第八話 馬鹿なの?
頭の中に数字が浮かんだ。
イリナの警戒値:61%
昨日より下がっている。
三日目だった。
扉の前に座って、声をかけて、返事がなくても気にしない。ページをめくる音がすれば本を読んでいるとわかる。音がしなければ、壁越しに気配だけがある。それでいいと思っていた。
今日も同じように扉の横に座り、軽く声をかけた。
「おはようございます」
返事はない。でも、中に人がいる気配はある。
しばらく黙って壁にもたれていると、扉の向こうから音がした。
本をめくる音ではない。何かを置く音。それから、足音。
扉に近づいてくる足音だ。
頭の中に数字が動く。
イリナの警戒値:61%→67%
ドア開放意志:38%
……開けるかもしれない。
足音が止まった。扉のすぐ向こうで止まっている。
しばらく、何も起きなかった。
それから。
ばんっ、と扉が開いた。
勢いよく、ではなく、一気に、という感じだ。意を決して開けた、という動きだった。
銀がかった金髪。白い長衣。
イリナが扉の内側に立っていた。
目が合った。
頭の中の数字が一瞬ぶれた。
イリナの警戒値:81%
上がった。開けてから後悔しているのかもしれない。唇をきゅっと結んで、視線が俺の顔と床の間を行き来している。
俺は動かなかった。
立ち上がりもしなかった。座ったまま、イリナを見上げた。
沈黙が続く。
十秒か、二十秒か。
「……馬鹿なの?」
イリナが言った。
声は小さかった。でも、はっきりと聞こえた。
「毎日扉の前に座って。意味がわからない。気持ち悪い」
俺は少し考えた。
「気持ち悪いというのは、行動が理解できないという意味か」
「そう」
「なぜそうするのかを知りたいか」
イリナの視線が止まった。床でも俺の顔でもない、中間のどこかで止まっている。
「……知りたくない」
「そうか」
「でも」
一瞬の間があった。
「……なんで怒らないの」
俺はイリナを見た。
馬鹿なの、と言われた直後に、怒らない理由を聞いている。
「怒る理由がない」
「気持ち悪いって言った」
「思ったことを言っただけだろう。怒る理由にはならない」
イリナの眉が少し動いた。困惑しているのか、それとも別の何かか。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの警戒値:81%→74%
下がった。
「……おかしい」とイリナが言う。「普通は怒る」
「普通かどうかは知らない」
「怒鳴った人もいた。泣いた人もいた。もう来なかった人もいた」
淡々と言っている。感情を込めているわけではない。ただ、事実を並べている。
「俺はそのどれでもない」
「なんで」
「怒鳴っても泣いても来なくなっても、何も変わらないから」
イリナがじっと俺を見た。
初めて、まともに目が合った気がした。
一秒、二秒。
視線が床に落ちる。
「……変な人」
「よく言われる」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
イリナの口元が、ほんの少し動いた。笑ったのかどうか、判断できなかった。すぐに元の無表情に戻ったから。
しばらく沈黙が続いた。
イリナは扉の内側に立ったまま、動かない。出てくるわけでも、引っ込むわけでもない。
「今日も座ってるの」
「予定ではそうだ」
「……邪魔」
「廊下の端に寄る」
「別に」とイリナが言った。「どこでも同じ」
それだけ言って、くるりと背を向けた。
部屋の奥に歩いていく。扉は、閉めなかった。
少し開いたまま、そこにある。
頭の中に数字が浮かぶ。
接触成功率:19%→31%
……12ポイント上がった。
俺はしばらく、半開きの扉を見ていた。
中からページをめくる音がする。
「また来る?」
声が聞こえた。
扉の向こうから、小さく、でも確かに。
俺は少し間を置いてから答えた。
「来る」
ページをめくる音が、また続いた。




