第一章 満月の夜に⑤
寒さで目が覚める。
窓がきちんとしまっていなかった。
祥子は会社に電話をしてからぼんやりと彼岸花を眺める。
限界かな?
予定外の一人はきつかった。
化粧もせずに、ふらりと部屋を出た祥子はバスに乗り込む。
心療内科を尋ねるつもりだった。
半年も住んでいる街なのに何も知らない。知っている人も誰もいない。涙がこみ上げてきそうになり、窓に目を向ける。
信号でバスが止まり、信号機の横で俯くように立っている少年を見つけ祥子は目を見張る。
そこにいたのは夢に出て来た少年だった。
慌てて次の停留場で降りた祥子は引き返し、その少年を探す。
信号機の下、しおれた花とジュースの缶が置かれていた。
「信じてくれた」
祥子は後ろを振り返る。
それはアキオの姿だった。
淋しそうに佇むその姿に、祥子は息を飲んでしまう。
咄嗟的だった。
「すいません。降ります」
気が付くと、声を張り上げ、開く扉ももどかしく、停留場をだいぶ過ぎたところでバスを急停止させた私は、一目散でアキオが立っていた場所へと戻っていた。
私を見たアキオが、嬉しそうに笑ってみせる。
「ここだったんだ。ダンプカーが来て、ぼく、ぼく……」
その先が言えなくなってしまったアキオは、下を向いて黙り込む。
じゃ、あの話は……。
次の瞬間、ダンプカーがクラクションを鳴らし目の前に迫って来るのが見え、祥子は身動きできずにその場に立ちすくんでしまう。
ダンプカーは直前で姿を消し、その代わりに向かいにある保育所から、にぎにぎしい子供の声が漏れ聞こえて来ていた。
祥子はぽかーんと口を開けたまま、アキオを見る。
「ぼくね、ママの言うことを聞かなかったから、車に轢かれちゃったらしいんだ」
「らしいって……」
「そん時の記憶ないんだ。あっ。て思ったのは覚えているんだけど、目が覚めたら僕の姿、誰にも見えなくなっていたんだ」
泣きながら謝る母親らしき人の姿が目に浮かび、ふっと消えてしまう。
さっきまで見えていたアキオの姿は、もうどこにもなかった。
愕然としていると目の前を、犬を連れたお婆さんが通りかかり、祥子に会釈して行く。
「あの」
人のよさそうなおばあさんは、何の躊躇いもなく足を止める。
「ここの花」
「ああこれね」
目を細め、反対側に見える保育園を見ながら、かわいそうだったのよと話す。
「事故か何かで」
「ええ。そこの保育所に通っている男の子がね、もう何年になるのかしら。トラックに轢かれちゃったのよ。本当にかわいそうよね。母親が見ている傍で、見ていられないほど損傷が激しかったって」
真っ赤な血がアスファルトに広がって行くのが視界に映り、祥子は目を覆いたくなる。
「大丈夫? 顔色が悪いみたいだけど」
「ごめんなさい。最近この辺に越してきたばかりなもので、いろいろ見て回っているんですけど。なんか身につまされてしまって」
「あらそうなの。あなた、お子さんは?」
「男の子が一人」
「本当に切ない話よね。ごめんなさい。私、そろそろ」
「すいません。呼び止めてしまって」
犬に引かれるようにおばあさんが言ってしまうと、じんわりとした恐怖が祥子の中に広がる。
私は完璧に壊れてしまっている。
祥子は本気でそう思った。
時折見えてしまう幻覚。
「おばちゃん。逃げないで。ぼく、ぼく」
祥子を追いかけるように、アキオの声が耳の中で木霊する。
すべて、この彼岸花を拾った日から始まっている。
部屋に戻った祥子は、震える手で彼岸花をゴミ箱に捨て、雅春にメールを打つ。
「助けて」
涙がぽろぽろ携帯に落ち、祥子は取り消しボタンを押して、その場で泣き崩れる。




