灰沢君も!」
大胆にも陽奈子は一敏の手を掴んで改札口に向かい、江ノ電藤沢駅から江ノ島駅に向かう。