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引きこもり天才姫は俺にしか懐かない〜存在しない者が、一人の姫の一生を見届ける〜  作者: アルコール吸引マシン5号
序章 扉が開くまで

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第五話 何百年分の話

「私には、娘がいました」


トワが静かに言った。



場所を移したのは、城の東側にある小さな中庭だ。

石造りのベンチが二つ、向かい合って置かれている。人の気配はない。午後の光が石畳の上に落ちて、静かに揺れている。


トワはベンチに腰を下ろしたまま、しばらく何も言わなかった。

俺も急かさなかった。


頭の中に数字が浮かぶ。


トワの……数字が、出ない。


さっきから何度か見ているが、数字がうまく形をなさない。霞がかかったようにぼやけて、すぐ消える。この能力が機能しない相手が存在するとは思っていなかった。


「一つ、先に話しておくことがあります」


「なんだ」


「私の神託済み能力は二つです。異世界移転と、長命」


「長命」


「数千年、生きています」


俺はトワを見た。童顔で小柄で、二十代前半にしか見えない。

数千年。その言葉と、目の前の顔が、うまく結びつかない。


「……それを先に言え」


「すみません。順序が前後しました」


「娘がいました」ともう一度、トワが繰り返した。「近隣の大国に嫁ぎました。でもその国が攻められて、亡国になった」


「……それで」


「追手が来る前に、娘を異世界に逃がしました。私の能力を使って」


俺は黙って聞いた。


「娘には子供がいました。でも二人同時の移送は難しかった。次元をまたぐ移送は、荷が重いほど負荷が大きくなる。二人を同時に送ることができなかった」


「バラバラになった」


「はい」


トワが膝の上で手を組む。その手が、かすかに動いた。


「娘は別の異世界へ。子供は……地球に飛ばされた。私が意図した行き先ではなかった」


「地球に」


「異世界と地球では、時間軸そのものが別物です。流れる速さが違うのではなく、時間の在り方が根本的に異なる。しかも移送は狙った時間に飛べるわけではない。行ける時間というのが限られていて、その中から探すしかなかった」


俺はその言葉を頭の中で整理した。

いつの時代にいるかもわからない。行ける時間も選べない。


「お前が探していたのは」


「孫です」とトワが言った。「広大な砂漠の中から砂金を一粒探すようなものでした。膨大な時間の中を、行ける場所と時間を一つずつ当たって」


風が吹いた。

石畳の上に、木の葉が一枚舞い落ちる。


「見つかったのは奇跡でした」


トワの声が、わずかに揺れた。


「橘という政治家に目をつけられて、職を失って、夜の路地裏をさまよっているところをようやく見つけた。いやー探しましたよ、久遠さん、と言ったとき、あれは本当のことです。笑える話ではなかったんですが、笑わないと……少し、こちらが参ってしまいそうで」


「……お前が俺の祖母だということか」


「はい」


俺はしばらく、何も言わなかった。


祖母。

その言葉を、俺は生まれてから一度も使ったことがない。家族という概念が最初からなかった。施設で育って、一人で生きてきた。


「信じるかどうかは、久遠さんにお任せします」とトワが続ける。「証明できるものが今すぐあるわけではないので。ただ、神託の暴走を見て確信しました。あの書記の内容は、普通の人間には出ない。異世界人の血を引いた者だけに現れる特性です」


「それが証拠になるのか」


「状況証拠にはなります。それと……」


トワが顔を上げた。


「久遠さんの顔が、娘に少し似ています。目のあたりが」


それだけを言って、トワは視線を石畳に落とした。


俺は答えなかった。

答え方がわからなかった。怒る理由もないし、喜ぶ理由もよくわからない。ただ、何かが静かに変わったような感触だけがあった。


「母親は」


「今も探しています。娘が飛んだ先の次元がわかっていない。こちらとは別の異世界にいるはずですが……まだ見つかっていません」


「……そうか」


「ごめんなさい」


トワが、小さく言った。


「何百年もかかって、レンさんを見つけたときには、もうレンさんは大人になっていた。お母さんのことも、私のことも、何も知らないまま」


「謝ることじゃない」


「でも」


「謝ることじゃない」


俺はもう一度、同じ言葉を繰り返した。

トワが黙った。


空が少しだけ傾いている。午後の光が、さっきより長い影を作っている。


「一つだけ確認する」


「はい」


「お前が俺をここに連れてきたのは、祖母だからか。それとも仕事上の判断か」


トワが少し考える顔をした。


「両方です」と、正直に言った。「久遠さんの能力はイリナ殿下に必要だと判断しました。でも……見つけたなら、会いたかった。孫に」


頭の中に数字が浮かぼうとして、また霞んで消えた。


「……わかった」


それ以上は何も言わなかった。

言う必要がなかった。



城の北棟、三階。


俺が中庭を出たあと、その部屋では灯りがついていた。


積み上げられた書物の山。羊皮紙の束。文献室から運び込まれた記録が、部屋の床を埋め尽くしている。


その中央に、一人の少女が座っている。


銀がかった淡い金髪が、灯りの中でかすかに光っている。膝の上に分厚い記録を広げたまま、ひどく真剣な顔で読んでいる。


頁をめくる音が、静かな部屋に響く。


記録の表題は古い言語で書かれている。読める者はほとんどいない。でも彼女には読めた。引きこもりの部屋の中で、何年もかけて独学したすべての言語で、今その記録を読んでいた。


神託の暴走記録。


城の文献室の奥に眠っていた、誰も手に取らなかった古い記録。


読み進めるにつれて、少女の表情が変わっていった。眉が少し寄る。唇をきゅっと結ぶ。ページをめくる手が、一瞬だけ止まる。


やがて、最後のページを閉じた。


部屋の中が静かだった。


少女はしばらく動かなかった。膝の上の記録を、じっと見下ろしていた。


それから、ゆっくりと立ち上がった。


扉の方を見る。

何年も開けていない扉を。


小さく息を吸う。


「……会いに行く」


誰にも聞こえない声で、そう言った。

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