プロローグ
プロローグ
「……くん……み……くん、みさきくん」
ぼやっとした遠い意識、無重力空間でフワフワ浮いてるような感覚、その中で誰かを呼ぶ女の子の声。途切れ途切れで、だけど必死で呼んでる声だった。
ぼやけた真っ白い世界の中、その女の子だけがはっきりと目の前で姿を見せた。
セミロングの黒髪に黒いアンダーリムの眼鏡、素朴だがよく見ると顔立ちの整った可愛らしい知性的な女の子、どこの学校の制服かは思い出せないが清涼感溢れる夏服がとてもお似合いだった。
「みさきくん……みさきくん……」
女の子はアンダーリムの眼鏡を外し、今にも大粒の涙を流しそうな瞳で見つめていた。
みさき? 誰? もしかして僕のこと? ゆっくりと右手を伸ばそうとした時、急速に現実に引き戻され、見知らぬ同い年の少年が必死で叫んでいた。
「しっかりしろ!! 立てるか!? また落ちてくるぞ!!」
君は誰? どうしてそんな顔してる? そう訊く間もなく抱え上げられ、まるで米俵のようになる。耳をつんざくような警報、津波警報とは違うようだ。顔を上げて周囲を見回すと、後ろには凄まじい衝撃によって倒壊した建物だった瓦礫が見える。
まさか……さっき自分はそこで倒れていて助け出された? 抱え上げた自分と同い年くらいの少年は誰だろう? 名前を訊こうとした瞬間、空が甲高く響いた。
「今のは何だ!?」
「隕石だ! ジェネシス彗星の先遣隊だろう! クソッ、マイケル・ベイの映画が現実になるなんて聞いてないぞ!」
隕石? 彗星? なんのことだ!? 周囲の人々は青褪め、怯え、あるいはこの世の終わりがやってきたと言うような表情で見上げ、逃げ回り、泣きじゃくり、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
やがて警報が収まると小さな公園でようやく下ろしてもらい、自分を抱え上げて走った少年は激しく息切れしながら近くのベンチに座り、全身から物凄い量の汗を流していた。
「はぁ……はぁ……とにかくお前が無事でよかったよ、みさき」
みさき? もしかして僕のことかと恐る恐る関節が錆び付いたかのように自分に指を差す。
「みさき? それって……僕の名前?」
「お前まさか……何か覚えてることないか? 何でもいい! 言ってくれ!」
線の細い繊細で狐のような顔立ちの少年は戦慄した表情で縋るように訊いたが、覚えてることは何もない。今がいつで? ここはどこか? 自分は誰なのか? 何にも覚えてないこと、それが徐々に不安になって肥大化し、やがて恐怖に変わる。
青褪めた表情になって少年は察したのか、諭すように説明する。
「わかった、もういい。いいかお前の名前は水前寺美咲で俺の名前は灰沢一敏だ。お前とは親戚同士だ。一敏でいい」
「ああ、わかった……君が一敏で、僕は美咲」
「そうだ、いいかここは藤沢……湘南、わかるか?」
「ああ……なんとなくわかる」
美咲は肯いて頭に地図を思い浮かべる、知識としては失われてないようだ。そして一敏は一通り説明する。
今は夏休みの終わりが近づいた二〇二一年の八月後半で、地球に直径約一〇キロの彗星――ジェネシス彗星が接近していて、八月三一日の深夜から九月一日の早朝に衝突する可能性がある。
つまり、今から約二週間後に世界が終わるかもしれないという。
終わるかもしれないという言葉に美咲は首を傾げた。
「終わるかも……しれない?」
「ああ、公式発表されてないが地球に衝突する確率は五分五分だ……なぁ……今のお前ならどう思う? 俺は正直信じたくはないが……終わるならそれに備えてる奴らもいる」
「備える? 世界の終わりに?」
「ああ、世界が終わる確率が五分五分ということは、人類の滅亡を信じる奴と信じない奴に別れることになったんだ……今年の五月だったか? 人類が滅びるまでの時間を精一杯過ごそうって言う秘密結社――エーデルワイス団が現れたんだ、覚えて……ないよな?」
「うん……だけど……なんだか忘れてはいけないような響きだ」
エーデルワイス団……不思議だ。とても温かく、失くしてはいけない大切な響きだと心と体で感じていた。一敏は少し目蓋を動かすと、美咲を見つめる。
「忘れてはいけない響きか……美咲……お前、エーデルワイス団の一員だったかもしれないな」
「悪の組織なのか?」
美咲は本心で言ったが、一敏には冗談に聞こえたのだろう、彼は苦笑しながら首を横に振った。
「いや、でも正義の味方でもないが……凄い奴らだよ。おかげで俺たちくらいのエーデルワイス団は夏休みなのに受験勉強や夏期講習、就職活動を放り出して遊び惚けてる奴らが巷に溢れてる、まっそれが本来の夏休みのあり方だが、世の中の方も彗星接近で仕事を辞める奴らも溢れ、どこの会社も人手不足、世の中は静かな大混乱だ」
「君は……一敏はどう思ってるんだ?」
「少なくとも、羨ましいとは思ってる……でもこんなことを口にしたら……一斉に白い目で見られる未来が待ってる」
一敏はどうしようもないと首を横に振って立ち上がり、ベンチの近くにある自動販売機からスポーツドリンクを買って一気に半分を飲み干す、美咲は何も覚えてないが少なくとも諦めさせたくないと心が感じていた。
なんだろう? 似たようなことが前にもあったような気がする。思い出せない、だけど美咲は言葉にせずにはいられず、感情の赴くまま真剣な眼差しで捲し立てた。
「一敏、確かに滅亡するかどうかわからない! だけど最悪のケースを考えた時、どうするべきか僕にはわかる! 一敏だって本当は何をしたいのかわかってるはずだ! それに確証はないけど、味方は案外すぐそばにいるかもしれない! 諦めるには早過ぎる!」
呆気に取られ、目を丸くした表情の一敏は少し安堵したような笑みになる。
「ふっ……記憶を失くしても、やっぱり美咲は俺の知ってる美咲だ。根本的なところは失ってはいない、安心したよ」
すると一敏はポケットからスマホを取り出すと、ベンチから立ち上がり耳に当てて話し始めた。
「親父! ああ、美咲は無事だが……記憶喪失だ……本当だ! こんな時に冗談を言うほど馬鹿じゃない……ああ……うん……そうか……わかった……すぐそこの公園にいる」
一敏の表情は重苦しく、石のように固まっていた。美咲はその端整な狐のような横顔を覗きこんで訊いた。
「何かあったのか?」
「いや、近くで親父が瓦礫の下敷きになった人の救助して一段落したところさ……これから迎えに来るって……一応頭打ってるからな……病院受診した方がいいって」
一敏の口調は急に重石が乗ったかのような口調だった。




