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L.E.D  作者: キルト
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L.E.D

――Power on.


あー。あーあー。今日は5月18日(水)。曇り。要点から言う。恋をした。おそらく恋なのだと思う。一目惚れというやつを僕はこれまで信じてこなかったが、これがそうなのだとしたら納得だ。この恋がどうなっていくかは僕にはわからない。このまま萎んでゆくかもしれないし、生涯に続くものになるかもしれない。

遠い、もしくは近い未来の果てにもしも振り返りたいと思った時のために、僕は日ごとの自分の思いを声に残すことにした。誰にも聞かせないし自分もそれほど繰り返し聞きたいとは思わない。それでも軌跡は必要だと思うから。それを形に残すのは強ち大外れということもないだろう。さっきも言った通り誰かに聞いて欲しくて話してるんじゃない。未来の僕が聞きなおした時に情景が、心情が克明にとまでは言わないまでも薄らぼんやりと思い出せる程度で良いと思ってる。

さて、本題に進もうと思う。本題が恋とは10年以上学生をやってきた自分でも情けなくなるくらい恥ずかしい気持ちがないでもないが、真実なのだから仕方がない。えー。5月18日、通学のための朝の電車内。彼女が乗ってきたのがどこの駅だったかもまるで分からない。それほど恋というものが衝撃的で脳の意識が吸い込まれたということだろう。多分前から2両目くらいだったと思う。混雑を避けようと思ったはずだからだ。時刻は、7時半過ぎ辺りだった気がする。いや、これも気がするじゃ駄目か。時刻表を確認すればいいだけだ。一時中断。


――


あー。ああー。続き。時刻表通りだとすればウチの駅を出たのが7時18分。彼女が乗ったのはいつかは分からないけど、少し経っていたはず。まあいいさ。どうせもう何日か探していけばわかることだ。そんなことより彼女の話をしよう。最寄り駅から各駅停車が発車して、何駅かして彼女は乗ってきた。進行方向左側のドア。車内に入ってきた瞬間、僕は座席の前に立っていたわけだが、彼女の顔を何とはなしに見た。見たと同時に目が離せなくなった。釘付けとはまさにこの事だった。今思い返せば誰かが僕を見ていたのだとすれば何とも間抜けな格好だったろう。胴体はシート正面を向いたまま、目だけでなく首ごと彼女の方へ。口も半開きだったに違いない。肝心の彼女について。セミロングの黒い髪。近づけば良い香りのしそうな清潔感溢れる紺の制服。首元からは決して緩すぎない程度のネクタイ。どこにでもある標準的な制服だったが、やはり彼女だからこそ目を引いたのではないか。小さい顔に小さな眼鏡。俯きがちな表情からは少し疲労が看て取れた。息切れしてもいたから駅まで走ってきたのかもしれない。そういえば顔が紅らんでいた気もする。極めて一方的でこう断定するのも少し気が引けるが、これを出会いとするのならあまりにも素朴だろう。僕は彼女に初めて会ったのだった。

近づくとか話すとか、手を繋ぐとか笑い合うとか。今はそんなことは考えていない。えーと、少なくとも18日の今は。とりあえず。今日のことは忘れたくない。忘れてしまいたくない。だからこうして残したとも言えるし。初めての録音だったけど、そろそろこの辺で。ちゃんと残せているか確認しないと。そうでなくとも1階の親が不審がる。じゃあ、また明日。


5月19日(木)。晴れ。心の何処かで一過性のものかとも考えていたが、やはり今日もレコーダーを手に取った。諦めきれないのか。まだ今を大事にしたいと思っているのか。いや、当日の気持ち気分なんてこれを聞くときの自分は重視しないだろう。なるべく、努めて今日の事実を話す。

今日は停車ごとに車内を見回し乗車客を観察した。同じ電車になるかどうかは不確実だから、あまり期待しないようにしたがどうしても彼女を探す目と意識には力が入る。僕は2両目の中腹で立っていた。果たして彼女はやって来た。チェックと同時にメモをしたから間違いない。高花橋駅。7時35分。もう一度言っておく、高花橋駅。2両目の前から2つ目のドア。そこから彼女は乗ってきた。2度目の対面だが、高花橋まで見つけられない焦りの中にいたせいで鼓動が強すぎて呼吸も難しかった。だけど不審な印象は与えたくないから表面上は取り繕った。上手くいっていると良いけど。アナウンスによると今日は少し遅延気味だったそうだから35分前後だと断定しておく。毎日同じ時間の電車に乗るかどうかとか、何両目だとか、そういう習慣は本当に身につく人とそうでない人がいるから心許ないと思う。僕は同じ車両に乗る方だけど。

今は冷静にそこまで考えられるが、実際にはそんな余裕は全く無かった。我ながら情けない。女性一人にここまで。

彼女が降りたのは3駅先の百川駅。車内では携帯を弄るくらいしかしていない。話しかけてくる友人もいないようだった。あくまで今日は、だけど。改めて外見を観察すると昨日とは微妙に異なっていた。顔は同じだけど髪は少し茶色がかっていたし、長さも肩までかからないショートだった。不思議なもので人間は初見ではそこまで正確に記憶できないらしい。昨日の記憶、最早正確性で言えばイメージに過ぎないが、それが無意識下での好みのタイプか何かだったとしたら昨日の録音は消してしまいたい。

百川では学生が多く降りていったので学校も多くあるのかもしれない。ちなみに高花橋も百川も急行列車が停まらないので各駅停車の列車に乗ることは確実と言える。今日は、ここまで。明日も会えるようにとどうしても祈ってしまう。おやすみ。


残念だった。あ、5月20日(金)。今日は電車が違うようだった。いや、単に2両目でないという可能性もあるけど。こればかりは仕方がない。別に会えなくても何がどうなるわけでもないのに、今日は一日調子が出なかった。帰りの電車も念のため探してみたが、彼女らしき人は見当たらなかった。今言いながら気付いた事だけど、明日明後日は学校が休み。くそ、こんなことなら土曜にも授業してくれれば。この2日の内、何かできることはないだろうか。


5月22日(日)。雨。一応忘れない内に報告。一先ず百川周辺の学校をピックアップした。百川から徒歩で通えそうなのは多く見積もって4校。意外と少なかったけど、バス通学まで入れると大幅に増えるから考えないことにする。尾けようかとも思ったけど、それだと僕が学校に間に合わないし、犯罪だろうそれは。


あー。あーあー。テステス。5月23日(月)。赤い録音ランプが弱々しい。電池の換え時だろうか。気付かないうちに消えていたら嫌だから、部屋の電気を消した。

鬱陶しい雨は今日も続いてる。湿気とかでレコーダーに何もないと良いけど。いや、そんなことより今日は彼女に会えた。自分でも浮かれているのが分かった。もしかしたら気付かれているかもしれないけど、何しろ目は合っていないから考え過ぎということにしたい。これからは会っても体裁が崩れぬよう気を配らないと。

彼女は傘と一緒にいつもは持っていない鞄を持っていた。体操着かジャージかわからないけど、体育の授業があるのかそれとも部活か。駅から学校までどれほどかかるのか知らないが、運動系の部活に入っていたとして朝練をするには彼女の時間は少し遅いと思う。だからただ単に体育があるのだろう。どちらにしろ雨なのに大荷物で可哀想に思ったことは確かだ。

そうだ、体育といえば僕の学校も体育祭が近づいているらしい。運動音痴の僕には無縁だが、変な役回りにさせられないようにしなくちゃ。朝の時間は大切にしたいから。それじゃあ今日はこれで。ってやはりレコーダーの調子がおかしい。音割れはしてないけどやはり電池切れか。高校受験用に買ったものだから寿命ってことはないはずだけど。休みの日と彼女に会えなかった日は使わないようにしよう。


5月24日(火)。昨日の今日で本当に軸が無いと言うか我ながらブレていると思うけど今日は彼女には会えなかった。別に毎日会えなくても良いと慰める。それよりも体育祭の運営委員にさせられてしまった。今のところ早朝登校は言われてないけど、開催が近づけば避けられないだろう。何とかしないと。体育祭は6月1日。週のど真ん中にやるなんてどうかしてる。あ、明日は出会えて1週間記念日だ。はあ。乙女か僕は。


5月26日(木)。気持ちのいい晴れ空。彼女にも会えたし天気も良いし満足だった。やはり彼女が居るだけで殺風景で退屈な車内の景観もカラフルに色付く。ただ、彼女は車内で通話していた。僕はマナーを重んじる方なので正直に言って少し落胆した。清楚で大人しそうな見た目とはギャップもあったが、それが割りと普通の女子高生と言ったものかもしれない。いつか出来ることなら注意してあげたい。それはそうと会話の内容が聞きたかったが車内ということもあり、小声なのに加えてこちらも思うように動けなかったから断念した。

もう1つ。勿論彼女より優先される事ではないけど、少々一方的とはいえこれが恋心だと思っている僕にとって決して無関係とは言えない出来事が起きた。

告白を、された。

はあ。思い出すだけで自分の顔が紅くなるのが分かる。相手は同じ学年だけどクラスの違う、芦沢さんという人だった。見た目の印象から言えば昨今の風潮に則り、積極的でガサツな方ではなく、可愛い系の子だった。こんな僕にそこまでの価値があるかどうかは別にして、誰かが僕のことをそういう対象として見てくれるのは素直に嬉しかった。それは要するに世間一般で言われる「レンアイが出来る」方に僕が振り分けられたということだから。僕のクラスにはキモイとかクサイとかそういう一歩下手に見られている連中が居る。彼らは間違っても恋愛なんて華々しいことはできない。それに比べて、というと少し自分を過小評価し過ぎとも取れるけど、僕が彼女と一緒になるのもそうした資格という視点から見たときにOKだったということだ。これを聞いているかもしれない僕、君は恋愛ができる側の人間だ。

他方問題が残る。当たり前だけど断り方である。今の僕には芦沢さんの気持ちに応えてあげる事ができない。「あなたの事を見てた。あなたの事が好きになった。付き合って欲しい」。告白に要した時間は僅かだったが、それでも相手の言葉を全ては覚えることはできなかった。こうして思い出そうとしてみてももっと沢山話してくれた気がするし、僕が少し考えさせて欲しいと言うまで告白は終わらないように見えた。全てを聞くのが礼儀かとも思ったけど委員会があった。酷い話かもしれないけど、なるべく今貢献しておかなければ朝番に回されるかもしれない。相当勇気を振り絞ってくれたのか去り際の顔は真っ赤だったけど、僕も真っ赤だったと思う。宙ぶらりんにするのも心が痛んだけど、2つ返事の方が僕は信用ならないと思う。


5月27日(金)。曇り。彼女には会えていない。1週間記念に思い切って買ったコンビニスイーツも手付かずだ。冷蔵庫に入れてあるけど、大丈夫だろうか。

今は目下、断り方を探している。クラスの友人に訊いてみたはいいものの、そもそも妬まれる所からスタートするので結論が出るまでが長い。芦沢さんは学年でも有数のカワイ子ちゃんで、その何気ない気配りと柔和な表情は競争率を高めているらしい。そんな人を振る理由がまさか電車で一緒になる名前も知らない子が気になって仕方がないから、なんて口が裂けても言えない。そうではなくてもっと円やかに。オブラートに包んで傷つけないように断らないと。友人から得られた情報では、少し考えさせて、の「少し」は長くて3日間とのこと。もう既に1日使ったというわけです。芦沢さんの泣きそうなくらい真っ赤だった顔が思い出される。


5月30日(月)。土日を挟んだから丸4日待たせた結果になったが、どうにか断る事はできた。やはり悲しそうな顔をしたので気の毒だったけど、僕が我慢して付き合ったとして内心上の空の方が抉い。これは僕の都合だろうか。用意しておいた「友達から始めよう」というテンプレも出番は無かった。気持ちを伝えられれば踏ん切りが付くと言ってくれた。僕にはない男らしさだと思う。とにかくダメージが全く無いわけではないが、問題は解決した。問題とは、少し言葉が違うか。

さて、今週は体育祭がある。開催が水曜日とは知った時はアホかと思ったけど、かえって好都合になった。これまでの頑張りによって代役を立てることに成功し、当日の委員としての仕事は無くなった。そして、僕の出場種目は、無い。唯一出席確認だけがネックだったけど、これも出席簿に自発的に丸をつけるものらしいので代役をお願いした。当初は邪魔にしか思えなかったが、結果として平日を堂々と休む大義名分が手に入った。断ってしまったあの子の為にも僕の恋を進展させなきゃ。そう思っただけでドキドキしてきた。よし、またと無いチャンス。早く寝ることにする。せめて通ってる学校くらいは。


5月31日(火)。曇り。今日は前日準備ということで短縮授業。いよいよ明日。


6月1日(水)。晴れ時々曇り。体育祭。だったらしい。全く考えてなかったが、雨天中止にならなくてよかった。それよりも大進展したのでそれを記す。

彼女が通うのは私立立風高等学校。偏差値は57。百川駅から徒歩10分。

たったこれだけを知るために今朝は早起きした。お母さんには体育祭だと言っておいた。何だか探偵みたい。中二病だったっけ、こういうの。

早起きしたのは同じ電車に乗るつもりが無いからだ。今日は確実に彼女に会えなければ意味が無い。少し冒険だったが学校の制服を着て7時前の電車に乗った。いつもより多少緩和された混み具合。30分前には百川で下車。1つしかない駅の改札口で彼女を待った。そう、今日は電車内での一時を捨て、確実に見つけられるよう百川駅で待ち続けた。彼女を待つ間、待っている焦りと彼女がここに来る事実を知って待っている自分への高揚が綯い交ぜになった。そしてホームへと続く階段から彼女が現れたのを見た時、僕は喜びに絶頂してその場で崩れ落ちそうになった。ショートカットの髪がさらさらと揺れる。礼を弁える程度の丈の短いスカート。眼鏡の奥の瞳。いつもと場所が違うだけでこんなにも印象が引き締まる。彼女は制服のポケットから伸びるイヤホンをつけて歩いてた。極めて偶然を装い、学生然として後ろに尾こうとしたがいざやろうとするとどうも覚束なくなるのは、やはり不慣れからか。周りの視線が厭に気になった。自分の足取りが周りの通勤通学の速度に合わせようとして縺れる。かえって目立つと叱咤して何とか彼女の後を追った。思い出してたら何だかまたそわそわしてきた。あと少しだけどちょっと水を飲んでこよう。


――


えっと。彼女の後を追った所から。彼女は道中話しかけられることもなくすんなりと目的の高校へ到着した。お陰で学年とか名前とか細かい情報は得られなかった。高校自体は普通。特に言っておく事も無い。強いて言えば僕の学校よりも数倍綺麗だった。校舎への道の両端に木が植えてあって何ともお洒落。高校名だけメモして僕は家に帰ることにした。そして今に至るというわけだ。

今日は彼女と同じ制服の子を何人も見たが、やはり彼女ほどの可憐さを持つ女子は居なかった。僕の目は他人のそれよりも幾分ハードルが高いかもしれないが、それだからこそ僕の心を奪った彼女は素晴らしいと思う。何だ、これじゃ僕がまるで人を外見で判断する奴みたいじゃないか。いや、実際今していることはそうだ。違う。僕はそんなつもりじゃない。彼女の声も聞きたいしどんな人なのか知りたい。その気持ちはある。でも知りたいけどそんなことはできるわけがない。僕は彼女と何の関係も無いのだから。でも。これだけ頑張ったんだからもう少しくらい調べてもいい気がする。うん。僕にはその権利がある。

何だか報告のつもりが僕の考えまで録音しちゃった。まあいい。今日は丸一日自由に動ける。まだ9時半過ぎだ。落ち着いてできることを考えよう。


6月1日。2度目の録音。目が疲れた。足も疲れた。身体だけじゃなく心もだるい。まるで体育祭に本当に出たみたい。とても喋る気分ではないけど、それでも今日の内にしなければ意味が無い気がする。少し要領を得ないかもしれないけど、聞くのは自分だし平気。

さて、我ながら大胆な行動に出たと思う。まさか、立風高校で下校を待ち伏せるとは。でも確実に彼女に会うためにはこれしかないと思ったし、思ったら止まらなかった。もっと考えればいい案も浮かんだかもしれないけど、そこは順番の問題。一度案が浮かんだら、もう実行したくて心が冷静じゃなくなるものだ。不確定要素は水曜日ということ、部活をする可能性、友人と連れ立って下校する場合など、挙げたら限が無かった。でも僕は彼女の友達でも何でもないんだから、このくらいの難しさが当たり前だと思う。僕だって全然知らない人に簡単に住所とか知られるのは怖い。

ああもう話が逸れた。とにかく僕の行動を話しておく。あれから僕は彼女の下校に張り付く事を思いついた。時間はお昼を過ぎるだろうし、体育祭をしているはずのウチの制服を着なくてすむから不審度は今朝よりかは低い。問題は時間だけど、どれだけ待たされてもいい、この覚悟を持てば午後3時から学校前のコンビニとかファストフード店で時間を潰すのも苦じゃない。あ、いつ来るかも分からない人をひたすらあの下校集団の群れから探し当てるのは苦だったけど。それでも神は僕に味方した。4時前には彼女を発見できたのだ。

この1時間は辛かったしすごく疲れたけど、彼女を見たら吹き飛んだ。人間こういう所が不思議。それで急いでお会計を済ませて店を出た。お店では下校生徒が溢れかえっていて、誰も私服の僕など覚えちゃいないと思う。彼女は友人らしき人たちと帰っていた。女子3人組だ。僕は心がチクっとしたのを憶えている。友達がいるくらい当たり前なんだけど、やっぱりこういうのは堪える。一緒に帰っている女達はその子と帰るのがどれほど恵まれているのかちゃんと分かっているのだろうか。会話の内容は分からなかった。何しろ3人組は歩くスピードが本当に遅い。日が暮れる。対して僕は1人だし。間違っても追いついて抜き去らないように気をつけると、どうしても距離が開く。これが現状の僕と彼女のキョリなのだと詩的に思ったりもした。そして彼女は後ろ姿も可愛い。背筋が伸び、綺麗な足でゆっくりと歩いていた。見えなかったが、さぞかし可憐な笑顔だったのだろう。本当に歯痒い。

寄り道したり友達の家に遊びに行ったり、ということを想定していたけど、意外にもそんなことはなかった。今朝会えた事にしろ下校時間にしろ僕の想定外の事が続き、改めて思い通りには行かないことを実感した。いや、結果は思い通りなんだけど。何だろう気持ち悪い。それで、真っ直ぐ駅に行って友人とは別れたようだった。10分間後ろに僕がいたわけだけど、気付かないのもちょっと可愛い。

友人2人は彼女とは逆方向のホームに行き、彼女は高花橋方面のホームへ。僕も勿論彼女に尾いていく。ウチの体育祭も潮時だけど、どうせ飲み会でもするだろうと僕は思っていた。実際誰にも会わなかったし見掛けもしなかった。彼女を見つめ過ぎていたというのも否めないけど。そして彼女が高花橋で降りたのは僕には願ってもない事だった。これは家に帰ることを示していたからだ。学校終了後に真っ直ぐ帰るというのは少し淋しい気もするが、素行の面で言えば大変宜しい。そして僕は彼女の家を終に突き止めた。高花橋は郊外と言えどもそれなりに立地は良い。その駅の近くに一軒家とは裕福な家庭と言って間違いないだろう。表札には久しい波と書いて「久波」とあった。読み方は、後で調べようと思ってまだ調べてなかった。ちょっと休憩も含めて切る。


――


あーあー。再開。読み方は「ひさなみ」か「くば」かみたいだ。どちらにしろ珍しい名字だ。一応ヒサナミさんとしておくけど、早く下の名前も知りたい。僕は少し離れた電柱で携帯を弄るフリをしながらヒサナミさんの家を眺め、まさか他人の家に張り付くなんて度胸は無いから、すぐに立ち去ろうと思っていた。しかし、ものの数分で再び彼女が家から出てきた。今度は私服だった。私服も新鮮だったが、あまり派手ではなく控えめな雰囲気だった。やはり友人と遊ぶ約束でもあったのだろうか、そう思って一応少しだけ、駅で僕の家とは逆方向だったら諦めようと思って尾けていると、彼女は駅とは逆方向へ歩いていき、コンビニに入っていった。

僕は今日何度目かの幸運に震えた。間違いなくここが彼女のバイト先だと僕の勘が告げた。学校、家だけでなくバイト先のコンビニまでわかるなんて! 彼女の個人情報が波のように押し寄せ、脳が処理しきれずに混乱していく錯覚を覚えた。そのせいもあって今となっては浅薄な行動だが、その時の僕は堪らずコンビニへと直行した。

「いらっしゃいませー」。これが初めて聞いた彼女の声だった。営業用に作った声とは言え甘く聞き心地のいい幼めな声。彼女はレジで接客していた。駅から離れていることもありそれほど広い店内ではなかった。それでもお客さんは店内に5,6人は居たし、忙しそうだった。今日見た限りではヒサナミさんにちょっかいを出してきそうなチャラチャラした男店員は居なかったけど、少し不安だ。記念にサンデーとグリーンガムを買う事にした。ヒサナミさんのレジへ行き、接客してもらう。名札もついていたが「久波」としか書いておらず読み方は不明なままだ。彼女は店長から言われているのかマニュアルに従順なのかしっかりとこっちを見てくる。視線と視線が絡み合い、その距離30cmも無い。だけど僕が目を合わせられたのはきっと1秒にも満たないだろう。すぐに俯いて目を逸らしてしまった。僕にはまだ心の準備ができてないし、彼女が可愛すぎてとてもじゃないが直視は難しい。カラオケでマイクを握った時みたいに右の手の平が痺れて震えたし、両頬が熱かった。

今日はここまでして帰ってきた。怠けるつもりはないけど今日は前進の日だった。それにこれ以上何か起きても理解が追いつきそうにない。自分に出来る最速で進めていきたい。焦っても仕方がない。

ヒサナミさんが触った雑誌とガム。捨てずに取っておこう。シフトは4時半スタートだとしていつ頃までだろうか。深夜に跨らないようにしているのなら夜10時までとかかな。さあ今日はかなり前進した。明日からも頑張ろう。


6月2日(木)。曇り。我がクラスは総合3位。全8チームの中では健闘した方だろう。僕は全く関係ないけど。

今日はヒサナミさんに会えなかった。会えなかったけど、もう平気だ。今日は少し遅めに学校を出て高花橋で降りて彼女の家を見てきた。外見からじゃ何もわからないけどその行為に僕は満足して昨日のコンビニへ寄った。彼女のシフトが知りたかった。別にシフトに入っていない日でも家は見に行くつもりだけど。コンビニには彼女はいなかった。女子高生だしそれほど働けないとしても週3、4日といったところだろう。何も買わずに帰宅した。


6月4日(土)。晴れ。今日は土曜で授業は無いが、年中無休なのが都心のコンビニである。今日も夕方過ぎにコンビニへ行くとヒサナミさんはレジの真っ最中だった。今日は1秒でも長くヒサナミさんの傍に居たかった。だから僕はコンビニチキンを注文することにした。出来上がるまでの数十秒、僕は彼女を見つめ続けていた。彼女もまだ慣れてはいないのかたどたどしくも僕のためにフライドチキンを作ってくれた。目からは一生懸命さが伝わってきて嬉しかった。真剣な表情も可愛い。混んでいる中悪いとも思ったけど、チキンの袋が破けてて、一緒に買った単三電池とワンピの新刊が大変なことになったからお相子ということで。微笑ましいからクレームはつけないけど。明日も行こうかな。いや絶対行く。


6月5日(日)。世間は休日だけどコンビニに休みは無い。同様に僕にも休みは無い。でも残念ながら折角寄ってみたのにヒサナミさんは居なかった。すごく残念。一応変に思われたくないから外から覗いてみて居なさそうだったら入るのは遠慮することにしよう。用も無いのに入っても迷惑だから。

駄目だ。電池が切れ掛かってるっぽい。明日には取り替える。じゃあ、お休み。


6月6日(月)。晴れ。でも僕の心の中は豪雨。

朝の通学電車内。そこにはどこの馬の骨とも知らぬ男と楽しげに談笑する彼女の姿があった。あんな笑顔。今までは登校中も下校中も電車内でもコンビニでも見たことがなかった。無理矢理兄弟か何かだと思い込もうとしたが、男も制服を着ていたしそれは立風高校で見かけていたものと同じだった。それでも悔しくて百川駅で下車した。案の定彼女たちは仲良く立風高校へと入っていった。僕は情けなく他校の制服のまま立ち尽くすしかなかった。それから僕はどうしたのか記憶が無いが、どうやら学校へ遅刻して登校したらしい。だけど立風の校門前から頭が凍ったままで勉強どころではないので早退させてもらった。これ以上話していても自分が惨めになっていくのが分かる。苦しいから少し中断する。


――Power off.


僕はレコーダーを机に置いて座り込んだ。頭では満面の笑みを浮かべた彼女と隣に立つ男が消えては現れを繰り返し続けている。耳が痛くなるほどのシンとした静寂。何かを考えようとしても頭がそれを許さない。頭に浮かぶ彼女を打ち消そうとする頭に浮かぶ彼女。それを打ち消そうとする頭に浮かぶ彼女を打ち消そうとする頭。止め処なく脳が同じ映像をリピートしていく。こんなことなら寝た方がいい。眠って眠って涙が涸れる頃まで眠る。


――


目が覚めると辺りは暗闇だった。どうやら自室で座ったまま眠ってしまったらしい。かけた覚えの無い毛布を剥ぐ。首の筋肉に溜まった負荷が嫌な痛みを訴えた。携帯を取り出して見ると時刻は午後9時。大分寝てしまった。着たままだった制服を脱いでパジャマに着替える。階段を降りてリビングに向かうと、お父さんとお母さんがテレビを見ていた。寝ていたことを謝って、でも夕飯は断って水を一杯飲んだ。

「ごめん。何かだるいからまた布団戻る。」

そう言って僕は再び自室へと帰ってきた。

電気を点けると机の上にはカバン、レコーダー、そしてサンデーとワンピ。

僕は…


A.カバンを取って明日の授業の準備をした。

B.レコーダーを取って電池を取り替えた。

C.サンデーとワンピを読み始めた。

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