返事
今回少し長めです。
その日を境に、少しずつ怜は変わっていった。司がその変化に最初に気付いたのは、休み明けに怜が貸したハンカチを返しに来た時だ。丁寧にアイロンがかけられたハンカチに焼き菓子を添えて返した時の怜の表情は、感謝の念を込めた柔らかな微笑みが湛えられており、司は見惚れるあまり暫く声が出せなかった。
仕事中でも、今までは常に無表情だった怜が、仕事を頼んだ際や報告の際など、何かしらの折に微笑みを見せる事が増えていった。司はその変化を大変好ましく思っていたが、社内でも何時の間にか噂になっていたようで、無表情な副社長秘書が笑うと実は意外と可愛かった、と男性社員が口にしている所に出くわした時は、内心穏やかではいられなかった。何時か折を見て再び伊達眼鏡を外すよう勧めてみるつもりでいたが、自ら無駄にライバルを増やす結果になりそうなので、この先ずっと口を噤んでおく事にしたのはここだけの秘密だ。
そんな怜の些細な変化にもすぐに気付く辺り、この二人は流石だと言った所か。
「怜さん、今日は随分ご機嫌だね!」
三月最終週の日曜日の昼下がり、司の家のソファーに座ってコーヒーを飲みながら、咲が怜に話しかけた。
「そう見えますか?」
怜には自覚が無いらしく、きょとんとした表情をしている。
「うん!何て言うかな、いつもより表情が豊かって言うか、明るい感じがするって言うか。」
「何かずっと心に引っかかっていたものが取れてすっきりしている、みたいな感じだな。怜ちゃん、何か良い事あった?」
明の質問に、怜は口元を緩める。
「そうですね。こんな自分でも受け入れてくれる人がいる、と知って、少しだけ、自分に自信がついた…。そんな所でしょうか。」
少しだけ頬を染めて照れた様子を見せつつ、柔らかく微笑んだ怜に、三人は揃って顔を綻ばせた。
「ふーん?さては先週、司と出かけた時に何かあったな?よし、吐け司。」
「お断りだ。」
「お兄ちゃんずるーい。私も知りたい!」
「絶対に俺の口からは言わん。」
「あっそ。良いもん、怜さんに訊くから!」
司に即答で断られた咲は、その隣に座る怜ににっこりと期待を込めた眼差しを向ける。
「え…ええと…。」
「怜、言わなくて良いから。」
困惑顔の怜を制した司に、咲は頬を膨らませた。
「お兄ちゃんのケチ!」
「何とでも言え。」
「怜ちゃんの独り占めは良くないぞー司。」
「不満があるならお前達はもう帰れ。」
何故か司だけが責められる事態に、怜はおろおろする。だからと言って、お墓参りの時の事を二人に語る気にはなれなかった。二人も自分の事を思ってくれている事は分かっていたが、過去の詳細を知らせておくのは司だけで良い、と思う。何故司だけなのか、という自身の問いには、自分でも答えられなかったが。
「あ…あの!お二人にお願いがあるのですが…。」
怜が頼み事をするとは珍しい、と、三人は口論を止めて怜を見つめる。
「期限には少し早いのですが、あの時のお返事をさせて頂きたくて。」
怜が何の事を言っているのかは、三人共すぐにピンと来た。咲が作った「お試し期間」に対する返答だ。余計な物がなく整頓されたシンプルなリビングのソファーを中心に、緊張した空気が漂う。
「もし良かったら、これからもお友達として、お付き合い頂きたいのですが。」
「怜さん!!」
勢い良く立ち上がった咲は、ソファーに座っている怜目掛けてダイブした。
「やったあああ嬉しいいい!!怜さん、これからも宜しくねっっ!!」
お腹周りをがっちりとホールドされ、怜は驚きのあまり戸惑っていたが、満面の笑顔で見上げてくる咲に顔を綻ばせた。
「はい。こちらこそ宜しくお願いします。」
「怜ちゃん、これからも宜しく!」
明も立ち上がって歩み寄り、怜に手を伸ばす。
「こちらこそ宜しくお願いします。」
咲に抱き付かれている為立ち上がれない怜は、手だけ伸ばして明と握手を交わす。その様子を、司は憮然とした表情で見守っていた。
「…怜、友達になりたいのはその二人だけ?…俺は?」
司の問いかけに、怜は顔を赤く染めた。
「つ…司さんはですね、あの…その…。」
言葉を濁し、視線を彷徨わせる怜の様子に、明と顔を見合わせた咲は立ち上がった。
「ごめーん!急用思い出しちゃったから、私達帰るね!」
「え?ええ?咲さん!?明さん!?」
「頑張れよー司。ちゃんと後で報告しろよ。玉砕していても骨くらいは拾ってやるぞ。」
「やかましい!帰るならさっさと帰れ!」
賑やかな二人が出て行くと、リビングは緊張に包まれた。怜は身を硬くして縮こまるようにソファーに座っている。
「怜、俺は…?もしかして、友達にもなりたくない?」
静かに尋ねる司に、怜は慌ててブンブンと首を横に振る。
「ち、違います!その…私もどう言えば良いのか分からないのですが、司さんは、特別、で。」
「特別…?」
怜の言葉に、司は目を丸くした。知らず心臓が騒ぎ出す。
「その…咲さんと明さんとは、これからもずっと一緒に楽しく過ごしていけたら良いな、と思うのですが、司さんとは、それだけじゃなくて、えっと…より分かり合えるような関係になれたら良いな、と言いますか…。すみません、上手く言えなくて…。」
「怜。」
司はそっと怜の手を握る。俯いていた怜は、驚いたように顔を上げた。
「俺が怜の事を好きだ、っていう気持ちは、ちゃんと分かってくれているよな?」
「は…はい。」
「怜さえ良ければ、俺と結婚を前提に付き合って欲しい。」
司の言葉に、元々赤かった怜の顔は更に耳まで真っ赤になった。
「今は多分、怜はまだ俺の事を少しばかり特別視してくれている程度で、好きっていう感情はないのかも知れないけど、これからゆっくりでも良いから、俺の事も好きになって欲しい。…駄目かな?」
間近で見る司の情熱が込められた瞳から目を逸らせず、怜は硬直した。掴まれた手からどんどん熱が体中に回っていくようで、早鐘を打つ心臓の音が全身に響いていく。そのまま思考も手放しそうになりながら、怜はぎゅっと目を瞑った。司はずっと真っ直ぐに自分を見てくれ、受け入れてくれてきた。その思いに、自分も応えたいと、怜は目を開いて司の目をしっかりと見つめる。
「あの、私は人を好きになった事がないので、それがどういうものなのかは良く分かっていません。それに、私自身が司さんに相応しいのかどうか、甚だ疑問を感じていますが…、それでも、司さんが良いと仰ってくださるなら、よ、宜しくお願いします…っ。」
最後の方は恥ずかしさのあまり目を閉じてしまった怜を、司は勢い良く抱き締めた。
「ありがとう、怜!すっげえ嬉しい…っ!!」
司は満面の笑顔で怜を抱き締める腕に力を込める。羞恥の限界まで来ていた怜は、司の抱擁に一瞬意識が飛びかけた。
「つ、司さん、苦しい…。」
「あ、すまない。」
司は少し腕の力を緩めるが、それでも怜を抱き締め続ける。怜は何やらじたばたと暴れているが、痛くも痒くもない司は、やっと思いが通じたのだからと暫くそのままの体勢でいた。しかし怜がずっと離れようとし続けているので、司は渋々ながらも少しだけ離れて腕の中の怜を見つめる。
「怜、俺に抱き締められるのがそんなに嫌?」
先程咲が抱き付いた時は嫌がる素振りを見せなかったのに、と司が拗ねたように尋ねる。
「わ、私は男性と縁が無かったので、こういう事には慣れていなくて、心臓に悪いんです。」
涙目になって慌てている怜も凄く可愛い、としか思わない自分は重症だろうか。
「俺も女性と縁が無かったから、今心臓が凄い事になっている。ほら。」
司は怜の手を取って自分の胸に当てさせる。司の心臓の鼓動を感じ取った怜は少しだけ落ち着いたようだった。
「お互いゆっくりで良いから、こういう事にも慣れていこうな?」
「…はい。」
おずおずと頷いた怜が可愛くて、司はもう一度怜を抱き締める。
「つ、司さん!ゆっくりで良いって仰ったじゃないですか!性急過ぎますっ!」
怜の声に若干の怒気が含まれている事に気付いた司は、仕方なく怜を解放する。涙目で睨む怜に謝りつつ、まだまだ先は遠そうだと思いながらも、司は込み上げてくる嬉しさを抑え切れず、ずっと笑みを浮かべていた。




