過去
今回長いです。
「私が中学の時の話からですが…。中学からは制服になったので、穴の開いた私服で外に出る必要がなくなり、漸く私にも友人と呼べる人達が出来るようになりました。ですがその頃から母の様子が少しずつ変わり始め、お金遣いが徐々に荒くなっていき、家を空ける事も多くなって。偶に顔を合わせればお金の使い方を巡って喧嘩するようになり、母との間に出来た溝は、徐々に広がっていきました。」
そこまで語った怜は俯いた。瞳が段々暗い色を帯びていくのが分かる。
「…中二の夏、同級生の男子から初めて告白されました。ですが日々の遣り繰りにすら困っていて、友達からの遊びの誘いもずっと断り続けていた私には、男女交際など到底考えられず、丁重にお断りしました。その事が何処からかクラスのリーダー的存在だった女子の耳に入ったらしく。何でも彼らは付き合っていたようで、私はその女子の彼氏を取ろうとしたのだと疑われ、二学期に入ってからは執拗な嫌がらせをされるようになりました。」
息を呑んだ司は、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
「いくら違うと訴えても、彼女達が耳を貸してくれる事はなく。虐めは徐々にエスカレートする一方でした。私が友人と呼んでいた人達も、彼女達を恐れて離れて行き、中には虐めに加わるようになった子までいて…。その事が何よりも私を打ちのめしました。学校に居場所が無くなった私は、冬に入る頃には家に籠もりがちになり…。そんな時、母が一人の男性を連れて来たんです。」
怜は項垂れた。膝に置いている手が震えている。
「この人と結婚するんだと言って、幸せそうに笑う母に良輝さんを紹介され、私は目の前が真っ暗になりました。小さい頃は私の事を気に掛けてくれていた母も、今は自分の幸せしか考えていないのだと。私の学校生活を気にも留めず、私が友人からの誘いを断らざるを得なかったり、学校にさえ行けなくなったりしているのに、母は良輝さんとの交際を楽しんでいたのだと。…学校に続いて、家でも居場所が無くなると悟った私は、その時から誰にも心を許さない、自分一人の力だけで生きていくと決めたんです。」
項垂れていた怜は、少しだけ肩の力を抜いて息を吐き出した。
「私達は良輝さんの家に引っ越す事になり、転校が決まった事は私にとっては幸いでした。もう二度と妙な疑いをかけられぬよう、転校してからの私は、ひたすら地味な格好をして人を避けてきました。継父の転勤が決まった時、三人で一緒に引っ越そうと言われましたが、三年後に戻る予定だと知った私は、邪魔が入らない新婚生活を楽しんで来れば良い、と言って二人を送り出しました。…内心では、二人と一緒に居たくなかったんです。母はもう、自分の幸せしか考えておらず、私の存在が邪魔になっているのではないか。継父も表面上は良くしてくれているものの、やはり内心では連れ子の私を疎ましく思っているのではないか。そう考えていましたから。」
声を僅かに震わせた怜は、両手をぎゅっと握り締めた。
「高三の時に母と継父が事故に遭い、遺体と対面した私は、思ったよりショックを受けていない自分に驚きました。悲しみに襲われながらも、ああ、これで私は本当に一人になってしまったんだな、と何処か冷静に考えている自分がいて。お葬式の時も、涙一つ零しませんでした。…その後、継父の同僚だと言う人達から話を聞くまでは。」
怜は肩を震わせ始めた。必死に涙を堪えている様子が伝わってくる。
「その人達からの話によると、継父はもうすぐ帰れる事を本当に楽しみにしていたそうです。自分には血は繋がっていないが娘がいる、新婚の自分達を気遣って三年も二人きりにさせてくれるような出来た娘だ、一人暮らしで寂しい思いをさせてしまった分、帰ったら思い切り甘やかしてあげたいのだと。まだ打ち解けてもらえないうちに転勤してしまったが、何時か笑顔でお父さんと呼んでもらう事が夢なのだと…っ。そう、周囲に話していたそうです…っ。」
堪え切れない涙が怜の太腿に零れ落ちる。
「…私は!そんな継父の気持ちに少しも気付く事が出来ませんでした!最初に会った時から、私から母を奪って行く人だと決め付けてばかりで…っ!継父は色々と私を気遣って、良くしてくれていたのに、私は、一度もお父さんと呼ばないままだったんです…!」
大粒の涙が怜の瞳から零れていく。声を震わせ、嗚咽を漏らしながら、怜は必死で涙を止めようとしていた。
「…その時に、母と継父の馴れ初め話も聞きました。母は当初、八歳も年下の継父との交際を躊躇っていたと。自分には娘がいるし、ご家族も反対するだろうから、と渋る母を、継父は子供には父親も必要だ、私も含めて受け入れる、家族は自分が説得して認めてもらうから、三人で幸せになろうと説き伏せ、母もそれならと納得したそうです…!母も、以前と変わらずに私の事を考えてくれていたんです!…なのに、私ときたら、そんな事に気付きもせず…っ!」
目元を乱暴に手で拭う怜に、司はハンカチを差し出した。礼を言って受け取った怜は、何時の間にか司が車を路肩に寄せて停車していた事に気付く。
「…すみません。車、止めさせてしまいましたね。」
「…運転の片手間に聞くような話じゃないと思ったから。」
司は怜を慰めるように、優しく髪を撫でる。
「私としては、みっともない姿をあまり見られたくなかったので、運転中が一番良いかと思ったのですが…。」
司のハンカチで涙を拭った怜は、小さく自嘲気味な乾いた笑いを浮かべると、再び俯いて話し始めた。
「母と継父の気持ちに最後まで気付く事が出来なかった私は、酷く後悔して、自分が嫌いになりました。自分の事しか考えていないのは、本当は私の方だったのだと。…その後、継父の親族に家を出て行くよう言われても、継父を最後まで拒絶し続けてしまったのだから、反論する権利は無いと受け入れ。…でも、その時に母の事を悪し様に言われた事だけは許せませんでした。」
怜はぎゅっとハンカチを握り締める。
「私の事を考えてくれて、結婚を渋ってさえいたと言う母の事を、八歳年下の若い男を誑かし、金目当てで転がり込んで来た女だと…っ!そんな女の子供には何一つくれてやるものかと言われ、頭に来た私は、大学の寮に移る時、自分がアルバイトで貯めたお金と、母の遺品だけを手に家を出て、それ以降雪原家とは一切連絡を取っていません。…お墓参りも、自分にはその資格がないように思えたのと、雪原の親族に会いたくなかったので、高校と大学の卒業時に報告に来たくらいです。」
肩を震わせていた怜は、静かに息を吐き出すと、ボス、と助手席に凭れて天井を見上げた。
「…今日、お墓参りに来たのは、母と継父から勇気を貰いたかったからなんです。…司さんに、全てを話す勇気を。ちゃんと自分の事を思ってくれている人に、自分で壁を作ったままで、再び後悔する事の無いように。」
怜はゆっくりと司に視線を向けた。
「…司さん、私はこんな女なんです。母と継父が注いでくれた愛情にも気付かない恩知らずで、自分の事しか考えられず、あまつさえ二人のお葬式でも涙を流さない冷血な人間で、九年も前の出来事を未だに根に持っている。私はこんな自分の事が嫌いですが、貴方はそれでもなお、私の事が好きだと言えますか?」
「勿論。」
「そうですよね…え?」
怜は目を瞬かせ、何とも間の抜けた表情をした。
「…司さん、今、何て…?」
「勿論、って言ったんだ。俺は、それでも怜が好きだ。」
「え…?」
信じられない、と言うように目を見開く怜の手に、司は自分の手を重ねて握り締めた。
「俺は怜が恩知らずで、自分勝手で、冷血だなどと思わない。ちゃんと服とネックレスのお礼に焼き菓子を用意してくれたり、俺の勝手な頼み事や咲の我が儘にも付き合ってくれたり、一人一人の好みに合わせてケーキを用意してくれたりしているじゃないか。それに、たとえ九年も前の出来事でも、怜の怒りは尤もだし、同じ事をされたら俺だってずっと根に持ち続けていると思う。…怜の中では、その過去の出来事が大き過ぎて、自分の事が嫌いなのかも知れないけれど、少なくとも俺が知っている怜は、義理堅くて、気配り上手で、優しい人間だ。何なら他の人達にも訊いてみると良い。怜は、確実に過去の自分から成長を遂げているんだよ。ご両親の事を後悔する気持ちは分からなくもないが、もうそろそろ、自分を許してあげても良いんじゃないかな。」
「自分を…許す…?」
優しく微笑む司に、怜の瞳が戸惑いに揺れる。
「そう。怜が自分の事を嫌いなままだとご両親もきっと悲しむ。自分を許して、少しずつでも良いから、自分の事を好きになっていこう。怜にはまだ君自身が気付いていない、良い所が沢山あるんだから。そして何時の日か、本当に自分の事が好きだと言えるようになったら、胸を張ってご両親の墓前に報告に行こう。きっとご両親も喜んでくれると思うよ。」
笑顔を見せた司に、怜の瞳から再び涙が零れ出す。
「…良いん、でしょうか。自分を、許しても。両親は、こんな、私を、許して、くれる、でしょうか。」
しゃくり上げながら涙を流す怜を、司はゆっくりと抱き寄せた。
「ああ。きっとご両親も、それを望んでいるよ。」
腕の中で泣きじゃくる怜を、司は優しく抱き締め、幼子をあやすように背中を撫でさする。辛さを乗り越えて全てを話してくれた怜に、司は心の底から愛しさを感じ、これからは過去の分まで、彼女が幸せになるよう願わずにはいられなかった。




