条件は忘れて
今回長いです。
「うわぁ…美味しそうですね。」
運ばれて来た料理に、怜が感嘆の声を上げた。司の行き付けの居酒屋の個室のテーブルに、司の好物が盛られた皿が、所狭しと並べられていく。
「では、ごゆっくりどうぞ。」
店員が一礼して立ち去ると、怜は司に向き直って笑みを浮かべた。
「司さん、お誕生日、おめでとうございます。」
「ありがとう。」
互いに烏龍茶の入ったグラスを合わせ、喉を潤した怜は小さく息を吐き出した。
「どれも美味しそうですね。司さんの一番のお勧めは何ですか?」
「この季節は筍ご飯だな。でも怜、無理して笑わなくて良いよ。本当はまだ落ち着いていないんだろう?」
季節限定の筍のお吸い物に口をつけながら司が指摘すると、怜は目を見開き、貼り付けていた笑顔を消して俯いた。
「すみません。お気を遣わせてしまって。」
「気にしなくて良いよ。それより、勝手に話を進めてしまったけれど、これで良かったのかな。もし怜がどうしても嫌だったら、今からでも角田さんに断りの連絡を入れておくけど。」
司の申し出に、怜はお椀をテーブルに置いて首を横に振った。
「いえ、その必要はありません。それに、司さんがあの場に居てくださって本当に助かりました。私一人だと、感情的になってしまってとても対応出来なかったでしょうから。ありがとうございました。」
頭を下げた怜は唇を噛み締めた。箸と茶碗に添えた手が僅かに震えている。
「角田さんのお話とやらは、遅かれ早かれ聞かなければならなくなるでしょう。ここ最近、誰かに見られているような気がしていて、気のせいかと思っていたのですが、おそらく藤堂が私の事を探っていたのだと思います。会社の前で待ち伏せされていた事から考えると、住所ももう突き止められてしまっているでしょうね。頑なに拒否した所で、再び会社や家に押しかけられるだけだと思います。」
諦めたような表情で推論を語る怜に、司はぐっと箸と茶碗を持つ手に力を込めた。会社では兎も角、家に押しかけられたら流石に怜を守れない。防犯面に不安がある怜のアパートを思い出し、司は言い知れぬ恐怖を覚えた。
「そうか…。だったら、暫く俺の家に避難して来ないか?」
「え…?」
司の提案に、怜は目を丸くした。
「俺のマンションならオートロックだし、防犯面も安心だ。それに、四六時中怜の側に居られるから、何かあっても守ってあげられる。勿論、無理にとは言わないが、怜さえ良ければそうしてくれないか。その方が俺も安心出来るんだ。」
それって…司さんと一緒に住む、っていう事!?
顔を真っ赤にした怜に、司も漸く自分が口にした事の意味を理解して慌てた。
「べ、別に変な事は考えていないからな!俺は純粋に怜の事が心配なだけだし、怜の嫌がるような事は絶対にしないから!」
顔を赤くした司の勢いに、怜はこくこくと頷いた。
「あの…ありがとうございます。お気持ちは大変嬉しいのですが、司さんにこれ以上ご迷惑をおかけしてしまう事は出来ません。これは私の問題ですし、きちんと自分で解決します。角田さんのお名刺、頂けますか?」
怜の言葉に多少の寂寥感を覚えながらも、司は名刺を取り出して怜に手渡した。怜は名刺を鞄にしまうと、お吸い物に口をつけて一息つく。
「…まさか、藤堂が今更連絡を取ろうとしてくるなんて、思ってもいませんでした。一生関わらないで済むと思っていたのに。」
暗い表情をした怜の眉根がぐっと寄せられ、司は豚の角煮を食べる手を止めた。
「君の実のお父さんが縁を切ったという実家が、藤堂コンツェルンだったんだね?」
「そのようですね。私が知っていたのは、父の名が藤堂秀樹と言う事だけですから。父は私が生まれる直前に他界してしまったので会った事はありませんし、母に父の事を訊いても、優しくて頼り甲斐のある人だった、と言いながら、いつも悲しげな表情をされてしまったので詳しくは聞けないままでした。ですが、父が当時未成年だったにもかかわらず、母のお腹に宿った私を守り抜き、家族との縁を切るという決断をしてまで、私をこの世に出させてくれた。その事だけで、私は父を心から尊敬しています。」
父を語る怜の表情が少し和らぎ、司は口元を緩めた。
「確かに、凄い人だよな。その歳でその選択は、なかなか出来る事じゃない。」
「私もそう思います。出来る事なら、一度だけでも会って話をしてみたかった。叶わぬ夢ですが。…でもその父の死の遠因を作ったのが、藤堂である気がしてならなくて…。」
怜の瞳の奥に、再び仄暗い灯が点る。
「藤堂さえ、母を認めてくれていれば。父と母を支援してくれていれば。父が大学を中退して働き、職場の火事に巻き込まれる事は無かったかも知れない。もしかしたら、今も元気で生きていたかも知れないと…。それだけではありません。母の話によると、藤堂は母の事を金目当てだとか、あばずれだとか、散々罵ったそうなんです。挙句の果てには、お腹の子が本当に父の子かどうかすら怪しいと。その話を聞いた時は、藤堂との縁を切っておいてくれた父に心底感謝しましたね。藤堂になんか、この先一生関わりたくない、そして関わらなくて済むと思い、気にも留めていなかったのですが…。二十八年も前に父と縁を切り、その後一切連絡もして来なかった藤堂が、今更一体何の用で会いたいと言って来たんだか。」
眉間に皺を寄せ、瞳の奥に点した灯を燃やしながら憎々しげに吐き捨てた怜は、ハッとしたように顔を上げた。
「すみません、変な話をしてしまって。この件については、ちゃんと自分で解決します。司さんにはこれ以上のご迷惑はおかけしませんから、ご安心ください。」
司は怜の表情に息を呑んだ。完璧に貼り付けられた笑顔の仮面。これ以上の自分の介入を拒絶しているように感じるのは気のせいだろうか。気を取り直して食事を楽しもうと言う怜は、一見完全に気持ちを切り替えたように見えるが、おそらくは空元気だ。
司は俯いた。何故恋人である自分を頼ろうとしてくれないのか。藤堂の名を口にするだけで、普段は冷静沈着である彼女がこうも心を千々に乱す程なのに、何故自分一人だけで立ち向かおうとしてしまうのか。そんなに、自分は頼りないのだろうか。
「怜、やっぱり俺も角田さんとの話し合いの席に立ち会う。」
「えっ…。」
意を決した司の言葉に、筍ご飯に手をつけようとしていた怜は戸惑った表情を見せた。
「怜の事が心配なんだ。怜が問題を抱えているなら、俺も力になりたい。そうさせてくれないか。」
司の申し出に、怜は一瞬視線を彷徨わせたが、しっかりと目を合わせて口を開いた。
「お気持ちはありがたいのですが、ご心配には及びません。自分の問題は、自分で解決します。」
貼り付けた笑みを見せる怜に、司は唇を噛み締める。明らかに無理をしていると分かるのに、何故自分一人だけで解決する事に拘るのか。
「怜、俺が力になれる事は、何もないのか?そんなに俺が頼りないのか?」
初めて出来た、最愛の女性に頼ってもらえない事が悲しくて、自分が情けなくて口惜しくて。司の口調は、知らず懇願に近いものになっていた。
「いえ、そんな事はありません!司さんにこれ以上のご迷惑はおかけしたくないんです。…司さんに、嫌われたくありませんから。」
「え…?」
怜が漏らした言葉に、司は目を見開いた。
「司さん、前に仰っていましたよね。我が儘でなく理知的、話も要点を抑えていて簡潔、決断も早く金銭感覚もあり、見た目も派手ではない、問題も冷静に自己解決出来る…そんな女性が条件だと。」
怜の指摘に、司は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けて絶句した。そう言えば結婚相手を探す時に、そんな条件を挙げていた気がする。
「今日は突然の事だったのでつい感情的になってしまいましたが、次は大丈夫です。問題は司さんにご迷惑をかけずに、きちんと自己解決して見せます。だから…嫌わないでください。」
俯く怜に、司はガタリと音を立てて立ち上がった。テーブルを回り込み、対面で目を丸くしている怜の横に移動して強く抱き締める。
「嫌わない。俺が怜を嫌うなんて有り得ない!!頼むから、そんな条件は忘れてくれ!!俺が好きなのは怜なんだ。君がありのままの君で居てくれさえすれば、どんな君だって構わない!!」
「え…?」
突然の司の行動に動揺した怜は、司の言葉がすぐに理解出来ずに混乱する。
「我が儘だって言って欲しい。怜の我が儘なら、どんな事でも叶えて見せる。物分かりが良くなくたって良い。怜の話ならどんな事でも聞きたいし、優柔不断でも、金遣いが荒くても一向に構わない。だから、問題は一人で抱え込まないでくれ!俺は怜の力になりたい。もっと怜に頼られたいし、この手で怜を守りたいんだ!!」
司の言葉の一つ一つを、怜は脳内で反芻する。少しずつ理解していく毎に、怜の目には次第に熱いものが込み上げてきた。
「良いん…ですか?司さんを、頼っても…?」
恐る恐る尋ねる怜に、怜と視線を合わせた司は力強く頷く。
「怜に頼られる事が、俺は本当に嬉しいんだ。だから、自分一人で解決しようと思い詰めないでくれ。俺が力になれる事なら何だってする。迷惑なんかじゃない。怜の為に出来る事があるなら、それをするのが俺の望みであり、喜びなんだ。」
目を細めて顔を綻ばせる司に、怜の目からぽろりと涙が零れ落ちた。
「では…同席をお願いしても宜しいですか?本当は不安で…冷静で居られる自信がなくて、怖くて…!」
「勿論だ。大丈夫だよ、怜。俺が付いている。」
嬉しそうに笑って怜の涙を指で拭う司に、怜も心の底から安堵したような笑顔を見せた。
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