ブルー・ブルース
ブルー・ブルース
そもそも何故、こんな辺鄙な島の文化史なんかを研究しているかといえば、原住民という、「人間のなかの異種」とは何か、そこに興味をもったからだ。
異種、などといってしまうと差別的な言い方かもしれないが、自身をそう感じているものだからだ。
ここハワイ州は、合衆国の中でもアジア人の比率が高く、欧州人に迫る勢いだ。それゆえ文化的にもある意味ニュートラルだと考える。だからこそ、そういった「外来の人間」に比べて「原住民」が際立つ、というのが持論だ。
ここでいう原住民達「ハワイアン」は、今、二〇五〇年代では全人口のわずか四パーセント強しかおらず、二〇〇〇年代初頭には五・九%あったのがさらに減ってきていることになる。
研究室の窓から見える青い、青い海を見ながら、そんなことを思い出していた。今日も日差しは高く強く、海岸に見えるフェニックスの木立は濃く小さい影を砂浜に落としていた。そして、窓ガラス自体を見ると、そこに映るのは、いつもながら青ざめた顔だ。
窓に映る顔は、狼だった。二本足で歩く、青い毛皮の不思議な狼男、そう形容すると姿が分かりやすいだろう。父譲りの病気でこうなったのだが、もう大人にもなるとコンプレックスも除かれてくるものだ。病気については、またあとで。
「さて、昼休みも終わるな、皆そろそろ帰ってくるかな」
一つ伸びをすると、腰にぶら下がった尻尾もぴんと張り、そしてふたたびだらりと下がる。
「あ、授業の準備しないと。ゼミの準備は、アンネに任せておこう」
研究室のドアを開け、廊下の表札についている札を「外出中」から「在室」に変えた。薄暗く、むっとした熱気がこもっている廊下には、塗装が剥げ、さびが浮いてきているスチール棚が並んでいる。その中には今ではすっかり読まれない、古臭い本が並んでいる。
表札には「Nacht・Kuze」と書いてある。ファーストネームは独語読みで「ナハト」。日系なのでファミリーネームは日本のものだ。その端っこにはやや小さい文字で「准教授」と職階が書かれている。そして扉の曇りガラスには「考古・文化人類学研究室」というステッカーが貼られている。
この研究室では、ハワイアンの古代の文化やその現代への変遷を検証している。さして大きい研究室ではないし、人気な研究室でもないが、学生にはぎりぎり困っていない。
背後から、若い男の声が聞こえた。
「あ、ナクト先生!おはようございます、あれ、アンネさんは?」
その一人目が、修士課程二年のカハールだ。よほど急いでいたのか、肩で息を切る彼の研究テーマは「現代ハワイアンの文化意識」というようなものだ。私のことは英語式にナクトと呼ぶ。カリフォルニア生まれで、下宿でハワイに着ているらしい。白人のクセにやたら日焼けして小麦色の肌になっている。ちなみに今日は大遅刻。
「やあ、カハール。もうお昼だが、日本の時計でも使っているのかな?」
「やだなー、単純に寝坊ですよ、っていうか留学のことまだ気にしてるんですか」
「いやだって、ようやく論文書いてくれるのかなー、って思ったのに」
彼はやたらと日本びいきで、というのも文化というものについて考えるきっかけが日本だったそうだ。その気概は結構なのだが、個人的には彼の論文に期待したい。
「それで日本にいっちゃうんだもの、俺がっかり。むしろ俺が行きたいよ」
「あー、キメラ症にも寛容、って言いますもんね。」
キメラ症候群という病気が、この狼顔の原因の病気だ。専門というわけではないが、教養として、患者として、ある程度この病気については知っている。端的に言うなら、動物の遺伝子と人間の遺伝子をすり替える、というものだ。大人が感染しても細胞が多少変化するくらいで姿形は変わらないが、子供はイチからそうだから、そうはいかないのだ。大人でも人生が変わるくらいの、たいそうな病気でもある。
「まあ、この島もそう変わらんよ。それでも留学しちゃうのかい?」
「そりゃ、夢でしたから。ゴメンナサイ。ハハハ…」
カハールの言うとおり、日本は世界に先駆けてキメラ症関係の情報収集、法整備が行われ、キメラ症対策の先進国として名を馳せている。まあそんな意味で私も憧れを抱いたりもするが、とにかく彼の論文や、彼が引っ張ってくるデータ、ハワイアンとの繋がりはしっかりと確保しておきたいのだ。
「うーん、しょうがないなあ」
「そういえばアンネさんは?」
「ああ、まだ帰ってきてないよ。どうして?」
「声かけてって頼んだの、ナクト先生じゃないですか」
「あ、そうだっけ?」
しまった、そうだった。ポスドクのアンネに、ゼミの準備をするよう、カハールに伝言を頼んでおいたんだった。さっきは無駄な心配をしてしまった。ちなみにポスドクというのは、ポスト・ドクトラル・フェローの略語で、平たく言えば武者修行中の任期付研究員だ。
「呼びました?ナハト先生。」
と、背後から芯の入った女性の声。思わず背筋が跳ね上がる。ついでに腰から生えた尻尾も。
「うわびっくりしたぁ!なんだアンネ、いたのかい…脅かさないでくれよ」
背後にいたのは、黒髪、黒い袖なしのセーター、黒いジーンズの真っ黒なアジア人。ドイツ系のハーフだそうだが、そうは見えない。とはいえ的確な発音で「ナハト」と呼ぶのだからそうなのだろう。ポスドク二年目の研究真っ盛りのクールな美女だが、ハワイでその服装はないだろう、というのが彼女に対する印象だ。ルージュのセンスはいいのだが。ちなみに前髪は一直線に切り揃えられ、それは私が雇った時から崩れたことがない。
「今日は一段とハネましたね、尻尾。で、ゼミの準備をしておくんですね」
「は、話が早くて素晴らしいね君は…あーびっくりした」
彼女の声は耳にまっすぐ入ってくるような声なので、突然背後から聞こえるとビックリするのだ。頭のてっぺんについた二枚の耳をついつい押さえてしまう。
「すみません。それと先生、例のハワイアンの自治会長なんですが、小娘相手に話はしたくないから上の人間を連れて来い、ってアポを取ったのに応じていただけませんでした。先生がお出でになっていただけると何とかなるのですが」
「あー、あの人やっぱりそうなのか…わかった、今度私から言っておくよ。ホントしょうがないなあの人は」
彼女の研究は……口出しされたくないのか彼女があまり教えてくれないのだが、こちらの研究の手伝いもしてくれているので非常に助かっている。が、時折こういったことがあるので少々申し訳ない気持ちもあるのだ。
「先生、そろそろ部屋に……暑いです」
と、申し訳なさそうなカハールの声。そういえば彼はやたらと汗をかいている。
「そういえばその汗どうしたんだい」
「走ってきたんです……ゼミの当番ですからスライドをまとめないと。あー暑い」
「ああ、悪い悪い」
「暑いといえば先生の毛皮も」
気付けばずっと蒸し暑い廊下で話していた。追撃してくるアンネの一言が痛い。
部屋に引っ込む。一緒になって二人も入ってくる。
「あー涼しい。エアコン最高!」
部屋は少々の観葉植物と、焦げ茶で艶のあるウッドデスクでまとめてある。一部の棚は大学支給のスチール棚だが、それ以外は私の趣味だ。
デスクへと歩く途中、後ろではカハールが壁に向いた机につきながら、デスクトップ型のマッキントッシュを起動している。ペットボトルのコーラを開けたのか、ぷしゅ、と気の抜ける音がした。いつもながらの大股開きで座っているのだろう。
「今日は一段と日が照りますからね」
と、続くアンネは反対の壁を向いた机でノート型のマックを使うのだ。いつもの光景だ。
「なあ、思うんだが」
そして私もデスクに付くと、思っていることを言うことにした。山積みのハードカバーの向こうで二人が振り向く。
「アンネの真っ黒も暑苦しいんだが、どう思う?」
ちょっと毛皮を引き合いに出されたので言い返してやろうと思ったのだ。カハールがアンネの方を見る。そこにはアンネの真っ黒な袖なしセーターが…と思ったらやたらと色っぽい背中が丸出しだった。
「うおお、アンネさんそんな大胆な!」
カハールのはしゃぐ声。なんとも大胆なデザインを着ているものだ。
「これ、夏の新作です」
表情の硬い彼女がかすかに笑みを浮かべてセーターの肩をつまみ上げた。真一文字の前髪がゆれる。お気に入りなのだろう。しかし目論見がはずれてしまった。
マッキントッシュの画面に向かう。途中まで作っていた資料の続きだ、続き。
「…さー、仕事仕事。授業に間に合わなくなっちゃうぞ♪」
「先生、負け惜しみすらしないんですね」
カハールがニヤニヤしながらこちらを見てくる。何にも見えなかったし私は暑苦しくないぞ。流石に毛皮で真っ赤なアロハを着ていては負け惜しみすらみっともない。
「さーて?なんのことかな?単位いらないの?」
「はーい、ゼミの準備しまーす」
この二人は相変わらず調子がいい。狼の見た目もカタナシになってしまう気分だ。もっとも、この面構えと姿には、あまりありがたい思い出がないのだが。
今日の講義はちゃんと出席してくる生徒はどれぐらいいるのだろうか、そういえば残りの学生も遅刻か。
ふと机の脇を見ると、いつもはこっちを向いている写真立てが倒れていた。何の拍子に倒れたのだろう。この時代、二千四十五年に、アナログの写真立てなのも変な話なのだが、とりあえず起こす。そこには、去年なんとなく――同じ姿の弟と一緒に撮った――写真が収まっていた。
「どっこいしょ、っと」
なんていうことを言うと兄に「老けたな」などとからかわれるが、気にしていない。
平屋の事務所兼自宅の前に停めてあるヴォルフズ・ワーゲン社のタイプⅡ、いわゆるワーゲンバスに貸し出し用のサーフボードやボディボードを乗せる。白い車体には空の青色か、海の青色か、とにかく周りの色が映りこんでいる。
そして、今日いらっしゃっているお客に改めて挨拶をする。ある程度普段から客がいるとはいえ、こんな小さい、住宅街から外れた事務所のサービスを選んでくれた大事なお客だ。
「改めまして、クゼ観光サービスをご利用いただいてありがとうございます!ガイドとインストラクターを勤めさせていただきます、ルード・クゼです!どうぞよろしく!」
日本語で挨拶し、握手を求める。予約にあった日本人の学生グループだ。4人の男女は、迎えに出た時と同じような、たじろいだ表情だが、握手に応じてくれた。日本語は大丈夫なはず。
それもそうだ。自分の見た目は兄と同様に、あるいはそれ以上に真っ青な狼。しかもキメラ症が腰から下全てに出たのか、狼の後ろ足のような脚をしている。いわゆるかかとが高く、膝がすこし低い動物の脚である。
「こんな見た目でビックリさせてすみません。でもうつったりしないですし、噛みついたりしないですから大丈夫ですよ!あ、でも骨付きのチキンは好きです」
とりあえず、いつも客に言うセリフで和ませよう。ちょっと笑ってくれた。
「じゃあ、チョコレートは食べられますか?」
女子学生が食いついてきた。若いだけあってウケが良くて安心する。いつもどおりの質問ではあるけれど、やりやすい。
「あ、大好きですよ、チョコ無しだと一日うんざりしちゃう!」
「へぇ~、中毒とかしないんだ!」
「しないしない、だって人間ですから、あ、でもある意味中毒かな?さっきも運転中に食べました」
「あー食べてた食べてた!おいしそうにしてた!」
別の男子学生が声を上げた。さっき運転している時、SHOWAのチョコレートを食べているのを見られていたのだろうか。大好きで仕方ないのだ。
「甘いの大好きなんだよねー、あ、やっべ、顔についてない?大丈夫かな」
車のミラーを覗き込む。甘いものと運転に夢中だったのだ、お客に見せられない。
「……はっ! そ、それはそうと、今日はサーフィンということで、皆さんをご案内させていただきますので、どうかよろしくお願いします!」
しまった、つい見た目を気にしてしまった、それも今さら。お客がニヤケている。しかしここで気にしていては埒が明かないので早いところ案内しよう。
「ど、どうぞご乗車ください、今から初心者でも安心できるビーチにご案内しますので!」
こうして日本人学生を連れての、ちょっとしたドライブが始まった。
海岸沿いに建てられた事務所から車を出し、まずは住宅街へ入る。二階建てなんてのはこの島では稀で、大体が平屋だ。そのおかげで空は広い。
「クゼさんって、日本語お上手なんですね!」なんて聞かれたり「かわいい声してるんですね!」なんてからかわれたりする。
日本語については兄がそれはそれは丁寧に教えてくれたのだ。おかげで日本人相手の商売はラクだ。声については初めて言われたが、なんだか恥ずかしいものだ。
少しワーゲンを走らせると、開けた土地に出た。わが社は一応観光サービスなのでガイドぐらいはする。
「えーと、みなさん、見えますか? 右手側に見えるでーっかい丘みたいな山が活火山のマウナ・ロアですねー。富士山よりもでっかい…はずです。たしか四千メートルちょっと。残念ながら世界遺産じゃないですけど、お時間ございましたら是非、あの辺一帯のハワイ火山国立公園にも足を運んでくださいね。時期によってはスキーもできますよ」
簡単ながらマウナ・ロアについて解説すると、右手側にいる学生達は一斉にカメラを出して窓からみえる楯状火山に向けてシャッターを切っている。自分は登ったことが無いのでついつい丘というような適当な表現をしてしまうのだが、青い空をなだらかに、地面と区切るその輪郭は好きだ。
赤信号だ。ブレーキを作動させる。ゆっくりと車体が止まり、交差点の向こう側の車が動き始める。
今日のハワイ島は日差しが強いが、いい日だ。雲ひとつ無い。お客の言葉も分かるし、今日はいい一日になりそうだ。ついつい鼻歌が出てしまう。
と、思ったら突然のフラッシュ。明らかに自分のほうを向いていた、一体なんだ。
見れば隣の女子学生がこちらにカメラを向けていた。我が家と同じ日本製品、リンパスのデジタル一眼レフだ。
「あ、ごめんなさい、いい笑顔だったのでつい…あ、信号、青ですよ!」
「あ、あああ、いえいえ、大丈夫ですよ」
相当驚いた顔をしていたのだろう、こちらまで申し訳ない気がしてきた。だが、なんだか学生のテンポも懐かしい。だがあまりに急な上に信号に急かされては形無しだ。アクセルをふかす。
「みんなこっちむいてー!」
隣の女子学生は後部座席にむかって一眼レフを向けている。
「ノってるかーい!」
「イエーイ!!」
どうやらこういう『ノリ』のグループなのだろう。歓声とともにフラッシュが炸裂する。
「最後の夏休みだー!」
「イエーイ!」
さらにフラッシュが炸裂。
「いい旅にするぞー!」
「イエーイ!!!」
つい自分も歓声に混ざってしまった。
「クゼさんノリいいんですねー! もう一枚!」
そして自分に向くフラッシュ。手が離せないから、ただハンドルを握っているだけの写真になってしまうが、まあいいだろう。ピースサインで応えた。
しばらく道なりに進む。本当に天気がいい。海が近づいてくると、海鳥が目の前を横切ったり、遠くにパラグライダーが飛んでいるのが見えるようになる。後部座席から「俺もやりたい!」とリクエストがきたが、残念ながら弊社ではパラグライダーは出していない。そう伝えると本当に残念がられたので、ちょっと検討しようかと思ってしまう。
その間にも隣に座っていたリンパスのカメラの女の子は車窓から見える町並みや、車内の様子にシャッターを切りまくっている。そういえば後ろの連中もいいカメラを持っている。ネイコン、ヘキサックス、サニーなど、名だたる日本メーカーの一眼レフを持っているようだ。そして、写真の出来映えに互いに意見を交わしている。
「ねえ、ひょっとして君たちって、えーと、写真クラブとか、かな?」
思いきってリンパスの女の子に聞いてみることにした。
「あ、はいそうです!今年で大学が終わるので、みんなで」
カメラのことはよくわからない。ただ、写真を撮るのがあまりに楽しそうに見えたのだ。今日の写真は学生最後の思い出になるのだろうか。
「いやー、最後にこんな面白いガイドさんで嬉しいですよ!日本語もうまいし!どちらで勉強されたんですか?」
「あぁ、にいさ……兄に教わりましてね」
ここでフラッシュが焚かれる。なんだかインタビューを受けているようで照れ臭い。
「すごーく頭がいいんですよ。大学で先生やってるんです」
「へー!すごーい! どんな方なんですか? お兄さんは」
まるで本当のカメラマンのようだ。気持ちよく話せてしまう。こうしている間もシャッターが次々切れている。
「うーん、おっとりしてて、たまにおっとりしすぎてて、でもしっかり人のことを考えられる人ですね。あ、ちょっと何考えてるかわからないときあるかな?」
「仲がいいんですねぇ、今のクゼさんすごくいい表情してます!」
「え?そう?あはは、なんだか恥ずかしいなあ」
「しかも、キメラ症で大学の先生がお兄さん!会ってみたいです」
「あはー、自慢の兄です」
シャッターのタイミングは、きっと自分のにやけた表情を納めたことだろう。兄のことも本音だ。
そうしたやりとりがしばらく続いて、赤信号で車を止めたとき、シャッターが止まった。
「あれ?クゼさん、それって?」
リンパスのカメラを降ろした彼女が、僕の手元を見ている。僕の手が置かれているのは、右手がハンドル、左手がレバーだ。そして、足はペダルに乗っていない。
「ああ、これ?ちゃんと脚が使えるのに変な話だよねー、サーフィンもできるのに」
再び赤信号。レバーをゆっくりと前に倒す。ブレーキがかかる。
後部座席では他の学生がガイドブックや風景相手にはしゃいでいるようだ。バックミラーに姿が見え隠れする。
「あ」
彼女はなにやら切なそうな目をしている。勘がいいか、あるいはちゃんと知っているんだろう。自分も知っている。日本では別に、この脚でもアクセルもブレーキも踏んでいいことを。
「ああでもね、これお仕事用でさ、たまーにバレないように普通の車ものるからね!これナイショだよっ」
彼らのせっかくの旅行を台無しにはできない。自分のちょっと言えない話でお茶を濁そう。彼女は笑ってくれた。
彼らに良い思い出を持ちかえって欲しい。精一杯やろう。
またシャッターが切れた。
夕刻。カハールの当番だったゼミが終わった。研究室の一同はゼミに使っている会議室のイスから立ち上がる。ノビをしたり、あくびをしたり、真面目に検討していたりとそれぞれ個性的だが、カハールだけは特に疲れている様子だった。
先日までの調査報告だったのだが、誤字やら考察不足、アンケートのとり方などの問題点の抽出を徹底的に行った。こういった文化人類学、特に現在の人間の意識調査などではアンケートのスタイルや項目が重要になる。そうしないと、対象となる人々が一体、人間の平均からどれだけ考え方を違えているかがぼやけてしまうからだ。ひとまずデータには問題はないだろうが、彼は改善されるだろうか。このままでは日本に送り出すのも心配だ。
会議室から部屋にもどる。窓から見える風景はすっかり紫色の夜に落ちていた。夕日はこの部屋とは反対側のほうへ落ちているのだ。デスクに腰掛ける。学生達も続々ともどってきた。
不意に研究室の電話が鳴った。お相手は、と思ったらアンネが先に子機の受話器をとっていた。
「はい、考古・文化人類学研究室」
アンネが応対すると電話から結構大きな声が聞こえてくる。その声が続くにつれ、アンネの表情がみるみるうちに険しくなった。珍しい。
「はい、ですがお昼にとったアポイントではクゼの都合に合わせていただけるとおっしゃって。はい。はい」
どうやら、電話の相手は彼女が手を焼いている自治会長のようだ。本当に彼女では相手にしてもらえないようだ。仮にも彼女も博士なのだが。仕方がない。
「どれ、かわろっか?」
アンネに声をかける。彼女は、その顔に似合わないしかめっ面でこちらを見る。真一文字の前髪がこれまた綺麗に揺れた。「あ、少々お待ちください。クゼに代わります」と伝え、保留ボタンを押した。
「本当に突然なんですから。件の自治会長さんの都合が変わって、今日来てほしい、とのことです」
「えぇっ、そりゃまた急だなあ。とにかく私が話さないとな」
アンネから受話器を受けとる。ポケットから、狼顔でも通話できるヘッドセットを取り出して頭に着けると、受話器に繋いだ。保留中のメロディにしてある昔の日本のポップスが聞こえた。ウタ・ヒカリのなんて曲だったか。保留を解除する。
「お待たせいたしました、クゼです」
すると受話器の向こうからは怒声が来るかと思いきや、冷めたような、呆れたような、あるいは軽蔑するかのような声が聞こえてきた。
「あんたがクゼ先生かね、なんだかよくわからんが、あんた、自分の研究をしたいならあんたが来ればいいじゃないか? あんな小娘に頼ってるなんて、なんとも情けない」
少々堅物そうなその声は、まるで私のことを知っているかのような口ぶりだ。一歩堪える。
「申し訳ありません。次は私がお伺いしますが、ご都合いかがでしょうか?」
確かにこういう、ヒトを調べる研究において礼節は大事だ。だがアンネはそういう事にトラブルなんて起こすクチではないし、今まではうまくいっていた。それどころか、キメラ症の私に会いたがる。いや、そもそも私は会っていないか。それにしても何故だ?とにかく今は私が出向くために上手く纏めねば。
「わしゃいつでも暇じゃ。ただ今日は気が変わってな、今日じゃなきゃ話をする気にならん。八時に来てくれ。八時だぞ、いいな?」
「わかりました。八時に」
電話が切れた。今時珍しく受話器を置く音が聞こえた。
「八時って、ナハト先生、今六時半ですよ?ここからあっちまで相当かかる上に急すぎます。断るべきでしたよ」
アンネが声をあげた。真一文字の前髪が抗議のごとく揺れる。そりゃ私だってそうは思うが、相手は貴重なデータを今日でなくては提供できないというのだ。普段、他所の学部の講師陣に、オオカミ頭がなに酔狂やってんだ、と疎まれる私としてはこう言いたい。
「オオカミ先生の面目躍如さ」
「なにいってるんですか」
「いいじゃないか、予定もないし」
実際その通りで、行かないという都合も理由もないのでこうしているのだ。いい気はしないが。
「でもどうやって向かわれるのですか?先生、免許持ってないでしょう?」
「うーん、そうなんだよなあ。弟に、頼るかなあ……」
今日は弟の仕事は何時までだっただろうか。日没も近い。今日はサーフィンの指導だったはずだから…とにかく考えるよりここは行動だ。研究室の電話を弟に繋いだ。そういえば、弟の携帯の待ち受けの曲もさっきの曲と同じだったか。
「あっれー? もうデータいっぱい?せっかくいい夕日なのに!」
すっかり赤くなった大平洋。そこに沈みそうな、あるいは溶け込みそうな太陽を前に、リンパスの女の子は相棒のカメラに振り回されているようだ。
「えーっとメモリーカード、カード」
先程までボディボードではしゃいでいた彼女らだが、いざ終わってみれば、今度はカメラでまたはしゃいでいる。さっきまで上手い仲間の姿をどう撮るかで競っていたのが、今度は日本の方に向かって沈まんとしている夕日を撮るのに夢中だ。
「すごいなあ、さっきまであんなに青かったのに、こんどは真っ赤じゃん!」
彼女の仲間の男が声をあげた。そうだった、日本の海はそんなに青くないんだっけ。
「そうそう!このビーチの自慢の一つなんですよ! 嫌なことがあってもこれ見るとふきとんじゃいます!」
半分本音の営業トーク。実際、兄も自分も、ここにきてから辛いときはこの夕日には世話になって、どうにかこうにか気分を切り替えてきた。
「あ、あった! よーっし、この夕日は一瞬しかないぞー!」
リンパスのカメラの女の子は、相棒を構え直してシャッターを切る。黄金色と赤銅色が混じった海は、やはり彼女にもあるだろうブルーなんて気持ちを取り去っているのだろう。
淡い淡い夕日と、和らいできた暑さ、ふきぬける風、波の音。
だが、自分のもう半分の本音は、やはりこれだけでどうにかなることばかりではないということだ。夕陽に慰められ、それでも失敗して、キメラ症だからだと、いらぬ理由で仕事を爪弾きにされたこともあったものだ。今の仕事を始めるまでは特に。
「あ、そうだ、せっかくだから皆で集合写真とろうぜ! 夕陽だけの写真じゃあれだろ?クゼさんもいるんだし!」
妙な感慨に耽っていると、さっき夕陽に声をあげていた男が再び声を上げた。それならばと皆が集まって話をしだした。彼がサーフウェアを着てする話は、もちろんカメラの話だ。ちょっとおかしく見えるが表情は真剣そのもの。こういう時ならシャッタースピードがどうとか、そもそもそのカメラでは向かないとか、さすがはといったところだ。
どうやら話が纏まったのか、皆が自分の方に向き直った。普段の客ならここで写真を撮ってくれというところだ。ガイドの仕事ではある。だが今回は相手が写真に並々ならぬこだわりを持っているのだ。果たして自分でうまくいくのか、やや不安だ。
「あ、写真ですね? 撮りますよ!」
と、カメラを受け取ろうとしたら、全員にきょとんとした表情をされた。
「え?クゼさんも一緒に写るんですよ?」
続けてリンパスの女の子にこう言われた。彼女の手にはいつの間にか三脚が握られていた。それもそうだ。相手はカメラの同好会。自分で撮影してこそ、なのだろう。だけど。
「いや、僕が写っても、ほら、仕事だから」
「じゃあ、お願いします、一緒に写ってください」
何を言われているのかよくわからなかった。面白いものと一緒に写った写真を自慢したいのだろうか。それともからかっているのだろうか。
「いやでも」
「ほらー、さっきから皆いっぱいクゼさんの写真撮ってるのに、集合写真に居ないなんておかしいじゃないですか!」
彼女がカメラの液晶画面を見せてきた。そこにはサーフィンの指導をしている自分と、皆の姿が写っていた。いつの間に撮られていたのだろう。
「あ、私とクゼさんが写ってるのはみんなに撮ってもらってますよ。だからほら、はやく並んでください!」
彼女は自分の脇をすり抜けて、砂浜に三脚を立て、撮影の準備を始めてしまった。参ったな。
そうして立ちつくしていると、男子学生が声をかけてきた。
「ほらクゼさんはやく! 夕陽が沈んじゃうよ!」
はっとして振り向くと皆が夕日の中、笑顔で並んでいた。そのうち一人、声をかけてきたネイコンの男子は振り向く自分を撮っていたのか、カメラを構えてしたり顔でもあった。なんだか調子が狂う。こんなお客、今まで居なかった。
仕方なく列にはいると、なんと真ん中に引き込まれてしまった。
「ほらほら、今日の主役!」
ヘキサックスのカメラをもつ、威勢のいい女の子が隣でにやにやしている。なんなんだ、一体。
「とりますよー!」
リンパスの女の子が声を上げると、カメラの一部が赤く点滅を始めた。どうしよう。彼女が駆けてくる。そして自分の隣に立つとすかさず次の号令。
「はーいみんなー! 一足す一はー?」
「にーーーーー!!!」
フラッシュが炸裂する。ひとまず日本方式の撮影は兄に教えられて知っていたので乗り切れた。
「もういっちょー! 二掛ける一はー?」
次の瞬間に再びの号令。油断していた僕は戸惑う。
「なんだと?! えっ?あっ、えーっと」
ヘキサックスの女の子の号令が続く。
「せーの!」
ええい、こうなったらやけだ。
「にーーーーー!」
再びフラッシュが炸裂。慌てつつもなんとか皆についていけた。旅の締め括りになるのか、歓声が上がる。一呼吸おいて隣を見ると、リンパスの女の子が小さなリモコンを持っていた。二枚連続撮影の秘密はこれか。彼女は僕に気づくと申し訳なさそうに笑ってこう言った。
「ごめんなさいクゼさん、集合写真はこうやって何枚か撮ることにしているんです。ほら、一枚目って緊張するでしょう? 二枚目にはリラックスして、いい写真が撮れるんですよ」
「そ、そうなんだ。あー、でもビックリした。突然二枚撮るんだから、変な声出しちゃったよ!」
「ごめんなさい、でもほら、クゼさん最初よりいい笑顔! 素敵ですよ?」
「な、なんだか恥ずかしいな……」
そうした後、着替え、砂浜に座り、今日のことを振り返る。今日はいい波が出ていたとか、最初は波に乗るのに苦戦した人も、そうでない人も、最後には楽しそうに乗れていて、嬉しかったこと。皆はいい経験が出来たこと、それを記録する写真が多く撮れて満足だったこと。皆笑顔だ。頬に夕日が照ってまぶしい。
だんだんと夕日が海に溶けていく。今日の夕日は本当にいい夕日だったのだろう。嫌なことが吹っ飛ぶ夕日に久しぶりに出会えたのだ。皆の笑顔がその証拠だ。
「実は私、キメラ症の人としっかり話したの、初めてなんです」
リンパスの女の子は夕日に目を細めながらこう語りだした。
「日本って、キメラ症の先進国なんていわれて、外国人のキメラ症の方とか一杯くるんですけど、みんなギスギスしてるんです。目が合うと怒られたり。スナップ写真なんて撮ろうものならそれはもう」
夕日を見ながら思う。知らなかった。てっきり皆定職について、背広を着てバリバリ稼いでいるのかと思っていた。
目をやると、彼女は両手に抱えたリンパスに目を落としている。
「それで治安が悪くなって、日本人のキメラ症の人までギスギスしちゃって。皆怖がって話さないんですよ。同級生でさえもね」
彼女が言うには、同級生にもキメラ症がいて、たいそう優秀なのだそうだが、今年卒業するというのにロクに話したこともないのだとか。怖いのだそうだ。
「私、一回だけ彼が優しそうに笑って、友達と歩いてるところを見たことがあるんです。その時は、偶然仲がいいだけなんだろう、って思ったんですけど、今日クゼさんと会ってそれがちょっと変わりました」
彼女が目を上げた。夕日はもう半分以上沈んでいるが、彼女の目の光はそれを補って余りある明るさを持っている。
「人って、話してみないと分からないんです。姿や表情、普段の態度、確かに大事ですけど、実際はそうでもないんです。私、帰ったらあの子と話してみようかな、って思います。今更かもしれませんけど、もしかしたら楽しいかも!」
それを聞いたとき、ハッとした。さっき集合写真を撮るときに自分はどう思ったか。僕は――。
その時、ポケットから昔の日本のポップスが流れてきた。携帯電話の呼び出しだ。
「あっ、ごめんなさい、ちょっと出ますね!」
着信は兄の研究室からだった。なんだろうか。
「もしもし、ルード・クゼです」
「ああ、ルードかい?実は頼みがあるんだけど、迎えに来てほしい」
「え?なに?兄さん?迎えに?今仕事中なんだけども……」
「参ったな、お客さんとの予定に間に合わないな……」
「ええーっ!他に手段ないの?」
「それが、ないんだよなぁ」
「うーん」
参った。仕事の途中でなければ飛んで迎えに行くのだが、僕はこの後彼女達をホテルまで送り届けなければならない。時間は足りるだろうか。
「この後お客さんをホテルに送らなきゃいけないんだけど、場所と時間は?」
「私は今大学で、お客さんは例の自治会長。時間は八時まで」
「そりゃ、時間が足りないね」
八方塞がりか、そう思ったときだった。
「え?クゼさんのお兄さんですか?」
ネイコンの男子が言う。
「ああ、私たちのことは後回しでいいですよ、っていうかクゼさんのお兄さん、会ってみたい!」
ヘキサックスの女の子が続く。
「クゼさん、急ぎましょう?」
リンパスの女の子は先ほどの目の輝きのまま、僕を見つめてきた。
夕日はまだ沈みきっていない。
「兄さんいつものとこで待ってて、迎えに行けそう」
バスでできる限り移動して、弟との集合地点に向かう。西の空はほのかに赤いくらいで、空には星が見えんとしている。一日の終わりを予感させるが、私の一日はまだ終わらない。暑さは幾分か和らいでいるが、毛皮にはきつい暑さだ。
間に合うだろうか?弟はトラブルなく時間通りに来れるだろうか?心配だ。
集合場所は、バス停から少し歩いたコンビニだ。仕事終わりにどこかへ行くときは大体ここを待ち合わせにしている。今日は弟に世話をかけるのだから、弟の好きなマッチャ・オレを買っておこう。私が落ち着くために、甘い物も買っておく。ミルクが多めのココアだ。
弟はそろそろつくはずだ。いつものように白のワーゲンで、私を見つけると笑顔でハンドルを切って、わざわざドアを開けてくれるに違いない。
白のワーゲンが見えた。黄色みのあるライトがまぶしく、弟の顔は見えない。私は駆け寄る。いつも通り助手席は空いていた。今日は自分で扉を開いた。
「すまないねルード、自営業だからってこれはよくないよな」
「いいのいいの。兄さん、それよりちょっと……」
弟の笑顔はいつもと違っていた。少々苦笑いが混じっているような、でもそれになりきれないような笑顔だった。なにより日本語でしゃべっている。どういうことだと思ったら、ワーゲンの後部座席から人の気配。それも多い。恐る恐るバックミラーを覗いてみると、日本人とおぼしきアジア人が四人、こちらを凝視していた。
「うお?!」
おもわず声を上げてのけぞってしまう。どういうことだ?
「すみません、私たちが無理を言ってついてきてしまったんです」
一番手前、私の後ろの席に座っている女子が、申し訳なさそうに声をかけてきた。その手には、リンパスのデジタル一眼カメラ。一世代前の、私の持っているものと同じモデルだ。
「いや違うよ兄さん、皆お客さんなんだけど、兄さんの急ぎの用事に協力してくれてるんだよ、それで一緒に来てくれたんだ」
弟は左手のアクセルを前に倒すとそう言った。バスがゆっくり走り出す。
「な、なんだそういうことだったのか。皆さんご協力ありがとうございます」
私は後部座席の彼女らに一礼する。参ったな、弟の客まで巻き込んでしまうなんて。これで自治会長へのインタビューが上手く行かないとなると、申し訳が立たないな。
「そ、そんな、興味がちょっとだけあったのは事実なので……」
「まあまあ、みなさん本当ならリゾートでいらっしゃってるんですから、お時間をいただいているのは私ですよ。ありがとうございます」
彼女はなんと謙虚なのだろうか。十分すぎるほど気を使ってもらっているというのに、なおのこと申し訳なさそうな表情をしているではないか。いいお客さんだ。
シートベルトを締めると、ハンドルを握る弟の前、ドリンクホルダーにさっきのマッチャ・オレを置いた。
「世話をかけるね。お客さんにまで手伝ってもらって」
「あ、兄さんありがとう」
弟は無邪気な笑顔で応えてくれた。信号待ちになると、ストローをとりだし、マッチャ・オレを一口すすった。「美味い」と一言漏らすと、こう続ける。
「みなさん素敵な人たちだよ。兄さんのことを話したら、会ってみたい、って言ってもらえたんだけど、まさか本当にこうなるなんて」
キメラ症の兄弟に会いたがるなど珍しい。そして弟がここまで客のことを嬉しそうに語るのも同じく珍しい。それもそうだ。普段の客には、見た目で我々を判断する連中も多いのだから。
「ほんとに兄弟なんだなあ、そっくりだ!」
「お兄さんのほうが淡い青色してるんだねえ」
「あ、ほんとだ、クゼさんの方が濃いんだ!」
「どっちもクゼさんじゃん」
「あ、そうだった! えーとお兄さんのお名前は……」
なんだか後ろが騒々しいが、悪く見られているようではなさそうだ。リンパスの彼女といい、なるほど、カハールが思うこととは違うが、日本とはいいのかもしれないな。
「ナハトです。ナハト・クゼ。よろしくお願いします」
「すっげー、日本語ほんとにキレイだ。あれ、ひょっとして日系ですか?」
ネイコンの男子はカンがいい。
「ええ、そうですよ。浅瀬の瀬に久しいと書いて久瀬と読ませます」
「へー!日系何世ですか?五世くらい?」
「実はね、二世なんですよ。父がごく最近移住してきた日本人で、母がドイツ人」
「ああ、それで名前が。」
他愛もない世間話だが、心地よい。後ろの方からの質問に答えていく。「ハワイにはいつからですか?」というリンパスの女子の質問には「もう一〇年とちょっとかな」。ヘキサックスの女子の「奥さんは?」という質問には「残念ながら」と苦笑いで返す。引っ込み思案そうなサニーのカメラの男子も声をかけてきて「あの、お仕事は?」とのことだ。「大学の先生ですよ。准教授。皆さんみたいな学生と毎日遊んでますが、みなさんしっかりしてらっしゃる」と答えた。素直にそう思う。カハールに見せてやりたいものだ。
「父は日本がいやだと飛び出してきたんですがね、みなさんを見ていると逆のことを考えてしまいますよ。学生の一人も今度留学するとかでね、みなさんを見習わせたいものです」
「お二人のお父さんですか」
リンパスの女子はなんだか複雑そうな顔をしている。キメラ症をよく勉強しているのだろう。ありがたい。
夜の帳はどんどんと降りていく。時間は大丈夫そうだ。
窓の外では、ナトリウムランプのとげとげしいオレンジ色の街灯が後方へと飛び去っていく。その合間にちらほらと、うちの学生が家路についているのも見える。
それと並んで、リアカーにガラクタを山積みにしたキメラ症の若者が見えた。このあたりでは有名な、ガラクタのジョーとか言われている白いヒツジ頭の男だ。彼も学部こそ違うが、うちの学生らしい。同じキメラ症患者ということで仲のいい教員と話題に上がったが、さして面白い話題ではなかったはずだ。だが彼は、今日も彼の仕事に精を出しているのだろう。
質問攻めが一区切りして、後ろも落ち着いたので弟の方に目をやる。
「……」
弟もジョーの方を見ていた。しかし、私の視線にどうしてか気づくといつもの笑顔で「大変だね、いきなりお客さんから呼び出しなんて」と私を気遣ってくれた。なんだか妙だ。
「どうしたんだルード?なんだか気が重そうだが……」
「ん?何が?それよりほら、準備とか大丈夫?もうそろそろ会長さんの家だよ?レコーダーとか、ノートとか忘れてない?」
仕事中でもあるからか、はぐらかされてしまった。そして実際、私の仕事も近づいている。窓の外は何度か見たことのある景色だ。街灯が少なく、家々の灯だけの、なんとも寂しげな風景だ。ワーゲンが路肩に止まった。
自治会長の家の前につく。夕焼けはほとんど沈んで、西の空がほんのりと赤みを帯びている以外、薄い青に包まれている。会長の家の明かりは、ほんのりと温かい黄色をたたえていた。
弟とその客は近所を撮影してまわるそうだ。なんでもハワイの日常風景も撮っておきたいらしい。たしかに、この自治会長の家も典型的なハワイの建築ではある。だが、そんなことを考えている場合ではない。仕事をせねば。ドアをノックする。
「ごめんください、アポイントをとっていたクゼです。お話を伺いにまいりました」
しばらくして、重たい足音がドアの前まで近寄ってきた。目の前が明るくなり、ドアが開いた。低く、古びたラジオの音のような、気だるそうな声が響く。
「ふん、ようやく来たか。上がっておくれ」
現れた自治会長は色黒で非常に恰幅がよく、白髪をたたえた頭は、ややおでこが広い。やや釣り目で強面だ。典型的なハワイの先住民、あるいはポリネシア人の体躯だ。
「失礼します」
ひとまず、出会い頭に暴言を吐かれるようなことはなくて安心した。そのまま応接室に通される。そこには竹を編んだスツールが一対と、その間に小さいガラステーブルが佇んでいる。挨拶を済ませる。
「まあ、かけてくれ。突然呼び出したりして、すまなかったな」
「は、はあ……」
夕方の電話とうってかわって、穏やかな態度ものぞかせた。いったいどうしたというのだ。昼間の剣幕に、私も動揺したというのに。スツールに腰掛けると、自治会長はそのまま続けた。
「コーヒーがいいかね?それとも、紅茶かな?」
なんと、おもてなしまで。
「あ、では紅茶で…」
「そうかい。見た目によらないんだな」
「へ?」
彼は妙なことを口走ったが、私の疑問の声には答えず、そのままキッチンへと引っ込んでしまった。なんなのだろう。
とりあえず、インタビューの準備をしながら部屋を眺めてみる。向かいにある食器棚はカップなどでにぎやかだ。しかし、少々埃がたまっている。使われていないのだろうか。棚の上にはなかなか品の良い花が飾られている。
そういえば、ほかに人の気配がない。明らかに家族がいるような雰囲気なのだが。
電子レコーダーに、ノートなどをとりだす。愛用の万年筆もだ。それをテーブルの上に並べておく。
彼はまだまだ戻ってこない。
なんとなしに背後に目をやる。こちらは本棚だ。並んでいるのはなんてことはない、ただの文庫や、雑誌のバックナンバー。それに、アルバムだ。いまどきアナログで写真を残すのは私だけだと思っていたが、彼もそういうタイプらしい。そして、空いているスペースにそれはあった。家族の写真だ。やはり彼にも家族はいるのだ。写真に写っているのは、先ほどみた姿に比べいささか若い彼と、妻と思しき女性。そしてその間に息子だろうか、少年がひとり笑顔を浮かべている。
そうしているうちにお茶が入ったのか、足音が戻ってくる。
「待たせたね。慣れないものだから茶葉が見つからなくってな」
「いえ、お気遣いなく」
彼の大きい体に比して小さい盆に、ポットとカップが並んでいる。それを運ぶ姿はなんだかぎこちない。言う通り、慣れていないのだろう。
「大学の先生に、しかもキメラ症の方のお口に合うかどうかはわからんが、飲んでくだされ」
カップがテーブルに置かれ、紅茶が入るが、明らかに慣れていない。少々こぼれた。
「ああ、すまんね。自分で入れることなんて、なかったものでな」
「いえ、大丈夫です。紅茶は好きですし。……失礼ですが、ご家族は?」
「ああ、見たのかね。写真」
彼はスツールに腰掛けると、顔を伏せがちにカップを手に取った。表情は、よく読み取れない。
「目に入ってしまって。すみません」
「見るために置いてあるんだ。いいのさ」
私も紅茶をすする。やや渋い。カップの中は驚くほど濃い赤だ。
「……やっぱり、いなくなっちまった嫁ほど、うまく入れられんな。うまい紅茶など、最後に飲んだのはいつだったかな」
「いなくなった、というのは?」
「そのまんまの意味さ。いまじゃ生きてるのか、死んでるのかもわからん。ある日を境にガキんちょ残して雲隠れだ。そこの写真は、どっかいっちまう1年前だな。もう10年ちょっと前か」
彼はため息を一つこぼし、不器用にカップをソーサーの上にもどした。顔は、相変わらず伏せがちだ。だが明らかによくない表情をしているだろう。
「それは……つらい話をさせてしまい、申し訳ありません」
ようやく彼は顔をあげた。思ったより表情は悪くない。が、神妙な面持ちだ。
「嫌なら話さんよ。なあ、オオカミの先生にゃ、家族はいるかい?」
「ええ、弟が、一人」
「健康かね?」
「いえ、似たような」
やけに突っ込んで聞いてくる。なんだというのだ。
「なら、大事にするんだ。ワシみたいにならんように」
「え?」
「わざわざいうこともないかもしれないがね、生きづらいと感じるのなら、なおさらだ」
何を言いだすのだ、この人は。
「いや、なんてことはない、当然のことだがね、そういう当然って、案外自分じゃ気づかんのさ」
「はあ」
家族を大事にしろ。彼になにか思い当るところがあるのだろうか。
「私は一応、弟は大事にしているつもりですが、何か?」
「息子みたいな若いのは、年寄りにはよくわからんもんでな、そこのガキんちょ、二十になった途端に島を飛び出していっちまってな。『こんな田舎なんてこりごりだ。アジアで一発当ててやるんだ』なんて言って、日本だか中国だかに行ったきりメールのひとつもよこしやがらねえ。出るときに大ゲンカしたのがまずかったのさ」
「それは、お気の毒に……」
自分も渋い紅茶をもう一口飲み、テーブルに戻そうとしたとき、先ほどまでとは違う、芯の通った声が私を射抜いた。
「お気の毒はあんたさ。儂が今日、あんたをわざわざ呼び出したのは、それが理由さ」
「は、はあ……え?」
私が考える間もなく、さらに私に声が刺さる。
「電話でも言ったがあんた、儂らハワイアンを調べてるって割には、自分は出てこないじゃないか。何をしてるんだかは知らんが、儂からすればあんたは、自分を棚上げしてるように見えちまう。同じように、色々調べられてる弾かれもんなのによ。それとも、大学の先生ともなりゃ、自分がキメラ症だってのも忘れちまうのかい?」
弟の顔が、窓に映った自分の顔が、頭をよぎる。弾かれ者、キメラ症、ハワイアン。
何と答えればいいのだろう、確かに私は、自分がそういう人間であることから達観してしまっていたかもしれない。しかし、今ティーカップを握っている手は、見た目だけで爪弾きにされてもおかしくない。
どこか窓が開いているのか、生ぬるい風が抜けていく。
「すまんな、言い過ぎちまった。電話で話した時もそう思ったんだがね、顔をみたらつい」
「いえ」
何故か反論できなかった。弟にも、彼の息子のような思いがあったのかもしれない。弾かれ者で、仕事があるだけまだまし。普通の人間とやってることは変わらないはずが、奇異の目で見られ、誤解され、捨てられる。そんなものがない世界で生きたい。そういえば、日本なら普通の車を堂々と運転してもいい、と弟は言っていた。
自治会長がようやく口を開く。
「まあ、なんだ、それが言いたかっただけだ。あんたぁ、弾かれもんのわりにはしっかり仕事しとるし、ちゃあんとこうして来てくれた。暴れたりもせず、こんなジジイの説教を聞いてくれた。それだけで、儂は十分なのさ。なによりあんたも、あんたの部下のべっぴんさんも、儂らのことを正しく知ろうとしてくれてる。それは別に、文句を言うことでもないしな」
正しく知る。そういったときに、伏せがちだった彼の顔がようやく上がった。晴れやかとはいかないが、部屋に招き入れた時よりはずっとやさしかった。私はどうだっただろうか。
「さ、話しをする、というのが今日の約束だったな。なんでも聞いてくれ。実はあのべっぴんさんが来るのも楽しみだったんだが、今日はあんたにするぞ、いいな?」
「あ、よろしくお願いします」
彼はいつもアンネにこう話しているのだろうか、ようやく仕事が始まる。
陽が落ちて、まわりも真っ暗になってから大分経つ。兄は、そろそろ戻ってくるだろうか。お客も写真を撮るのに満足して、車に戻ってきた。
「ねえクゼさん、今日お兄さんがしてる仕事ってなんなんですか?」
リンパスの女の子が運転席に手をかけて聞いてくる。
「えーと、文化人類学だかなんだかやってて、ハワイアンの研究だって。ここの自治会長さんがそういうことで大事な人らしくって。あっ、おわったみたい」
自治会長の家の扉が開くと、淡いオレンジの明かりの中から兄が出てきた。自治会長の姿も、兄の表情もよく見えない。二言三言言葉を交わすと、兄は深々とお辞儀をした。何を話したのだろう。扉が閉じられると、兄は肩で大きく息をした。
助手席に戻ってきた兄は、なんだか見たことのない表情をしている。
「あれ、兄さんどうしたの?なんかあった?」
「ああ、有意義だったんだ。けっこうね」
「?」
なんのことだろうか。この人はあまり多くを語らないのが困る。
「ナハトさん、お疲れ様でした!」
リンパスの女の子が兄に声をかけた。表情は暗くてわからないが、やはり明るいのだろう。
「ああ、ありがとう。面倒かけたね。いい写真は撮れたましたか?」
「ええとっても!びっくりしちゃいましたよ!この暑いのに裸足で歩いてる人とか特に!」
「ああ、うちのお隣さんもそうだね。越してきたときはびっくりしたよ」
ははは、と笑う兄はいつもと変わらない。思い過ごしだろうか。
「さ、みなさんをお送りしないとね。ルード、大丈夫かい?」
「あ、ああ、そうだったね。皆さん大丈夫ですかー?撮りのこしとかないですかー?」
「ないでーす!」
今朝と同じような返答だ。まったく元気だ。
ワーゲンをホテルへ向けて走らせた。
それほど大きくないホテルが彼らの拠点だった。日本からの若い客はよくここに泊まっているので、場所はすぐわかった。大通りを一本裏に入ればすぐだが、この時間は混む。かれこれ5分は信号待ちだ。
「あーあ、青い空も真っ赤な夕焼けも終わっちゃったなあ」
ヘキサックスの女の子はまだまだ撮り足りない、遊び足りないというようなトーンで言う。
「なにも自然の風景ばかりがこの島の魅力じゃないよ?ほら、あそこの店、日本人のお客さんよく行くよ?」
対向車線の向こうにある小料理屋は日本人に人気の店で、兄もお気に入りなのか、休日はよく連れて行かれる。デザートが絶品で、テイクアウトは売れ残りを知らないほどだ。
「なんだあの店かー!抹茶黒蜜のケーキがすごい美味いんだよ。あ、みなさんにもおすすめですよ。夜はバーもやってますからこの後ぜひ」
兄が後部座席に向けてそう言った。そう、このことを教えてくれたのはやはり兄なのだ。
「ナハトさんって詳しいんですね!あとでみんな行こう!」
「あ、ランチもいいですよ、ロコモコが日本人好みの味なんですよそれはもう!」
兄はずいぶん上機嫌だった。何か無理やりにでも好きな話をしないと間が持たないという風でもあった。
そういえば腹が減った。それは後ろのお客も同じようで、口々に「後で行こう」だとか「あっちの店もいいって聞いた!」とか言っている。彼らが楽しそうなのはなによりだ。
ようやく信号が青になる。最後の仕事だ。
「さーみなさん、名残惜しくはございますが、目的地にまもなく到着いたしまーす、お忘れ物、落し物などなさいませんようお気を付けくださーい」
「クゼさんそれどこで習ったの?なんかぎこちないよー?」
「わざとですよー。それよりほら、着いちゃいますよ、ケータイとか忘れないでね?」
ネイコンの男子が囃し立ててきた。
ワーゲンをホテルの前に停める。幸いさほど混んではいない。エンジンを切り、ハザードランプを炊いた。
「トランク開けますね!」
「ああ、私も手伝おう」
兄が助手席からぱっと出た。自分もそれを追う。
「はい、こーれーは」
「あ、俺のでーす」
兄が引っ張り出したボストンバッグはネイコンの男子のものだった。
「どうもありがとうございました!お兄さんもクゼさんもかっこいいっす」
なんだか自分のことのように誇らしい。
「えーと、これは?」
「あ、あたしのでーす!」
トランクから出てきたのはヘキサックスの女の子のキャリーケースだ。ステッカーがいっぱい貼ってある。
「写真一杯とられちゃったな」
「あとで送りますよ!ホームページに載ってるアドレスでいいですか?」
「ああ、そこでおねがい。待ってるよ!」
この子は元気だな。きっとまちがいなく写真は送られてくるだろう。
「君は静かだね、楽しかったかい?」
「はい。とっても。まだちょっと滞在しますが……」
兄は、物静かなサニーのカメラの男子に大きいリュックを渡していた。
「クゼさん、今日はありがとうございました!」
「あ、君か。こちらこそありがとう!」
リンパスの女の子はすでに自分のキャリーケースを下ろしていた。仕事が早い。
「まだもうちょっとここにはいますから、クゼさんに教えてもらったところ、いっぱい行ってみますね!」
「そっかー、楽しいとこいーっぱいあるから満喫してね!」
「あ、クゼさん、最後に1枚、いいですか?」
と、彼女は愛用のリンパスを掲げてきた。
「ああ、いいよ。ホテルの前かな?」
集合写真かと思っていると、彼女は兄の方を向いていた。
「ナハトさーん、お写真撮らせていただいていいです?」
「え、私を?」
「いえ、ご兄弟で」
思わず兄と目を見合わせた。
「いや、かまいませんが」
「じゃあ、バスの前で!今車も来てないですし、ほらほら急いで!」
せかされるままに道路側、バスとホテルをバックにする形で兄と並ばされた。なんだか久しぶりで気恥ずかしい。幸運なことに、本当に車が来ない。そのまま二枚ほど写真を取られた。
そしていつの間にか、お客だったみんなも隣に並んでいた。
彼女はロータリーの縁石にカメラをおき、構図を確認すると、タイマーをセットした。
その後、彼女がきて、シャッターが切れた。
日本からの学生諸君は、ホテルから離れるバスと弟に大きく手を振ってくれた。私にはどうだろう。一応私も手を振りかえした。
来た道を戻るが、こちらの車線は空いていた。弟のワーゲンは聞き慣れた、乾いたようなエンジン音を響かせている。
「なんだか楽しいお客さんだったな、ルード」
私が休みの日に見かける客は、どこか一歩引いたような連中が多かったのだが、今日のは弟どころか私ともコミュニケーションを積極的にとり、弟の表情もやわらかいことが多かった。
「そうだったね、今日の皆さんはすごかったよ。スゴイいっぱい写真撮られたのは、びっくりしたけどね。写真クラブなんだって」
「どうりでみんなカメラ尽くしなわけだ」
最後にみんなで集合写真、しかも途中参加の私まで、というのにはたじろぐところもあったが、よかったのだろう。
「……」
「……」
ワーゲンは相変わらず乾いた嘶きを続けている。別に会話がないからといってどうということはない。
赤信号が近づく。弟は右折車線に入るとウィンカーを出し、左手のレバーをゆっくりと押して、ワーゲンをとめた。
弟の運転はしっかりしている。アクセルもブレーキも滑らかで、衝撃を感じることはない。このやかましいワーゲンをよく運転していると思う。最近ようやく買った中古のトヨハタに弟は「すごい、踏んだらちゃんと進む!」といたく感心していたが、この車がウンともスンとも言わなくなるまで使うのもよいのではないだろうか。かくいう私は免許を持っていないのだが。
目の前を、さっきも見たガラクタのジョーが右から左へと横断していく。この暑い中、リヤカーのガラクタ、もとい彼の商品は増えている。
そういえば、私がジョーを見るとき、いつもジョーは一人だ。誰かと一緒にいるのを見たことはない。そもそも姿を見かけることは多くないのだが、あの見た目なら、目立たないはずがない。家族はいるのだろうか。奨学金を受けているらしいが、なら保証人は?兄弟は?彼がキメラ症ならば、と考えると、相当な苦労があっただろう。事実私も、修士卒業後は一度就職したものの、その後大学に戻ってしばらくは金策に苦労したものだ。
ウィンカーの音が、カチカチとせかしてくる。
弟は、どうなのだろうか。
「なあルード、ガラクタのジョーの仕事って、知ってるかい?」
「え?ガラクタ集めじゃないの?」
ジョーと面識はないが、話のダシにさせてもらおう。すまない、工学部のガラクタのジョー。
「実は彼、学生だそうだ。うちの。学部は違うけどね。学費は奨学金をとっているらしいが、それ以外にやりたいことのためにガラクタ集めなんだと」
「あ、それ知ってる。日本にいきたいんでしょ?」
「なんだ知ってたのかい」
「うん、一回だけ、ジョーが兄さんのいないときにうちに来てね。ほら、この島、そんなにキメラ症って多くないでしょ?」
意外だった。そういえば、弟の交友関係はあまり知らなかったし、何よりあのジョーが我が家に来ていたというのも驚きだ。
「あ、ああ、それもそうだな」
「それでね、その時に聞いたんだ。日本はキメラ症でも仕事がけっこうあって、車も普通のを運転していいんだ、って。なんだ、学生ならちゃんと勉強してるからわかるんだよね。なんかの映画の清掃員の主人公みたいだなと思ったんだけど、なんだがっかり」
弟はなにかを伝えたいが伝えきれない、そんな風に笑っていた。
信号が青に変わると弟はアクセルを前に倒し、ハンドルを切る。ジョーとは反対方向だ。
そう、ジョーは日本で働きたいのだそうだ。噂でしかないが、なにやら新しい技術の開発を考えているらしく、日本でやるのが一番なのだそうだ。
「なんだったっけ、サンソーケン?だっけ?そういうところでキメラ症のロボットみたいなのを作るんだって。よくわかんなかったけど、すごくたのしそうだったなあ」
弟は、ジョーとそれなりに話し込んだらしく、彼のことをよく知っている風だった。産業技術総合研究所、略して産総研といったら日本の研究開発での中心の一つだ。そこまで話ができるとなると、ジョーはかなり大きなビジョンを持っているのだろう。
「そうだったのか。でもなんでお前がジョーと?少ないとはいえジョーに他の知り合いがいても、おかしくないだろう?」
「それがね、僕のこと聞きに来たんだって。あ、兄さんとおんなじだね。インタビューだって言ってたよ」
「お前のこと?」
「うん、僕のこと。あのー、その、アハハ、この脚とかね」
弟は、ペダルにのっていない、踵が高く上がった骨格の、狼のような脚を軽く足踏みさせた。苦労して見つけた日本製のキメラ症用サンダルは、だいぶくたびれていた。
「なんだったっけー、義足とか、パワーのあるロボットの脚だとか。そういうのを作るから、参考にしたくて、生活について聞きたかったんだってー。不便か、とか、役に立つか、とかね」
ジョーのやりたいことが漠然と見えてきた。キメラ症患者の骨格や、その生活を調べ、持てる技術を投入して、キメラ症患者向けならそれを日常生活に適するような改善をできるものを作り、健常者向け、ロボット向けならキメラ症のユニークさを再現するパーツを作ろうというものなのだろう。最大の目標はどこにあるのかはわからないが、多くの人を救うだろう。
「お前はそれでなんて答えたんだい?」
「え、えーとね、歩けるけどぶっちゃけ不便だって言っちゃった。ほら、サンダルとかすごい苦労したじゃん?」
「そうだったな」
「あと、免許の手続きとかも毎回めんどくさいし、健康診断もほら、兄さんも面倒でしょ?骨が飛び出すかもしれないなんて、そうめったのないのにねー」
いつもながら饒舌な弟の話はキメラ症の都市伝説のようなものだ。だが患者によっては成長にムラがあったり、異常が起きることがあるので年一回の健康診断が若いうちから義務付けられているのだ。
「ジョーはすごいよなー、どんどんこういうこと聞き出してきて、僕も頭のなかすっきりまとまっちゃった!」
「ジョーが?」
「そうそう、すごーく色々質問されたり、話してるうちにいろんなこと聞き出してね!免許のことなんかいつもどおりだったから面倒っていうのを忘れちゃってたよ!」
「そ、そうか……」
「で、ジョーがどうしたの兄さん?」
「いや、なんでもない。お客さんが日本の方だったからな。思い出しただけさ」
「ふうん」
ジョーの姿は遠ざかり、すっかり闇に消えてしまっていた。
そういえば、日本は「日出ずる処」と言ったか。日付変更線の向こうの彼の国は、明日の夕方かそこらだろう。世界の西の端と東の端で、こうも違うものなのか。
帰り際にいつものガソリンスタンドで給油をしたが、助手席の兄は、窓の向こうをみてなんだか上の空のようだった。
家についてからはいつもどおりのようになった。兄は先に車から降り、ガレージを開けてくれた。僕に合図を送ると我が家へ入っていく。玄関、リビングと灯りがともっていく。
ワーゲンを頭からガレージに入れる。今朝はここであのカメラ部のみんなと初顔合わせだったけれども、たった半日とは言えなんだか濃い一日だったように思える。
彼らを見ていると、ジョーが日本に行きたがるのが、なんとなくわかったような気がする。彼らの冷静だが暖かい眼差しと、彼らの言う向こうの、僕と同じような若者。なんだか気になる。
運転席を降りてすぐのところに、ガレージの明かりのスイッチがある。入れると真っ暗だったガレージが淡い山吹色に包まれた。ガレージの明かりはこの時代に白熱電球で、ここに引っ越してきた時についていたものをそのまま使っている。未だに切れないまま、暖かなこの色をたたえているのは奇跡なのかもしれない。思えばここに来て長い。
皆が使っていたサーフボードとボディボードをワーゲンから出し、ガレージの壁に立てかけ、ホースで水をかけて洗う。暑い夜に、水道の水が気持ちいい。大分こいつらもくたびれてきたので、そろそろ買い替えやメンテナンスを考えなくてはならないな。
そう思いながらホースを向けていると、不意に兄の声がした。
「ルード、話がある」
ふりかえると、ガレージのふちに手をかけて立つ兄がいた。兄の体は、毛の色もあってか紺色の闇に紛れているようだが、白熱灯の照り返しがてらてらと輝いて綺麗だ。一方、服はアロハを着替えて、部屋着の地味なシャツを着ている。灯りの影になって、表情はよく見えない。
「ああ、兄さん、すぐ行くよ」
「後でいい。食事が出来たら呼ぶから、その時に」
「あ、ごめん、作ってもらってたんだ。わかったよ、着替えとかも済ませておくね」
「大丈夫だよ。シャワーもすぐ使えるからな」
兄は何か決めたような声だったが、なんだろう。なにかまずいことでもしただろうか。ひとまずボードはさっと洗っておいた。
次は自分を洗う。流石にビーチで塩気は落としたけれども、毛がキシキシする気がする。服を脱いで風呂に入ると、独特の暖かさが毛を通して肌に触れる。毛が少し水気を含んだのか、重たく感じる。兄はまだ風呂を済ませていないのか、床は乾いていた。
蛇口をひねるとシャワーから程よい温度の湯が出てきた。体を軽く流したあと、湯を張っていない湯船に入り、横たわってシャワーを浴びる。
今日は本当に色々あった。思うところが色々あった。自分が自分から、彼らとの壁を作っていたこと。その壁がない方がいいと思う人もいること。
浅めの湯船に投げ出した脚を見る。やはり体は大分常人と違う。肉球のある足に、高い踵。そのほか諸々。どう思われているのか、細かくは知らないが、やっぱりこれは異形だ。ビーチで見る白人サーファーの足はこんなに節くれだっていない。そもそも自分はもともと人種で言えばなんなのかも知らない。兄は、日独のハーフらしいが。
ずっとサンダルを履いていたので、足の指の間には、だいぶ砂が付いていた。シャワーを手繰り寄せて流す。ザラザラとした感覚が流れ落ちていく。ほかにも、ももやら、かかとやらにも砂が絡んでいたのでブラシをかけて流した。そして、少々横着だが寝転がったまま、ブラシにシャンプーを染み込ませ、全身ブラシがけする。背中まで届く、まるで大昔のドラマやアニメにあるような長いブラシを使っているので、最初はひとりでもちょっと恥ずかしかったが、もう慣れた。
そうして体を洗い終えて、風呂を出る。ドライヤーでさっさと体を乾かして、リビングへいくと、兄の料理が、暖かい光の下で迎えてくれた。チーズクリームのリゾットは粘りが強いのか、コメの間から突き出したマカロニの上に、パセリが輝いている。
兄は、キッチンでお茶を入れているのか、ポットに湯を注いでいた。
「ああ、ルード、すぐお茶が入るからな。先食べててくれ」
弟が戻ってきたようだ。かすかにシャンプーの甘い香りがする。
「あ、ごめんね。今日は疲れてるのに」
「いいんだよ、手を動かす方が性に合ってる」
全くそのとおりだ。そうでもないと話したいことを焦って話してしまう。
沸騰した湯をポットに注ぐ。紅茶にはやや合わない青磁の茶器の中を、アッサムティーが踊っている。
あとは、そろそろ焼きあがるであろうマヒマヒ(シイラ)の塩焼きを皿に盛るだけだ。
グリルを開くと、白かったマヒマヒがほどよい褐色を帯びて、プチプチといい音を上げている。これをトングでひっつかんで、野菜の乗った皿に乗せて完成だ。
「昨日マヒマヒが安かったから、塩焼きだよ」
「うわー、おいしそう!分厚いね、これ」
テーブルにマヒマヒの皿を置くと、弟は相変わらず可愛らしい声を上げた。
「なかなかこういうの、出ないからね。思わず買ってしまったよ」
青磁のカップと、ポットもテーブルにおき、食事の準備が整った。リゾットは作り置きのもので、マヒマヒも焼いただけの簡単なものだが、喜んでもらえるのは嬉しいものだ。
「いただきます」
「いただきます……って、あれ、今日は日本式?」
「ああ、なんとなくな」
つい、気にしていることが出てしまった。弟も感づいているかもしれない。
スプーンでリゾットを一口とる。柔らかい旨みが口に広がる。
弟は、マヒマヒをナイフでひときれ切って、口に運んでいたところだ。
「やわらかい!レモンも利いてるねこれ」
「ああ、うまくいったな」
そうして、やや遅い夕食が進む。
兄の焼いたマヒマヒはいつも柔らかく、今日はレモンが効いて、疲れた体にやさしい。
最後の一切れを口に入れるころには、兄はすでに食後の紅茶に手をつけていた。
青磁のティーセットは兄のお気に入りで、常にぴかぴかで、茶渋なんかつくことはない。
兄はキッチンのほうを向いて、先ほどつけたテレビのニュースを見ているのだろうか。テレビの光が兄の顔に反射してチラチラと輝いている。
「明日の天気と、波の予報です。明日はハワイ全土は素晴らしい快晴で、今日以上に日差しが強くなるでしょう……」
ニュースは、明日の天気と波の予報を写している。明日は少々雲が多く、おだやかな天気になるようだ。こっちに引っ越してきてびっくりしたのが、サーファー向けの波予報がやっていることだ。そういえば、ハワイに越した理由を昔兄に聞いたはずだが、子供だった自分にはよく理解できなかった。
日中の賑やかさが嘘のように静かだ。テレビの音が大きく感じる。兄がティーカップをソーサーに戻す時の音まで耳に入る。なぜだろうか。
いつもなら喋る兄が、今日は静かなのだ。
兄は相変わらずテレビを見ているのか、紅茶を時折すすりながら、視線は向こうに向けている。
「続いて、世界のニュースです。今日はご覧のトピックスについてお伝えします……」
テレビは世界のニュースになったようだ。ニュースの見出し一覧が画面に並ぶ。
「なあルード」
兄はようやく口を開いた。
弟はちょうど、マヒマヒの最後の一切れを口に入れるところだった。
「これすんごいおいひぃ」
そうやって、マヒマヒを頬張りながら話す姿はいつもどおり愛嬌のあるものだった。
「なあルード」
私が声をかけると、表情に真剣なものが宿った。遅れてマヒマヒを飲み込むあたり、弟らしい。
「続いて、日本のキメラ症患者団体による、キメラ症関連医療費の大幅削減への抗議活動に関してです……」
テレビからは日本でキメラ症患者の学生運動が盛んになっており、大きな動きになっているというニュースが流れている。画面では猫科のキメラ症の女性が流暢な英語でインタヴューに答えている。
「今日のお客さん、どうだった?」
「それいつも聞いてるじゃん、えっとねー、今日はいい人たちだったよ」
「日本のお客さんは、初めてかい?」
「いや、初めてじゃないけど、今日みたいな人は初めてだったよ。すごく優しくて、視野が広くて」
そういう弟の表情は柔らかい笑顔をたたえていた。
「そうか。前の人は、どんなのだったんだい?」
ニュースは次のトピックスに移っている。
「緊迫する韓国、北朝鮮間の関係に、新たな火種です。両国関係についにスパイ問題が浮上しました」
兄の質問にはちょっと困る。あまり思い出したくないからだ。
「前の人たちかー……ちょっと年取ってた、六〇代くらいのおじいさんおばあさんかな?ちょうど今日兄さんがあってた自治会長さんみたいな感じだったね。でも、言いにくいけど、僕を見る目がなんだか悲しそうなものを見る目というか、あっちゃいけないものを見るような目だったね」
「あっちゃいけないようなもの?」
「うまくは言えないんだけどね、こんなこと言ってた。よくビッコひかないよね。って。調べてみたら、足に障害のある、とかそういうような差別用語だったんだ」
「そうだったか……でも、今日の人は違ったんだろう?」
「そう、僕の足のこととかしっかり勉強してて、車の運転のこととかも知ってるみたいだったんだ!」
そういうと、兄の表情は和らいだように見えた。
「次のニュースです。あらたな命が、誕生しました」
弟の、今日のお客について話す表情から、私は安心した。この様子ならあのことを提案しても大丈夫だろう。
「そうか。あの車もいい加減ボロだし、運転しづらいよな」
「そーそー、アクセル押してもなかなか進まなくてさー、今日みんなを乗せてたら、ジョーに追い抜かれるかと思うくらいだったんだから!」
「ははは、そうかそうか」
ニュースは先ほどのトピックを続けている。
「アメリカのニューヨーク、聖フランシス病院で、キメラ症の赤ちゃんが生まれました。名前は、アダム・キムラさん」
「あ、この子ちょっとジョーに似てる」
「ああ、そうだな」
ジョーの名前を出したら、兄の表情に少し影が落ちた。
「なあルード」
なんだろう、妙な予感がする。
「アダムさんには、お兄さんがいます。アイザック・キムラさん」
「なあルード、お前、日本に行かないか?」
「えっ」
私は思い切って切り出した。
画面に映るアイザックという少年は、弟と同じヒツジ頭だ。
「え、な、なんでいきなり?」
ああ兄よ、何を言うつもりなのか。
「お前はまだ若いし、今のうちからそういう国で自分や周りについて学ぶべきかな、と思ってね、何より……」
「そう、アダムさんは、アメリカでは初の、キメラ症初の第二子なんです」
「本当の兄弟じゃないんだから」
ああ、そうなんだ。
「兄弟の母親、アヤ・キムラさんはキメラ症の一次感染者ですが、アイザックさんを妊娠した時に感染が判明しました。その後しばらくしてアダムさんを妊娠しました。子供に不幸がないようにとアメリカでは、ほとんどの第二子がキメラ症の場合中絶されてしまいますが、アヤさんは、アダムさんの出産を決意しました」
言葉が出ない中、ニュースだけがよくある事実と初めての事例を淡々と述べていく。
「そ、そうだよね、すっかり忘れてたよ。でも、ほら、流石に冗談だよね?なんで僕が?日本に?」
「冗談じゃない」
そういう兄の表情は真剣だった。
「今日、あのハワイアンの自治会長にな、息子さんの話を聞いてきたんだ。今じゃ連絡も取れないみたいだが、なんでも夢を追っかけてアジアに飛び出して言ったらしい。会長さん、一番悔いているのは、喧嘩してしまって息子さんの背中を押すんじゃなくって蹴り飛ばすような形になってしまったことだそうだ」
「で、でもだからって僕が日本に行く理由なんて……」
「あるだろう?」
「……」
「日本ならここより多少は、いやだいぶ楽に商売もできるだろうし、なにより仲間だっていっぱいいる。なに、追い出そうってわけじゃないさ」
「少し、考えさせて」
時計の秒針だけがカチカチと音を立てている。
玄関を出たすぐ、事務所にあるデスクに僕は突っ伏している。何分経っただろうか。カチカチという音の方に目をやると、ちょうど午前〇時を過ぎたところだった。そとはすっかり暗く、たまに家の前を通る車が、ワーゲンバスを照らしては過ぎ去っていく。
日本行きは今日決めなくてもいいと兄は言ってくれたが、冗談でもないのは本当なので、ちゃんとイエスかノーかをはっきりさせたい。
僕の本音を言うとどうなのだろうか。
はっきり言ってしまえばイエスなのだろう。だけど本当にイエスなのか?なんで日本に行きたいのだっけ。
兄は日本の血が混じっていて、捨て子で施設育ちだった僕を、どうにかこうにかして無理やり弟にしたらしい。なぜかは聞いたことはないが、きっと同情心や何かがあったのだろう。父も賛同したらしいが、今となってはわかる手立てがない。
兄から日本の話は昔よく聞いていて「日本ならもう少し楽だった」「日本ならこんな手続きも……」など面倒なときに、兄の口からよく出てきたのを覚えている。
そうだ、僕もそう思った時があったんだ。ちょうど今日、それを思い出したんだ。
脚に異常のあるキメラ症向けの免許を取ったときのことだった。
「あー、キメラ症?脚に異常?聞いたことないよそんなの」
あの時の係員は横柄な若者で、思ったことがすぐ口に出るのか、ブツブツと言いながら資料を引っ掻き回していた。その日は上司も不在だったとかで結局一時間は待たされた挙句に出直しを余儀なくされた。
教習の時もそんな調子だった、たった一度だけ会った教官の態度はひどく「えー?なに?歩けるの?ならこの講習いらないんじゃない?」と半ば義務を放り出したような言動ばかりする人間だったのだ。
突っ伏したまま、暗闇にかろうじて見えるワーゲンを見ながら、そんなことをぼんやりと思い出した。
ふと、携帯が鳴る。ウタ・ヒカリのブルー・ブルースという曲だ。だが、それはすぐ止まってしまった。メールの着信のようだ。
僕は突っ伏したまま、その曲の歌詞を思い出す。
「青い空が見たいなら青い傘いる?か」
なんだかその歌詞が好きで、やたらと古い曲なのに着信と待ち受けの曲に設定している。
突っ伏したまま携帯の方に目をやると、やはりメールの着信を示す画面になっている。相手は、兄からだ。兄さんから?
「今いいかい?」
見ると事務所の奥、ガラス戸のむこうで兄が微笑みながら手を掲げるのが見えた。こちらも手を挙げ答える。戸が開いた。
「やあ、さっきはすまない。びっくりさせたな」
さっきの、テレビの反射の向こうに見えた、どこか凍てついたような、それとも何か凍らせて無理やり隠したような表情とは違う、いつもの兄の笑顔が戻ってきていた。
「さっきは僕も話すのに勇気が要ってね、あんなふうになってしまったんだ。ごめんよ」
「あ、いいんだよ?だいじょうぶ、僕もびっくりした」
兄は頭を掻いて照れくさそうに笑っていた。読書でもしていたのか、やや視力の弱い左目に、家だけで付けるモノクルをしている。きっと、そうでもして気分を変えようとしたのだが、だめだったのだろう。
「その……なんだ、免許を取るとき、お前が苦労していたのを思い出してな、それ以外にもいっぱいあって、今回の提案なんだ」
だがやはり幾分か落ち着いたのか、兄は柔らかい口調でそう説明してくれた。
「それで、ジョーと話したって言ってただろう?その時にやっぱり、いろいろ聞いてたのかなと思って、思い切って提案したんだ。私の生徒も今度日本に留学するとか言っているし、どうかな、と」
「えーと、例のカリフォルニアのカハール君だっけ?」
「そうそう。日本びいきでね」
兄の学生の話はよく聞くのだ。アンネさんのこともよく聞いている。ロボットみたいな印象しかないが。
「そのー、よければ、ジョーがどんな話をしたのか教えてくれないか?」
兄は柔らかい口調のまま、凛として聞いてきた。
弟はほんの少しの間、デスクのほうにうつむいていたが、ふ、とこちらに向き直ると口を開いた。
「ジョーにもね、言われたんだ」
「何をだい?」
「日本に行くのはどうだ、ってね」
弟の表情は、さっき私の提案を受けたときに比べて幾分か柔らかい。
「ジョーがその研究所に行くっていう話をして、僕の体の話とかをしたあとに、そんな話を受けたんだ。もっと活躍できるだろうから、ってね」
まあそうなるだろう。ジョーの考え方を詳しく知っているわけではないが、弟に似たものを感じて、そう提案するのは考えるに易い。
「やっぱり、日本ならこの脚でも普通にアクセル踏めるみたいだし、特別な手続きとかもなく免許取れるみたい。まあ僕なら国際免許でいいんだけどね。でも、やっぱりそういうハードルは低いみたい。」
なるほど、私もそれは知っているが、ジョーがそこまで調べ上げているとは驚きだ。彼はまだ学部生だというのに。カハールに見習わせたいものだ。
「でね、それよりびっくりしたのは、ジョーよりも今日のお客さんなんだ。ジョーからはさっきの話しかされてないんだ。だから悩んでるんだ」
「お客さんって、あのカメラ部の?」
「そう」
これは驚きだ。あの日本の学生諸君から弟が何かを受けているとは。
「あの、一番しっかりしてたリンパスの女の子ね、すごく、柔軟なんだ。キメラ症の同級生がいるみたいなんだけど、僕を見て、その友達に対する意見が変わったんだってさ。たお客さんとか、日本の人ですら、びっこを引く、とか言っちゃうんだけど、彼女は僕を見て、同級生と仲良くしてみようか、って言ってくれたんだ。それがすごく、日本に引っ張るのかな、僕を」
それを聞いて私は思わず言ってしまった。
「なら日本に行かない理由はないじゃないか」
「あるよ」
弟は芯の通った声を強めて言った。
「いきなり家族と離れろって言われて簡単にそんなことできる?今の生活になんにも不満はないけど、ただよくなるって理由だけで、出ろなんて言われてもできっこないよ」
つい、言ってしまった。離れたくないのだ。ただのそれだけなのだ。
ここに居ついてもう長い。兄と過ごし、客を取り、経験を積み、在り来たりだが、酸いも甘いも味わった。それを、捨てるというわけではないのだろうが、そこから旅立つということに、躊躇してしまう。
「ここで何年過ごしたかな、もう」
「……もう十何年にもなるかな」
兄は目を伏せがちに、しかしはっきりと言った。
「でしょう?ただの思いつきじゃあないとは思うけど、それだけの思い出が詰まったこの島を簡単に離れろなんて……」
結局その夜、兄とはそんなやり取りをしただけで終わってしまった。僕は事務所のソファで、たまに行き交う車の騒音を聞きながら寝た。
翌朝、弟は休日のためかソファで寝ていたままだった。きっとあの後ずっとそうしていたのだろう。背もたれの方に顔が向いていて寝顔は見えない。気まずさもあって、私は彼を起こさずそのまま出勤した。
まだ誰もいない研究室に着く。朝日が差し込んでいるが薄暗い。電気を付けると昼白色の刺々しい照明が灯った。まずはメールのチェックからだ。
共同研究先の研究者からのメールに、学内の連絡メールが数点。それに珍しく、というか初めて、ハワイアンの自治会長からメールが届いている。そして添付ファイル付きの、日本からのメール。彼女たちからだ。
処理するべきメールを処理すると、まずは自治会長からのメールを開いた。
「久瀬ナハト様。
先日は無茶なご要望を聞いていただき誠にありがとうございます。あなたが誠実な方で本当に良かったと思っております。あなたの研究に今後とも役立てるよう、以前以上に協力させていただきたく存じます。
あのときお話させていただいたことに関しては、あまり間に受けず、年寄りの戯言と思って頂ければ幸いですが、なにかあなたの心に変化を与えることがあったのなら、決して焦らず、おおらかな気持ちで自分を変えていかれるがよろしいと思います。
私も当時は若かったものですから、息子を急かし、焦らせ、怒らせ、こんな結末に相成ってしまいました。あなたにはそういった間違いを犯さないでほしいと思っております。
急いては事を仕損じる、ということわざが、たしか日本にはあったはずです。少々ニュアンスが違うかとは思いますが、あなたも、ご家族の、弟さんのことに関しては急ぎすぎぬよう、お願い申し上げます。」
ああ、昨日のうちにこのメールを読んでいたのなら、焦ることも急ぐこともなかっただろうに、そう思った。思わず背もたれによりかかる。
昨日の夜の弟の表情を思い出す。怒りとも、悲しみとも取れないあの表情。恐怖とも言い切れない。私はそんなところに彼を追い込んでしまったのだろうか。
次のメールを見るこういった文章で始まっていた。
「久瀬ルード様、ナハト様。
先日の写真をお送りします。急いでとった写真だったので、出来上がりが心配でしたがパーフェクトな出来でした。」
1枚目は、私とルードが二人でホテル前で並んだ写真だった。
僕は、目が覚めたら蒸し暑いオフィスにいた。兄は、もう仕事に行ってしまったようだ。
開きっぱなしのノートパソコンに目をやる。新着メッセージの通知が点滅していた。
それがそうだと認識するのに時間がかかったが、タッチパネルを操作してメールを開く。
あっという間に目が覚めた。彼女たちからの写真付きのメッセージだ。
「先日の写真をお送りします。」
そう始まった彼女、リンパスの女の子からのメールには何枚もの写真が添付されていた。まずは彼らに指導していた時の僕の姿だ。潮に濡れて幾分かみすぼらしく見えなくもないが、格好良く撮ってもらえている。そう思えた。次に、夕日をバックに皆でとった集合写真だ。逆光なのに皆の表情まで綺麗に写っているのが驚きだ。
その次は、兄が自治会長にインタビューをしている時の、街中を何気なくあるく皆の写真。
さらにその次は、ホテル前で兄と一緒ならんで撮ってもらった写真だ。一緒に写ったワーゲンバスは、買ったときに比べてすっかり塗装がはげ、だいぶ長くなったなと思わせる。兄は、写真でこうして見ると、少々老けたかな?そう思えた。僕は……どうなのだろう。いつもどおり、紺にも近い毛皮に、踵の上がった狼の後ろ足。これが無ければ、なかったことになったなら、どんなに楽か。
次の一枚は僕ら二人に日本のみんなが並んでくれたものだった。皆一様にいい笑顔で、先ほどの考えを消し飛ばしてくれそうな勢いだ。
ああ、そうか、やっぱり答えはこういう事なんだな。でもどうしよう。
ひとまず席を立ち、家の裏手、遊泳禁止の海岸の方に出る。
ずっと西の方、極東の方を見る。ジョーも、彼女たちも、あそこに求めているものがある。
研究室の窓から見える青い、青い海を見る。今日も日差しは強く、海岸に見えるフェニックスの木立は濃く小さい影を砂浜に落としていた。そして、窓ガラス自体を見ると、そこに映るのは、いつもながら青ざめた狼の顔だ。
パソコンに目をやる。メールが一件、添付ファイルつきだ。
差出人はルード。アドレスは、末尾が.jp。日本からだ。
あれから役半年が過ぎた。弟は結局、日本行きを決めた。急いては事を仕損じる、と自治会長に言われたことを思い出すが、まだ仕損じたかどうかはわからない。それに、それを実感するのは私ではなく弟だろう。
彼が日本行きを決めた日のことは今でも覚えている。何の前触れもなく、大学の私の部屋に訪れ、カハールもアンネも居る前で「兄さん、俺、日本に行くよ」と言い放ったのだ。私は呆然としたし、カハールもひたすら瞬きをするばかりで、アンネに至っては驚きのあまり口をあんぐりと開けていた。あそこまでアンネを乱したのは、後にも先にも弟だけだろう。
その日は例の日本人の客を送った翌日だった。弟は決断すると早いのは知っていたが、翌日夕方にたからかに宣言するのは驚いたものだった。
メールを開くと、クリスマスの電飾に飾られた東京タワーをバックに、あの日本人達と並ぶ弟の笑顔があった。その隣にはカハールもいる。そう、彼も同時に日本に発ったのだ。
文章にはこう書いてある。
「ついに日本のクリスマスが来たよ。日本ってすごく寒くて、空気がカサカサしてる。思ったより日本のキメラ症事情って浸透してなくて、ハワイとあんまり変わらないところもあるけど、車はアクセルを踏んで運転できるよ。兄さんに教えてもらった日本語にも助けられてなんとかできてる。日本のみんなと明日、クリスマスのパーティを開くことになってるんだけど、その様子もまた送るね。もう少し、こっちでしっかりとした日本語を勉強したら、まずは運転の代行の仕事からはじめるつもり。兄さんも暇があったらこっちに来てね。
追伸、こっちにはキメラ症の人が比較的多くて、新しい友達も出来そうです。なんか変わった人ばかりだけど、楽しい仲間なので、機会があったら紹介したいです」
と、何枚かある写真には、弟が現地のキメラ症患者と写った写真も混じっていた。赤いくまどりのような模様をペイントしたハスキー顔や、私より少し若いトカゲの青年、それに、頭の悪そうな別の青目のハスキーやらが写っていた。
その姿に、私はなんだか少し安心を覚えた。
「ああ空も捉えよう、こんなことはよく知ってる、青い空見たいなら青い傘いる? か。東京は曇ってるみたいだけど、なあ」
などと窓の外を見て歌ってみると、いつの間にかアンネが背後に立っていた。
「あら、先生が歌うなんて初めて見ました」
「あれ、そうだっけ?っていうか君は幽霊か何かかい、まったく。恥ずかしいところを見られちゃったな」
「弟さんからの着信メロディですからね、歌っても不思議じゃないとはおもいますけど、うふふ」
「なんだいなんだい、笑われるなんて心外だな」
「なんでもありませんよ。それより、自治会長のインタビュー、今日は二人で行く約束でしたよね?クリスマスパーティもあるだとか」
「ああ、そうだった。あとで車を出さないとな」
「先生の運転、期待してますわ」
「死ぬことはないと思うから安心してくれ。多分」
苦笑して再び窓の外に目をやった。
窓に映る顔は、やはり狼だった。二本足で歩く、青い毛皮の不思議な狼男、そう形容すると姿が分かりやすいだろう。父譲りの病気でこうなったのだが、血の繋がっていない弟も不思議なことに同じ見た目だ。彼はいま東京で何をしているのだろうか。
窓の向こう、はるか西、逆に極東となるその都市も、この街もクリスマスムード。東京の灰色の空に、願わくば青い傘を。