第三十三話 姫の値段
草稿が完成したのは、会談から五日後の夜だった。
「……できた」
扉の向こうから、かすかに声がした。
「確認する」
「……うん」
隙間から紙が差し出された。
俺は廊下の灯りの下で読んだ。
前文、目的宣言、軍事的中立の定義、通商条項、相互依存条項、段階的逓減料率の計算式、セーフガード条項、批准プロセスの規定、附則。
三十二頁。
読み終わるのに二十分かかった。
「どうだった」
「完璧だ」
「……本当に?」
「バルタンに精査させる必要があるが、骨格として完璧だ。法的な拘束力を持たせるための条文構造になっている。批准プロセスの規定も三国の制度に合わせて書き分けられている」
「……ガルディアの批准は皇帝の裁可と元老院の承認が必要。ヴァルテ連合は連合議会の三分の二以上の賛成が必要。ドレツァは国王承認と貴族合議が必要。それぞれ別の条項にした」
「正しい。三つの批准条項を一本化しようとすると、どこかの国内法と矛盾が生じる。個別に規定する方が正確だ」
「……やっぱり。一本化しようとして、三度書き直した」
「そうか」
「……疲れた」
「よく仕上げた」
「……レンに褒めてもらうとなんか、変な感じがする」
「なぜだ」
「……うれしいのに、照れる感じがして。うまく受け取れない」
「慣れろ」
「……慣れるものなの、そういうの」
「慣れる」
「……レンって褒めるの上手くないのに、慣れろって言うんだね」
「上手くないのか」
「……短くて事務的で。でも、なんかちゃんと届くんだよね。不思議」
「それでいいなら問題ない」
「……うん。問題ない」
扉の向こうで、ぱたぱたという音がした。書き物をまとめているのだろう。
「明日、バルタンに渡す。精査に三日ほどかかるとして、修正があれば対応する。その後、シャルロフ経由でガルディアに送る」
「……ドルドフ将軍の謁見は来週だっけ」
「明後日だ」
「……え、早い」
「予定が繰り上がった。マルクから今日の夕方に入った」
「……それ、早く言って」
「草稿を仕上げることを優先した。今言っている」
「……順序がおかしい」
「草稿が完成しないと、伝えても意味がない」
「……まあ、そうだけど」
少しの間があった。
「……間に合う?」
「草稿をシャルロフに送れれば、外交局は『交渉が始まっている』という既成事実を持てる。ドルドフの謁見より先にそれが出れば、皇帝への説得材料になる」
「……送り方は」
「今夜マルクを使う。ガルディア帝都の外交局に直接届けるルートがある」
「……そんなルートがあるの」
「ある。費用はかかるが、速い」
「……そっか」とイリナが言った。「レン、また汚い仕事をしてくれてるんだ」
「仕事だ」
「……ありがとう」
「礼はいい」
「……言いたいから言う」
俺は何も言わなかった。
「……レン、一つ聞いていい」
「なんだ」
「……草稿、ちゃんとガルディアに届くかな」
「届く」
「……ドルドフが妨害してくる可能性は」
「ある。ただし、ドルドフが動けるのは帝都の中だけだ。帝都の外の情報ルートを全部押さえることはできない」
「……わかった」
「今夜は寝ろ。五日間よく動いた。明日からまた動く」
「……うん。おやすみ、レン」
「おやすみ」
扉の向こうで、灯りが消えた。
城下の「熊の爪亭」でマルクに草稿の写しを渡したのは、夜の十時を過ぎていた。
「帝都まで、何日かかる」
「最短で五日です。馬継ぎで走れば四日。ただし、費用が」
「構わない。四日で頼む」
「……わかりました。シャルロフ殿に直接届けますか」
「外交局の窓口に届ければいい。シャルロフが動いているなら、必ず手に入る」
「了解しました」
マルクが草稿を懐に入れた。
「クオンさん」
「なんだ」
「一つ、別の話があります」
「聞く」
マルクが少し声を低くした。
「今日の昼過ぎ、城下に見慣れない人間が入ってきました。三人組です。商人の格好をしていますが、荷物を持っていない。商人の格好をした別の何かです」
「ガルディアの人間か」
「断定はできませんが、可能性があります。動きを追っています。今夜中に続報が入ると思います」
俺は少し考えた。
草稿を送ることを嗅ぎつけられた可能性がある。あるいは別の目的があるか。
「見失うな」
「はい」
「何か動いたらすぐに連絡してくれ」
「わかりました」
酒場を出て、城に戻る道を歩きながら、頭の中で状況を整理した。
草稿は今夜送り出した。四日後には帝都に届く。
ドルドフの謁見は明後日。
タイミングが悪い。草稿が届く前に謁見が行われる。
ただし、草稿が存在するという事実は、シャルロフが帝都で動いている間に伝わる可能性がある。シャルロフが人づてに伝えれば、謁見の前に皇帝の耳に入るかもしれない。
あるいは、入らないかもしれない。
ドルドフが謁見で先手を取った場合、状況が変わる。
その場合の対応を考えておく必要があった。
翌朝。
扉の前に座ると、すぐに声がした。
「レン、おはよう」
「おはよう」
「……よく眠れた。五日ぶりにぐっすり眠れた気がする」
「そうか」
「……草稿、送れた?」
「昨夜送り出した。四日後に帝都に届く」
「……よかった」
少しの間があった。
「……ねえ、レン」
「なんだ」
「……今日、何かある?」
「バルタンとの精査作業が午後に入っている。午前中は自由だ」
「……自由って、久しぶりだ」
「ゆっくりしろ」
「……うん。でも、ちょっと外に出てもいい?」
「体は問題ないか」
「……うん。昨日から回復してる。頭も軽くなった」
「中庭まで、一人で出られるか」
「……試してみたい」
「一人でか」
「……レンが見ていてくれれば、一人で歩いてみたい」
俺は少し考えた。
一人で歩く練習は、以前から段階的にやってきた。今の状態なら、中庭まで一人で行ける可能性は高い。
「わかった。廊下で待っている」
「……うん」
扉が開いた。
今日のイリナは薄い灰色の長衣だ。窓からの朝の光を受けて、銀がかった金髪が少し輝いている。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの恐怖値:31%
三十一。シャルロフとの会談前は八十九だった。
「……行ってみる」
「ああ」
イリナが廊下を歩き始めた。
俺は少し後ろで、距離を置いて歩いた。
廊下を曲がるたびに、イリナの肩が少し揺れる。使用人とすれ違うたびに、目線が少し下がる。でも、足は止まらない。
中庭まで出た。
石畳。噴水。朝の光が全体に降り注いでいる。
イリナが立ち止まって、空を見上げた。
「……晴れてる」
「晴れている」
「……いい天気だね」
「ああ」
「……なんか」とイリナが言った。「……一人で来られた」
「来られた」
「……一人でって、変な感じがする。レンがいるのに一人って言ってるのが変だけど」
「俺は後ろにいただけだ。歩いたのはお前だ」
「……そっか」
イリナが噴水の縁に手を置いた。水面を見ている。
「……ねえ、レン」
「なんだ」
「……条約、本当にうまくいくと思う?」
「わからない。でも、できることはやった」
「……ドルドフが邪魔してきたら」
「対応する」
「……どうやって」
「ドルドフが動ける範囲は限られている。帝都の中だけだ。草稿が届いてシャルロフが動けば、ドルドフの手の届かないところで話が進む」
「……シャルロフを信頼してる」
「信頼している。コルハットの件でつまずいたが、本物の外交官だ。ドレツァとの条約を成立させることが自分の仕事の証明になると、あの人はわかっている」
「……わかった」
少しの間があった。
「……わたし、今とても平和な気持ちがする」
「そうか」
「……草稿を出した後って、こんな気持ちになるんだね。なんか、空っぽだけど穏やかな感じ」
「やり切った後の感覚だ」
「……うん。よかった。これが正常な感覚なのかな」
「正常だ」
「……そっか」
噴水の水が、朝の光を受けてきらきらしている。
イリナがしばらくそれを見ていた。
午後、バルタンとの精査作業は三時間かかった。
バルタンは財務の専門家だ。数字の部分を全て確認し、段階的逓減料率の計算式に修正案を出してきた。
「……殿下、この逓減率の設定ですが、基準値を年間五万タレル相当の物流量に設定した場合、ガルディアにとっての損益分岐点が条約発効後七年になります。これは少し長い。五年以内に損益分岐を設定しないと、ガルディアにとっての条約維持のインセンティブが弱くなります」
「……基準値を三万タレルに下げればいいですね」
「その場合、ドレツァの手数料収入が最初の二年間で約十二%減少します」
「……南部三州の農業振興補助金を段階的に削減することで補填できます。農機具の輸入コストが下がるので、補助金の必要性自体が減るはずです」
「……なるほど。それなら筋が通ります」
頭の中に数字が浮かぶ。
バルタンの本心:62%
打算:38%
本心が打算を大きく上回っている。昨日の100%からの変化が定着している。
「もう一点。セーフガード条項の発動基準ですが、年間三件という国境紛争の件数は、恣意的に件数を操作される可能性があります。より客観的な指標を入れた方がいい」
「……国境付近の駐留兵数が通常時の一・五倍を超えた場合、または国際機関による緊張度指数が警戒ラインを超えた場合、を追加しましょう。件数だけでなく、軍事的規模による発動基準を設ける」
バルタンが少し目を細めた。
「……殿下、それは私が次に言おうとしていたことです」
「……先に気づいていました」
「なぜ言わなかったのですか」
「……バルタン殿に気づいていただいた方が、条項の信頼性が高まると思いました。わたしが一人で決めた条項より、バルタン殿が検討した上で合意した条項の方が、後から国内で反論が出にくい」
バルタンが少し間を置いた。
頭の中に数字が動く。
バルタンの本心:62%→71%
また上がった。
「……殿下」とバルタンが言った。「私は長年、城内の政治を仕切ってきたつもりでおりました」
「はい」
「殿下が動かれるまで、自分がこの城で一番状況を把握していると思っていた」
「……そうでしたか」
「今は、そう思っていません」
イリナが少し間を置いた。
「……バルタン殿は、これからもわたしに協力してくれますか」
「殿下の方向が正しいと判断できる限り、全力で」
「……方向が正しいかどうかは、どうやって判断しますか」
「ドレツァの利益になるかどうかです。私は財務統括として、この国が生き残ることに責任があります。殿下の動きはその方向と一致している」
「……わかりました。よろしくお願いします」
精査作業が終わり、バルタンが退出した。
俺は廊下に出た。
扉を閉める前に、イリナが声をかけてきた。
「……レン」
「なんだ」
「……バルタン、変わったね」
「変わった」
「……最初、怖い人だと思ってた」
「そうだったな」
「……今は、信頼できる人だと思う。まだ全部は信頼できないけど、少しずつ」
「それでいい。全部を信頼する必要はない。適切な距離を保てればいい」
「……適切な距離」
「バルタンはドレツァの財務統括として動いている。その範囲内では信頼できる。ただし、自分の利益が脅かされたときに何をするかは、まだわからない」
「……そこまで考えてるんだ」
「考えておく必要がある」
「……レンって、誰かを完全に信頼することってあるの」
俺は少し考えた。
「ある」
「……誰を」
「お前だ」
イリナが少し間を置いた。
「……えっ」
「お前の知識と判断力は信頼している」
「……それって、人間として信頼してるのとは違うじゃん」
「人間としても信頼している」
「……どういうところが」
「動く理由を自分で見つけられた。怖くても止まらない。使った疲れと使わない疲れの違いを知っている。そういう人間は信頼できる」
長い間があった。
「……なんか、うれしいけど、照れる」
「また慣れろ」
「……さっきも同じこと言ってた」
「事実だから繰り返す」
イリナが少し笑う気配がした。
「……ありがとう、レン」
「ああ」
扉が閉まった。
夜、マルクから連絡が来た。
「見慣れない三人組の件です。一人が城内の商人と接触しているところを確認しました。渡していたのは書状のようなものです」
「城内の誰と接触した」
「……ガルダ殿の関係者です。儀典担当の書記官と接触していました」
俺は少し考えた。
ガルダ。慎重派で様子見をしていた男だ。動くのが遅いと思っていたが、別のルートで動き始めていたのか。
「書状の内容は」
「確認できていません。ただ、接触の後、書記官が急ぎ足でガルダ殿の執務室に向かうのを目撃しています」
「ガルダは今夜何をしている」
「執務室にまだ灯りがついています」
「見張りを続けてくれ。明朝、動きがあれば知らせてほしい」
「わかりました」
連絡を切って、廊下に戻った。
扉の前に座った。
灯りが見える。イリナはまだ起きている。
「起きているか」
「……うん。何かあった?」
「少し話がある」
「……入ってきていい」
扉を開けた。
イリナが椅子に座って本を読んでいた。膝の上に三冊積んである。草稿が完成した後も、まだ読んでいる。
「ガルダが動き始めた可能性がある」
「……ガルダが? 慎重派なのに」
「城下に見慣れない人間が来ていた。ガルダの書記官に書状を渡した。ガルダは今夜、執務室にいる」
「……書状の内容は」
「わかっていない。明朝確認する」
「……ガルダが誰から書状を受け取ったと思う」
「ガルディアの可能性が高い。商人の格好をしていたが荷物を持っていなかった、という話だ」
「……ガルディアがガルダに直接アプローチした」
「可能性がある」
イリナが少し考えた。
「……ガルダは儀典担当だ。条約の締結式に関わる立場。ガルディアがガルダを通じて、締結式の手続きに介入しようとしているのかもしれない」
「それは俺も考えた」
「……あるいは」
「なんだ」
「……ガルダがガルディアに情報を売っている可能性もある。わたしたちの動きを」
俺は少し間を置いた。
「ある。ただし、売れる情報があるとすれば、草稿の内容だ。草稿はバルタンしか見ていない」
「……バルタンは?」
「バルタンは変わった。ガルディアに情報を売る動機が今の状態では薄い」
「……じゃあ、ガルダが知っているのは公開された情報だけ」
「シャルロフとの会談内容は城内に広まっている。ターランとヴォルが動いたことも知られている。ガルダが売れる情報は、その程度だ」
「……問題ない?」
「今の段階では、大きな問題ではない。ただし、ガルダの動きは注視する必要がある」
イリナが少し息をついた。
「……次々といろんなことが起きるね」
「そうだ」
「……疲れる」
「疲れていい。でも止まるな」
「……止まらない。ただ、疲れるって言いたかっただけ」
「わかった」
「……レンって、疲れないの」
「疲れる」
「……今疲れてる?」
「少し」
「……なんか、それ聞いてちょっと安心した」
「なぜだ」
「……レンも疲れるんだって思って」
「当然疲れる」
「……なんか、当然って言われると、なんか、うれしい」
俺は何も言わなかった。
「……おやすみ、レン。明日また何かあったら教えて」
「おやすみ」
扉が閉まった。
翌朝、マルクからの続報が入った。
俺は廊下の角でマルクの使いから書状を受け取った。
内容を読んだ。
一度、読み直した。
それから、イリナの部屋に向かった。
「起きているか」
「……うん、おはよう」
「話がある」
「……どうぞ」
「昨夜、ガルダがガルディアの人間と接触した件の続報が入った」
「……なに?」
「ガルディアが、ドレツァ国内に条約反対派を作ろうとしている。金を使って貴族を動かそうとしている。ガルダはその連絡役として動いている可能性がある」
「……条約反対派」
「友好通商条約が成立すると困る国内勢力を作る、ということだ。ドルドフが帝都で外交局を牽制している間に、ドレツァ国内から条約を潰しにかかる作戦だ」
扉の向こうで、しばらく何も聞こえなかった。
「……それ、ドルドフが考えた?」
「わからない。ドルドフか、あるいは別の強硬派か。いずれにしても、帝都とドレツァの両面から条約を潰しにかかっている」
「……どの貴族が動くと思う」
「ガルダの周辺と、もともとガルディア寄りだった一部の貴族だ。バルタン、ターラン、ヴォルは動かないと思う。三人とも条約に利益がある」
「……ガルダは何枚くらい動かせる?」
「三から五人の範囲だと思う。それ以上は難しい。多くの貴族はすでに条約に賛成の立場か中立だ」
「……三から五人でも、国内で大きな声を上げられたら厄介だよ」
「そうだ」
「……どうする」
「先手を打つ。ガルダが動く前に、ガルダの動機を潰す」
「……どうやって」
「ガルダにとっての利益を作る。ガルディアから受け取る金より大きな利益を、条約が成立した側に置く」
「……ガルダは儀典担当だから、条約締結式の主導権が利益になる」
「そうだ。締結式の設計をガルダに任せると伝える。ガルダにとって、条約が成立した方が大きな仕事が手に入る。それを今日中に伝えれば、ガルディアからの接触より先に動機を切り替えられる」
「……でも、わたしがガルダに会いに行く必要がある」
「そうだ」
「……わかった。今日の午後に入れて」
「今日のガルダとの面談、難しいと思うか」
「……一番難しいと思う」
「なぜだ」
「……ガルダはガルディアと接触した後だから、疑っている状態でわたしと会う。こっちがガルダの動きを知っていることを悟られてはいけない。知らないふりをしながら、利益を提示する。そのバランスが難しい」
「正確な分析だ」
「……怖いな」
「怖くていい」
「……恐怖値、何パーセント?」
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの恐怖値:48%
「48%だ」
「……シャルロフとの会談の前は89%だったのに」
「半分以下になった」
「……下がってるんだ」
「下がり続けている」
「……それ聞いて、少し安心した。じゃあ、やれる」
「やれる」
「……うん」
ガルダとの面談は、午後二時に入れた。
俺はいつも通り、廊下で待機した。
扉の向こうで、声が始まった。
「セイン・ガルダ殿、お時間をいただきありがとうございます」
「殿下、光栄でございます」
ガルダ。五十代後半、小柄で丸い顔。儀典の専門家らしく、動作が丁寧だ。
頭の中に数字が流れる。
ガルダの警戒値:67%
探り度:81%
打算:74%
警戒が高い。やはり何かを知っていて、こちらの意図を探っている。
「友好通商条約の締結について、ガルダ殿に相談があります」
「はい」
「条約が成立した際の締結式の設計を、ガルダ殿に主導していただきたいのです」
「……締結式の設計、でございますか」
「三国が関わる条約の締結式は、前例がありません。ドレツァ、ガルディア、ヴァルテ連合の三者が同席する儀典の設計は、非常に複雑な作業になります。儀典の専門家でなければ設計できない」
「……それは、そうでございますが」
「ガルダ殿のご専門は儀典です。このような規模の締結式の設計は、城内でガルダ殿以外にはできません。ガルダ殿に主導していただければ、この条約はドレツァの歴史に残る外交の証として後世に伝わります」
扉の向こうで、しばらく沈黙があった。
頭の中に数字が動く。
ガルダの警戒値:67%→51%
打算:74%→68%
関心値:新規出現 43%
警戒が下がり始めた。
「……殿下は、私に締結式の全権を任せると?」
「儀典に関してはガルダ殿の判断を最優先します。三国の代表が集まる場の格式を、ガルダ殿に設計していただきたい」
「……それは、大変光栄なお話です。ただ、条約が本当に成立するかどうかは、まだわからないのでは」
「そのために動いています。草稿は既に完成しています。バルタン殿の精査も終わりました。あとはガルディア側の批准プロセスを待つだけです」
「……草稿が完成しているのですか」
「はい。三十二頁になりました。今夜にでもご覧いただけます」
ガルダが少し間を置いた。
頭の中に数字が動く。
ガルダの評価変動:「様子見」→「参加を検討中」
打算:68%→52%
本心:新規出現 31%
「……殿下、一つだけ確認させてください」
「どうぞ」
「私のような、これまで動きの少なかった者に、なぜ声をかけてくださるのですか」
少しの間があった。
「……ガルダ殿が慎重な方だと知っているからです」
「慎重、というのは」
「一度決めたことをきちんとやり遂げる方だと思っています。儀典の仕事は、一度設計したら最後まで丁寧に執行しなければならない。その仕事には、慎重さが必要です」
ガルダがまた少し間を置いた。
頭の中に数字が出た。
ガルダの本心:52%
本心が打算を超えた。
「……わかりました。条約が成立した際には、喜んでお引き受けします」
「ありがとうございます」
「ただし」とガルダが続けた。「条約が成立するかどうかについて、殿下はどのくらい確信を持っていらっしゃいますか」
イリナが少し間を置いた。
「……かなり、確信しています」
「根拠を聞かせていただけますか」
「三者全員に利益がある構造になっているからです。ガルディアにとっても、ヴァルテ連合にとっても、ドレツァにとっても、条約が成立した方が成立しないよりいい。そういう条約は、最終的に成立します」
「……そのような条約を、どうやって作るのですか」
「相手が何を欲しがっているかを把握して、全員が得をする形を探します。難しいですが、不可能ではありません」
「……殿下は」とガルダが言った。「ずっと部屋にいらっしゃったのに、なぜそれができるのですか」
「……ずっと部屋で読んでいたからです」
短く、静かに。
面談が終わった。
ガルダが廊下に出た。俺と目が合った。
一瞬、ガルダが止まった。
「……クオン・レン殿」
「はい」
「殿下は、本当に変わられましたね」
「元から、ああいう方です」
ガルダが少し目を細めた。
「……そうですね。私が見ていなかっただけです」
廊下を歩いていった。
夕方、俺は扉の前に座った。
「面談、お疲れ様だった」
「……疲れた。でも、うまくいったと思う」
「うまくいった。ガルダの動機が切り替わった」
「……面談の前から、ガルダとガルディアの接触のこと、もっと詳しく知ってたんでしょ」
「知っていた」
「……なんで全部教えなかった」
「知らないまま面談に臨んだ方が、自然な反応ができると思った」
「……またそういうことをする」
「結果はどうだった」
「……うまくいった」
「だろう」
「……でも、なんか気持ちが悪い」
「どういう意味だ」
「……レンが知ってることを、わたしが知らないまま動かされてた気がして」
俺は少し間を置いた。
「そうだ。俺は情報を選んでお前に渡している」
「……全部教えてくれないの」
「全部教えると、先入観が入る。お前の分析の純粋さが失われる」
「……でも、それってわたしを操作してることと、どう違うの」
昔と同じ問いだ。
「違いは、俺の目的がお前の利益になるかどうかだ」
「……その判断は、レンがするの」
「最終的には、そうなる」
「……それが気持ち悪い」とイリナが言った。声は穏やかだった。責めているわけではない。「……信頼してるから大丈夫だけど。でも、ちょっと気持ち悪い」
「わかった」
「……わかった、で終わり?」
「今すぐ変えられる部分と、変えられない部分がある。変えられる部分は変える。変えられない部分は話し合いながら続ける」
「……話し合いながら」
「お前が納得できない部分があれば言ってくれ。考える」
少しの間があった。
「……それでいい」
「わかった」
「……レン」
「なんだ」
「……今日、マルクからまた何か入ってる?」
「まだ入っていない」
「……ガルディアの別の手について、何か考えてる?」
「考えている」
「……どんな手だと思う」
「ガルダを通じた条約反対工作が今日の面談で封じられた。次の手があるとすれば——」
「——わたしの値段を上げてくる」
イリナが先に言った。
俺は少し止まった。
「どういう意味だ」
「……条約の邪魔をするより、わたしを直接手に入れる方が早いって考え方に戻ってくる。婚姻打診が最初の手だったけど、それは断られた。でも、値段を上げれば別の形で取引できると思うかもしれない」
「値段を上げる、とは」
「……わたしの軍事的な価値を国内外に広めることで、ドレツァがわたしを差し出すことへのインセンティブを高める。あるいは、わたしを保護するコストが高くなりすぎると思わせる」
俺は少し考えた。
精確な読みだ。
「……なんか、気持ち悪いな」
「なぜだ」
「……自分の値段が上がる、って言葉を使うの。わたしはモノじゃないのに、値段って言葉を使わないと表現できない」
「……そうだな」
「……でも、そういう目で見られてるってこと、知ってるよ。神託が出てから、ずっとそうだった。みんな、わたしを何かだと思って近づいてくる。わたしという人間として見てくれる人は、少なかった」
「……ああ」
「……でも」とイリナが言った。「……わたしはモノじゃない」
短く、静かに。
でも、はっきりと。
「わかってる」と俺は言った。
「……レンはわかってる。最初からわかってた」
「ああ」
「……それが、一番大事だった」
扉の向こうで、ページをめくる音がした。
静かな夜が来ていた。
廊下の窓から、月明かりが差し込んでいる。
頭の中に数字が浮かんだ。
ガルディアの次の手の予測確率:値段を上げてくる 71% 別のルートで直接接触してくる 21% 撤退する 8%
71%。
イリナの読みは正しい。
次の手が来る。
でも、今夜はまだ来ない。
扉の向こうで、ページをめくる音が続いている。
イリナは今夜も本を読んでいる。
十年間そうしてきたように。
ただ、今は違う。
読んでいるのは、次の戦いのためだ。




