第六話 姫が部屋を出た
頭の中に数字が浮かんだ。
城内の騒ぎ度:急上昇中
……何かあったか。
朝食を終えて廊下に出ると、空気が違った。
使用人たちがそわそわと動き回っている。廊下の角で二人の侍女が顔を寄せて何かを囁き合い、俺が通ると慌てて口をつぐんだ。
頭の中に数字が流れる。
侍女Aの興奮値:82%
侍女Bの興奮値:79%
「何かあったか」と声をかけると、二人が顔を見合わせた。
「あ、の……クオン・レン様は、まだご存じではないのですか」
「ご存じじゃないから聞いている」
「姫殿下が……部屋から出られたそうで」
俺は少し間を置いた。
「それだけで城内がこんなに騒がしいのか」
「は、はい。姫殿下が部屋を出られたのは、もう何年も前のことで……城の者はほとんど、お顔を見たことがないくらいで……」
なるほど。
城内にとってはそれだけ異例なことなのだろう。
「どこへ向かった」
「わかりません。あの……北棟の方角だと聞いていますが」
北棟。
昨日、トワに近づくなと言われた方角だ。
俺は侍女たちに礼を言って、北棟へ向かった。
北棟の廊下は、東側より薄暗い。
窓が少ない。石の壁がひんやりとしている。足音が響く。
廊下の奥から、かすかに何かの音がした。
足音だ。でも普通の歩き方ではない。ゆっくり、おそるおそる、一歩ずつ確かめるような歩き方。
角を曲がった。
廊下の先に、人がいた。
最初は、絵かと思った。
淡い金髪が、窓から差し込む光を受けて白く輝いている。背が高くはないが、姿勢がいい。白い長衣をまとっていて、廊下の石の壁の色と合わさって、どこか現実感がない。
顔が見えた。
普通にしていれば、という表現が頭に浮かんだが、普通にしていなくても顔面の偏差値は相当高い。目が床を向いて、両手が長衣の裾をぎゅっと握っている。唇が薄く開いて、また閉じた。今にも消えてしまいそうな顔をしている。
頭の中に数字が浮かぶ。
恐怖値:91%
外出継続意志:34%
……34%か。今にも引き返しそうだ。
俺が立ち止まったのと、向こうが顔を上げたのが、ほぼ同時だった。
目が合った。
一秒。
ぱっ、と少女が身を翻した。
来た方向に走り始める。いや、走るというより、脱兎のごとく消えていく。長衣の裾がふわりと翻って、廊下の角に消えた。
足音が遠ざかっていく。
……速い。
頭の中の数字が、消えた。
俺はしばらく、少女が消えた廊下の角を眺めていた。
あれが、イリナ・ソーニャ・ドレツァか。
引きこもりの王女。
城内の誰も顔を知らない、ドレツァの切り札。
背後から声がした。
「お会いになりましたか」
振り返ると、トワが立っていた。いつの間に来たのか、気配がなかった。
「ああ。一秒で逃げた」
「それは……まあ、仕方ないですね。殿下にとっては、見知らぬ男性が廊下にいるだけで相当な負荷のはずですので」
「神託記録を読んで出てきたのか」
「おそらく。昨日の暴走は神官が国王に報告しています。記録として起こされたものが、夜のうちに城内に出回ったようで」
「早いな」
「あれだけの騒ぎでしたから。止めようもなかったと思います。殿下は……城内の情報を集める手段を、部屋の中でいくつか持っているようなので」
俺の神託の記録。
暴走した自動書記の記録を、イリナは読んだ。
「何を考えて出てきたんだろうな」
独り言のつもりだったが、トワが答えた。
「さあ。ただ、引きこもりの方が何年も出なかった部屋から出る動機というのは、そうそうあるものではありませんよ」
「会いに来た、ということか」
「どうでしょうね」とトワが笑う。「でも、出てきたのは事実です」
頭の中に数字が浮かぼうとして、また消えた。
距離が遠すぎるせいか、それとも壁の向こうにいるせいか。
さっきの、廊下の角を曲がるときの長衣の裾が、なぜかまだ目に残っていた。
「どう動くつもりですか」とトワが聞く。
「部屋の前に行く」
「今日ですか」
「ああ」
トワが少し考える顔をした。「強引にはしないでくださいよ」
「するつもりはない」
俺は北棟の廊下を見た。
薄暗い石の廊下。足音ひとつ残っていない。
ただ、さっきまで誰かがいた気配だけが、まだかすかにそこにあった。




