自覚
その日はほぼ一日、司は放心状態で過ごした。仕事だけは何とかこなせたのは、偏に雪原に格好悪い所を見せたくないという思いからだ。
帰宅した司は、ソファーに倒れ込む。
『私が伊達眼鏡をかけているのは、このような面倒事を避ける為です。』
彼女の言葉を思い出すだけで、脳が凍りついたように何も考えられなくなる。
司は頭を抱え込んだ。
…今日は仕事に身が入らなかった。明日からはちゃんとしなければ。
だがこうしていても、頭を過ぎるのは雪原の事ばかりだ。何故彼女は頑なに返答を拒むのか。過去に何かあったのか。どんな生い立ちをしてきたのか…。
「クソッ!!」
司は起き上がりながら、勢い良くソファーに拳を叩き付けた。最早彼女の事しか考えられず、だが彼女にはもう拒絶されたくもなく。
矛盾する想いに囚われ、司は息が詰まりそうだった。
ヴーーーッ。ヴーーーッ。
スマホが鳴る音が聞こえる。司は億劫に感じながら、スマホを取り出して耳に当てた。
「…明か?」
『司?何か時化た声出してるな。どうかしたのか?』
声だけで言い当てられるとは、今の自分は相当酷い状態なのだろうか。司は自嘲した。
「雪原君に、恋愛に興味がない理由を訊いて拒絶された。」
『それだけでそんなに落ち込んでいるのか?』
「ああ。…明、どうやら俺は彼女の事が好きみたいだ。」
司が声を絞り出すようにして言うと、電話の向こうで呆れたような小さな笑い声が聞こえた。
『漸く自覚したか。ま、恋愛に興味がないお前にしては、良く自力で気付けたと褒めてやるよ。』
「…お前に褒められても嬉しくも何ともないけどな。」
『それだけ憎まれ口が叩けりゃ十分だ。だったらもう女の子の紹介は要らないな?菊池からも合コンの要請があって、いっそ纏めてやろうかって話になっていたんだが。』
「ああ。もう誰を紹介されても彼女と比較してしまうから結果は見えている。彼女以外なら皆同じだ。」
『分かった。菊池には俺から話しておく。』
「悪い。…なあ明、彼女に好きになってもらうにはどうすればいい?」
藁にもすがる思いで明に尋ねる。実際は明は藁どころか、恋愛に関しては達人と言えるのだが。
『そうだな…。彼女は恋愛に興味がないし、その理由に踏み込めば拒絶されるし。俺とお前を以てしても聞き出せなかったしな。事情が分からない以上、変に手を打てば余計こじらせそうだから難しいが…。二ヶ月後まで待ったらどうだ?お前の誕生日が来れば、渋々ながらも結婚を承諾してくれるんだろ?それからでも遅くないんじゃないか?』
明の提案に、司は俯く。確かにその通りだと思う…が。
「明、想像してみてくれ。この歳になって初めて好きだと自覚した子から毎日毎日他の女性を勧められる状態を。今までは自覚がなかっただけに、気が進まないながらも受け入れられたが、明日からの事を考えただけで俺は気が変になりそうだ…。お前ならあと二ヶ月、そんな状態に耐えられるか?」
雪原の事を想うだけで、司の声色は憔悴し切ったものになった。
『…分かったよ。司、取り敢えず明日、怜ちゃんに週末の予定を訊いて、空いている日に俺の家に招待しろ。咲が夕食に招待したがっていると言えば、多分来てくれるだろ。勿論お前も来い。それまでは頑張って耐えろ。』
「彼女をお前の家に招待だと?一体何をする気だ?」
『事態を打開したいなら、嫌われるのを覚悟で訊くしかないだろ。彼女が恋愛に興味がない理由を。』
司は暫くの間、押し黙った。嫌われるのを覚悟で、と言われても決心がつかない。他の誰かなら兎も角、雪原にだけは嫌われたくない。それに、訊いても嫌われるだけで、話してくれるという保証はない。
だが、このままではあと二ヶ月もの間、日々婚活を勧めてくる彼女に傷付きながら共に仕事をする羽目になる。自分は年内に社長に就任する事が決まっている。今日のように仕事に身が入らない日々を続ける訳には行かない。
そして、彼女に好かれたいと願うなら、遅かれ早かれ彼女に訊かなければならない事だ。
このまま彼女が自分に無関心である事に日々傷付きつつ、仕事だけの関係を続けるか。それとも嫌われる事を覚悟で、関係を変える努力をするか。
司は大きく息を吐き出し、腹を括った。
「分かった。明日、彼女に伝えてみる。」
『そう来なくちゃ。咲には俺から話しておく。もっとも、あいつ一昨日自分がコーディネートした怜ちゃんを見て、同窓会に行けない事を凄く悔しがっていたから、満更嘘でもないけどな。』
電話を切った司は、雪原に貰った紙袋から菓子箱を取り出し、ラッピングを外して箱を開けた。マドレーヌを選び、個包装を破って口に含む。
いつもと変わらない筈の好物の味は、何故か甘く、優しく感じられた。