第一章その2
緊急の登校日が終わると、一敏は心配した面持ちで立ち上がって直美を誘う。
「直美……一緒に帰らろう」
「ごめん一敏……もう少し一人にさせてくれない」
直美はあの日以来からよく使ってる断り文句、だけど残された時間はもう僅かだ。
一敏は嫌われても構わない覚悟で歩み寄る。
「俺はもう……四月から待ち続けている。直美、もう十分殻に籠っただろう……みんなも心配してる、啓太だってきっと――」
心配してると言おうとした瞬間、直美は両手で机を叩いて勢いよく立ち上がり、いつものように当たり散らし始める。
「あんたに、あたしの気持ちなんてわかるわけないよ!!」
クラスメイトたちや教室を出ようとした担任の先生の視線が集中し、静まり返る。
直美は構う様子もなく、ヒステリックに振る舞い、誰彼構わず当たり散らす。
「啓太はもういない!! 世界がもうすぐ終わる!! なら残された日々を好きなように過ごすのはあたしたちの勝手よ!! なのに……」
直美は白い歯をギリギリと噛み締め、憎悪と憤怒に満ちた眼差しで教室内を睨み回す。まるで目に写る人間全てが敵だと言わんばかりに、それは一敏も例外ではなく低く唸るような声になる。
「あんたたちはそれを許さなかった……啓太は残された日々を精一杯過ごそうとした! あんたたちは啓太が追い詰められてるのを黙って見ていて!! そして死に追いやった! 啓太は……あんたたちが殺したのよ!!」
直美の眼差しは怒りと悲しみ、そして憎しみの炎をメラメラと燃やしていた。
誰も反論できない、一敏もできるわけがない。
あの日以来直美は誰にも心を開かず、差し伸べる手を全力で拒絶し、振り払い、沢山いた友達も離れてクラスから孤立していった。辛抱強く声をかける一敏は何度も拒絶され、心ない言葉で罵倒されようともめげるわけにはいかなかった。
「もう……あたしのことなんか放っておいてよ……最後の……残りの夏休みくらい一人で好きに過ごしたっていいじゃない」
直美が教室で人目を憚らず罵倒し、次の瞬間には嗚咽するのはもう珍しくない光景だった。
あの時は滅亡するか否か? 一敏のように本音では信じながらも、信じないように振る舞うことを強要された空気に抗う術なんて、持つことさえ許されなかったのだ。
「そんなこと、できるわけないよ!」
廊下から毅然とした声が響き、みんなその場所に注目すると紺野陽奈子が教室の扉の前で堂々と立っていた。陽奈子は一年生の頃、直美と同じクラスで何度か言葉を交わしてるのを見たことがある。
違うクラスの生徒であるにも関わらず、回りの生徒たちの視線を恐れ、意に介する様子もなくただ前を向いて直美の所までゆっくりと確実に歩み寄る。
「教室で喚き散らす鶴田さんを放っておくのは簡単よ。でも、灰沢君はそんなことできるわけないよ鶴田さん! あの時私も死のうと冷たい海に飛び込んだ……だけど灰沢君は私を助けてくれた! 灰沢君は強くて優しい人よ! その灰沢君のことを邪険に扱って、見放されたら、本当に独りぼっちになっちゃうわ! それでいいと思ってるの!?」
思わぬ乱入者にクラスメイトたちはただ陽奈子を見つめ、直美は理由なき憎悪に満ちた眼差しと邪悪なオーラを放ち、高圧的な口調で言う。
「あんたに……あたしの何がわかると言うの?」
陽奈子は屈することもなく、躊躇いを振り払うかのように決して大きくないが、ハッキリとした声で言い放つ。
「私も鶴田さんと同じ気持ちよ。まだ……この夏を諦めたくない」
まだこの夏を諦めたくない。それは一敏にも突き刺さる言葉だった。夏休みの終わり、すなわち世界の終わりまであと二週間しかないが、前向きな人ならまだ二週間あると考えてる、陽奈子はきっとその中の一人だろう。
直美は気持ちを見抜かれていたたまれなくなったのかブルブルと震え、唇を噛みながら俯く。
「どうにもならないのよ……あたしには、どうすることもできないのよ!!」
直美は吐き捨てて鞄を乱暴に取り、逃げるように教室を飛び出した。
「おい直美! 待て!」
一敏もすぐに後を追って教室を出る。置いていく紺野には悪いが今は直美が心配だ、後でLINEとかで連絡すればいい。自転車も取りに行く暇はない、後で取りに行けばいい。
学校を飛び出し坂を駆け下りると、丁度線踏み切りの遮断機が降りて江ノ島電鉄鎌倉行きのクラシックな電車が高校前駅を出発する。
直美は江ノ電が通過する間、走り続けて息を切らしたのか両手を両膝に置き、肩で呼吸していた。
だけど一番苦しいのは息ではなく心だ、啓太を亡くした痛みは今も直美を苦しめている。
目の前で好きな女の子が苦しんでるのに、自分はただ黙って傍にいて見ているしかない。自分の無力さに、怒りと焦燥感で啓太の代わりに自分が死ねばよかったと思うくらいだった。
「直美……俺も……どうしたらいいかわからないんだ」
「あたしたち……どうすればいいの……ねぇ教えてよ啓太……いるんなら、あたしたちを助けてよ」
直美は覇気をなくした声で弱音を吐き、一敏は何もできない自分自身の無力さが情けなくてしょうがなかった。
直美がヒステリックに当たり散らして飛び出した後の教室、半数は帰ったが残りの半分は友達やクラスメイトと話していて、奥平唯もその中の一人だった。
奥平唯は中肉中背の垢抜けていて、肩まで伸びた癖っ毛のある栗色の髪、元女子バスケ部で引き締まった四肢に豊満な乳房、端正な顔立ちに華やかなメイクを施したギャルと言った感じで、周りからは恋愛経験が豊富そうだと言われたことあるが断じてない。
唯の所属する女子グループの子達が、それなりに経験あるからきっと唯もそうに違いないと思われてるのだろう。
「ねぇ唯、あの直美の姿見た? なんかもうメンヘラじゃない?」「なんかさぁ、もうあたしたちの知ってる鶴田さんじゃないような気がする」「ずっと好きだった羽鳥君が死んで悲しいのは無理もなないけどさ、おかしいじゃない?」「っていうか灰沢君が可哀想じゃないの?」
次々と出てくる女子グループのメンバーたちの無自覚な悪意を感じる言葉に、唯は作り笑いをしながら曖昧に肯く。
「そ、そうだよね……なんか灰沢君も大変だよね」
ふと自分も他の子と同じように他人事のように言ってることに気付き、自己嫌悪する。あたしだって、直美の友達なのに……これじゃ裏切り者じゃない! それを表情に出さないようにしてると、グループのリーダーである坂崎香織がふと口にする。
「そういえばさっきの子、紺野さんだっけ? 灰沢君に気があるのかしら?」
それで唯は気づいた、あの子は何も包み隠さず直美に本音をぶつけてるようにも見えた。自分はどうだろう? 次の瞬間、唯は居ても立ってもいられなくなった。
「ごめん香織……あたしちょっとやらなきゃいけないことがあるの」
「しらす丼屋の手伝い?」
「それも……かな、ごめん! 今日はもう帰るね!」
江ノ島のしらす丼屋の娘である唯に坂崎さんはなんとなく言うと、唯は適当に言って教室を飛び出す。まだ遠くには行ってないはずよと追いかける、あの子は確か江ノ電に乗って通学してたはずと、高校前駅近くの踏切まで走ると後ろ姿を捉えた。
「紺野さん! 紺野さん!」
呼び止めると陽奈子は振り向く、見ず知らずの同級生に声をかけられたからか、少し警戒してる様子だ。女子バスケ部を引退してからか、若干スタミナが落ちたような気がして息を切らしてた。
「よかった間に合った……紺野さん、ちょっといい?」
「う、うん……少しなら、えっと――」
「あたしは奥平、奥平唯よ……よろしくね」
唯は自己紹介するが陽奈子は明らかに警戒してる、無理もないだろう。
自分とはクラスも立場も違う。陽奈子は地味な感じだがよく見るととても可愛らしい顔立ちで、澄んだ瞳をしている。呼吸を整えた唯は単刀直入に言う。
「紺野さん、灰沢君のこと……助けたいと思ってる?」
「うん、灰沢君は私の命の恩人だから、今度は私が助ける番だと思うの」
「あたしね、直美――鶴田さんと仲がいいの、あんな風になっちゃってあたしも友達を助けたいと思ってるけど……なにもできなくてね」
「私も……何回も灰沢君を説得してるけど、鶴田さんのことが見捨てられないって……灰沢君、鶴田さんのこと大事に思う気持ちはわかるんだけど……」
そこで陽奈子の言葉が途切れる、口にするのは面映ゆいらしい。もしかしてと唯は確信して言い当ててみる。
「紺野さん、灰沢君のこと……好きなの?」
それで陽奈子はピタッと固まって頬を赤らめ、俯いてモジモジしながらもハッキリ「うん」と首を縦に振る。可愛らしい純情な乙女そのものの仕草で、唯は思わず可愛くて抱き締めたいと思うほどだった。
「こ、このこと……誰にも言わないでね」
「勿論よ紺野さん、秘密にするって約束するわ……さっき話してた子たちにも秘密にするわ」
「うん……約束……」
陽奈子は自分とよく喋る友達とは正反対な女の子で、モジモジしながらスマホを取り出してLINE交換かなと思いながら唯もスマホを取り出すと、陽奈子は何かのアプリを起動させて見せた。
「奥平さん……これ知ってるかな?」
「これってまさか……紺野さん、君ってもしかして」
陽奈子は無言で肯いた、薄雪草のエンブレム――まさかと思いながら唯は陽奈子を見つめると、彼女は躊躇うような口調で喋る。
「うん……エーデルワイス団、最後の夏休みを精一杯過ごそうと言う秘密結社で、ルールさえ守れば自由に結成して好きなように活動していいって」
「好きなように……ね」
唯はエーデルワイス団公式サイト兼専用SNS――バッカニアに書かれたルールを目で読む、ルールは次の通り。
一、互いの意志を尊重し合い、自分の意志を信じること。
二、互いを貶めたり、名誉を傷つける行為等は一切行ってはいけない、互いの名誉を守る努力をすること。
三、互いに助け合い、尊敬し合い、信頼し合う関係を築くこと。
四、二に反しない限り、エーデルワイス団に入団、退団は個人の意志で決めるとする。
五、この夏を自分の意志で過ごしたい者のみ入団を認める。
六、二〇二一年九月一日午前零時をもって解散とする。
そして陽奈子は唯に縋るような眼差しで提案した。
「ねぇ……奥平さん、私……エーデルワイス団を作ろうと思ってるの。灰沢君や鶴田さんも誘って、もう……二週間もないけど」
夏休み、つまり滅亡まで残り二週間、唯はまるで仲間になって欲しいと言ってるように聞こえ、唯はなんとなく感づいて訊いた。
「もしかして紺野さん……エーデルワイス団をずっと一人でやってきたの?」
それで陽奈子の瞳は微かに動揺するが、すぐに決心した眼差しになって肯いて話す。
「うん……学校にもいくつかのエーデルワイス団がいるみたいだけど、私はずっと一人でやってきたの……私、クラスではいじめられて一人だったから……誘う勇気がなかったの……この夏休みに知り合ったエーデルワイス団の人たちもいたけど、怖くて……灰沢君を誘おうと考えたけど、鶴田さんのことでいっぱいだったから……」
「それじゃ、あたしが紺野さんの――」
唯は一度言葉を途切れさせて陽奈子の両手を取り、改めて言う。
「いいえ、陽奈子の友達になって最初のメンバーになるわ。あたしのことも唯でいいわ」
「うん、ありがとう唯ちゃん」
陽奈子は陰りのない笑みで肯いた、やっぱり笑うととても可愛い。そうと決まれば早速行動開始だと、唯はLINEで直美にメッセージを送る。
『直美、今どこにいるの? 灰沢君も一緒なら今から会えない?』
この数ヶ月間直美にLINEを送っても返事が来ない日が続いてた、念のため陽奈子にも頼んでみる。
「陽奈子、灰沢君とLINEしてる?」
「うん、今送ったわ……あっ来た!」
すぐに返事が来る。全く直美ったらすぐ返事をくれるほど誠実な灰沢君を邪険扱いするなんて、と半ば呆れながら陽奈子を見ると、彼女はメッセージを読み上げる。
「えっと……今、江ノ電に乗って藤沢駅に向かってるって」
「それなら追いかけよう、藤沢駅で待ち合わせって」
唯は最低でも一二分は待たせるだろうなと思ってると、陽奈子は物凄いスピードでメッセージを打って送信した。