第三十二話 使者の報告
マルクから連絡が来たのは、夜だった。
城下の酒場「熊の爪亭」に来てほしいという伝言だ。急ぎではないが、今夜中に、とある。
俺はイリナの部屋の前に座っていた。
扉の向こうから、本をめくる音がしている。体調は昨日より回復しているようだ。午後から少し話をしていたが、声に張りが戻っていた。
「少し出る」と扉に向かって言った。
「……どこに」
「情報屋のところだ。一時間以内に戻る」
「……マルクさん?」
「ああ」
「……何かあったの」
「行ってみないとわからない。急ぎではないと言っている」
「……わかった。気をつけて」
「鍵をかけておけ」
「……かける」
「トワ以外は開けるな」
「……わかった」
南門から城を出た。
夜の城下は静かだ。石畳の路地に人影はほとんどない。遠くで犬が鳴いている。「熊の爪亭」の灯りが、路地の角に見えた。
マルクは奥の部屋で待っていた。
いつものように三人連れだが、今夜は顔つきが違う。少し浮き立っている。
「久遠さん、大きな話が入りました」
「何があった」
「ガルディアからです。シャルロフ殿の報告書の件、続報が入りまして」
俺は椅子に座った。
「話せ」
「まず、報告書の内容の一部が漏れました。帝都の外交官の間で話が広まっているようで、マルクのネットワークにも入ってきました」
「内容は」
「シャルロフ殿が報告書の中で、ドレツァとの友好通商条約を『帝国の中期的な南方戦略において最優先の交渉案件』と位置づけたようです」
俺は少し間を置いた。
最優先。
「以上か」
「いえ」とマルクが続けた。「もう一つ大きな話があります。ドルドフ将軍が動きました」
「具体的に」
「三日前、ドルドフ将軍が帝都の皇帝陛下に直接謁見を申し込みました。議題は『南方外交政策への軍の関与』です。外交局を完全に迂回して、皇帝に直接働きかけようとしています」
頭の中に数字が浮かぶ。
ガルディア情勢の緊張値:74%
外交局の焦り:81%
ドルドフの強硬度:89%
「皇帝は謁見を許可したか」
「許可しました。ただ、謁見はまだ行われていません。来週の予定だという話です」
「来週か」
「ええ。その前に外交局が動くかどうかが焦点になっています。シャルロフ殿は帝都に戻ってから精力的に動いているようで、外交局内の賛成派をまとめようとしているという話も入っています」
俺は頭の中で整理した。
シナリオが見えてくる。
ドルドフが皇帝に直接働きかける前に、外交局がドレツァとの条約を具体化させたい。条約の草稿が出来上がっていれば、皇帝への説得材料になる。ドルドフの謁見を先に行わせると、軍事派が先手を取る。
「シャルロフが動ける時間は一週間しかない」
「そうなります」とマルクが言った。「そのために、ドレツァ側に何らかのアクションを求めてくる可能性があると思いまして、今夜お知らせに上がった次第です」
「何を求めてくると思う」
「友好通商条約の草稿です。ドレツァ側が条約の具体的な文書を出せれば、シャルロフ殿は帝都で『交渉は実質的に始まっている』と主張できる。ドルドフの謁見より先に、外交局が成果を示せる」
「つまり、こちらに草稿を急いで出せという圧力がかかる」
「来るとすれば明日か明後日です」
俺は少し考えた。
草稿を出すことは計画していた。ただ、こんなに早く求められるとは思っていなかった。バルタンとの面談が終わって国内の財務的な裏付けを取ってから、という段取りだった。
「バルタンとの面談は明日だ」
「明日ですか。急いでいますね」
「状況が変わった。バルタンを明日に前倒しする必要がある」
「わかりました。何か私にできることはありますか」
「草稿の下書きに使える過去条約の文例を集めてほしい。ガルディアが過去に締結した中立条約と友好通商条約の両方。明朝までに」
マルクが少し眉を上げた。
「……明朝ですか。かなり短いですが」
「できるか」
「やります」
「頼んだ」
報酬を置いて、俺は酒場を出た。
夜の石畳を歩きながら、頭の中でスケジュールを組み直した。
明日、バルタンの面談を午前中に入れる。午後に草稿の骨子をイリナと作る。夕方までに暫定草稿を仕上げる。それをシャルロフ経由でガルディア外交局に送る。
四日で一週間分の仕事をこなす必要がある。
イリナの体力が問題だ。まだ完全には回復していない。
でも、選択肢がなかった。
城に戻ると、廊下にトワが立っていた。珍しい。夜のこの時間にトワが廊下にいることはあまりない。
「久遠さん、お帰りなさい」
「何があった」
「私にも少し前に情報が入りまして。先に知らせておこうと思って待ってました」
「ガルディアの件か」
「ええ。ドルドフ将軍の件、ご存知ですか」
「今聞いた」
「そうですか。実は私の方には別の話が入っています」
「何だ」
「ヴァルテ連合の動きです」
俺は立ち止まった。
「ヴァルテ連合が動いている?」
「ドルドフが皇帝に謁見を申し込んだという話が、どこかから漏れたようです。ヴァルテ連合の外交局が動き始めたという情報が入りました。内容はまだわかりませんが、方向性としてはガルディアの動きを牽制したいのではないかと」
「ヴァルテ連合がドレツァとの友好通商条約に興味を持ち始めた、ということか」
「可能性があります。ドレツァが中立国として機能するということは、ヴァルテ連合にとってもガルディアの南方工作を封じる意味があります。むしろ条約の成立を後押しする可能性があると思います」
「三者の利益構造が動き始めた」
「殿下の設計通りです」とトワが少し笑った。「面談の場で作った構造が、もう実際に動いている」
「早い」
「国際政治はいつもこうです。誰かが動くと、それを見た別の誰かが動く。殿下がシャルロフを動かしたことで、連鎖が始まった」
俺は少し考えた。
「イリナに今夜話すか」
「どうしますか」
「話す。明日からの動きを伝えておく必要がある」
「体調は大丈夫ですか」
「話を聞くだけなら問題ない。動くのは明日からだ」
「わかりました」とトワが言った。それから少し間を置いた。「久遠さん」
「なんだ」
「殿下が動き始めてから、城内の空気が本当に変わりました。今日、厨房の料理人が殿下のために特別に何か作ろうとしていたんですよ。いつも部屋に運ぶ食事を少し丁寧にしようとしていた」
「そうか」
「誰も頼んでいないのに。自然にそうなっていた。城内の人間が、殿下のことを、何か守りたいと思い始めている」とトワが静かに言った。「そういう気持ちが人を動かすんだ、と思いました」
俺は何も言わなかった。
「おやすみなさい、久遠さん」
トワが廊下を歩いていった。
扉の前に座った。
「戻った」
「……おかえり」
少し間があった。
「……何かあった?」
「ある。話す」
「……うん」
「ガルディアの情勢が動いている。順番に説明する」
「……聞く」
「まず、シャルロフの報告書の件。内容の一部が漏れた。シャルロフはドレツァとの友好通商条約を帝国の南方戦略の最優先案件として報告書に書いた」
「……最優先」
「そうだ。これはシャルロフが内部で動いているということを意味する。賛成派をまとめようとしている」
「……本気だ」
「本気だ。次に、ドルドフ将軍が動いた。皇帝に直接謁見を申し込んで、許可が出た。来週、謁見が行われる」
「……それは」
「外交局を迂回して皇帝に直接働きかけようとしている。議題は南方外交政策への軍の関与だ。軍事派が主導権を取ろうとしている」
「……シャルロフにとっては、それが来る前に動かないといけない」
「そうだ。来週の謁見までに、外交局が成果を示す必要がある。そのためにドレツァ側に草稿を求めてくる可能性が高い。早ければ明日か明後日だ」
「……草稿を出す準備はできてる」
「できているか」
「……骨子は頭の中にある。形にする時間が必要なだけ」
「明日のバルタンの面談を午前中に前倒しする。午後から草稿作業に入る。夕方までに暫定草稿を仕上げたい」
扉の向こうで、少しの間があった。
「……バルタンを午前中に前倒し。草稿作業が午後。夕方までに仕上げ」
「そうだ。体力的に問題があるなら言え」
「……問題ない」
「無理するな」
「……無理じゃない。それに」
少しの間があった。
「……こういう話を聞いてると、体が動く気がする。昨日より楽」
「知識が体を安定させる」
「……前も言ってたね。本当にそうだと思う。何もしてないときより、考えてるときの方が体が動く感じがする」
「お前の体はそういう仕組みになっている」
「……面白い体だね、わたし」
「面白い」
「……レン、本当に毎回素直に同意するね」
「事実だから」
「……ふふ」
扉の向こうで、小さく笑う気配がした。
「……もう一つ、聞いていい」
「なんだ」
「……ヴァルテ連合の話は」
「トワから聞いたか」
「……廊下の声が聞こえた。少しだけ」
「ヴァルテ連合がドルドフの動きを察知して、自分たちも動き始めているという情報が入った。まだ詳細はわからないが、方向性としては条約の成立を後押しする可能性がある」
「……三者の利益構造が動いてる」
「そうだ。シャルロフとの会談で設計した構造が、もう実際に機能し始めている」
「……あの会談から、まだ一週間も経ってないのに」
「ああ」
「……なんか」とイリナが言った。「……実感がない。わたしが扉の中で話したことが、帝都を動かして、ヴァルテ連合まで動かして。なんか、信じられない感じがする」
「信じろ。お前がやったことだ」
「……でも、震えてた」
「震えても動かした」
「……シャルロフが最優先って書いてくれたのが、すごく、なんか」
少しの間があった。
「……うれしかった」
「そうか」
「……あの人、わたしのことを本物の外交官だって言ってくれたでしょ。廊下でレンに」
「ああ」
「……ちゃんと伝わってたんだ、って思って。わたしがやったことが、あの人に届いてたんだ、って」
「届いていた」
「……うん」
しばらく、静かな時間が続いた。
「……レン」
「なんだ」
「……草稿、一緒に作ってくれる?」
「ああ」
「……バルタンとの面談も、外で待っていてくれる?」
「待っている」
「……ヴァルテ連合が動き始めたら、一緒に考えてくれる?」
「考える」
「……全部、一緒に?」
「全部だ」
「……わかった」
少し間があった。
「……全部、一緒にいてくれるだけで、心強い」
「そうか」
「……うん」
扉の向こうで、ページをめくる音がした。
まだ夜だ。でも、イリナは本を読み始めている。
「……草稿の文例、探しておく。ガルディアが過去に締結した中立条約、どこかに文献があるはずだから」
「マルクが明朝までに集める予定だ」
「……マルクさんと被るかもしれないけど、こっちも持っておく。多い方がいい」
「そうだ」
「……あと、ヴァルテ連合が過去にガルディアと何らかの条約を締結したことがあるかも確認しておく。三者の利益構造を条約の文面に反映させるには、先例があった方がいい」
「そこまで調べるか」
「……調べた方がいい。三者が全員納得できる条約の形を作るには、それぞれの先例を把握しておく必要がある。先例のない条約は批准プロセスで揉める」
「正しい」
「……批准ってわかる?」
「条約の正式な承認プロセスだ。各国の議会や元首が条約を正式に認める手続き」
「……そう。この条約、ガルディアは皇帝の裁可が必要。ドレツァは国王の承認と貴族合議が必要。ヴァルテ連合が関わるとしたら連合議会の承認も必要になる可能性がある。三つの批准プロセスを全部想定した条文を書かないといけない」
「そこまで考えているのか」
「……さっき言ったじゃん。骨子は頭の中にある、って」
俺は少し間を置いた。
「明日の午後、全部話せ」
「……うん。まとめておく」
「寝ろ。明日は長い一日になる」
「……もう少し」
「明日に備えろ」
「……わかった」
本をめくる音が止まった。
「……レン」
「なんだ」
「……今日の城内、何か変わったことあった?」
「厨房が殿下のための食事を丁寧に作ろうとしていた、という話をトワから聞いた」
「……え」
「誰かに頼まれたわけではない。自然にそうなったようだ」
扉の向こうで、しばらく何も聞こえなかった。
「……なんで」
「お前が動いたからだ」
「……厨房の人は、会談のこと知ってるの」
「城内全体に広まっている。下働きの者たちの間にも」
「……どんなふうに」
「『姫殿下がガルディアの使節を相手に戦った』という話になっているようだ。細部は変わっているが、お前が城のために動いたという感情は正確に伝わっている」
「……戦った、か」
「外交は別の形の戦いだ。間違いではない」
「……なんか」とイリナが言った。「……恥ずかしいな」
「なぜ」
「……震えてたのに、そんなふうに言われると」
「震えても戦ったのは事実だ。恥ずかしがることはない」
「……うん」
少しの間があった。
「……でも、うれしい」
「そうか」
「……うん。わたしがやったことを、知らない人が覚えてくれてて、なんか、すごく不思議な感じがする。部屋の中から一歩も出なかった頃は、誰もわたしのことなんか覚えてなかったのに」
「覚えていた人間はいた」
「……誰が」
「国王だ。貴族たちも、怖がりながらもお前を気にしていた」
「……それは覚えてるじゃなくて、存在を把握してるってやつだと思う」
「違いは何だ」
「……覚えてるのは、その人のことを気にかけてるってこと。存在を把握してるのは、ただ知ってるってこと」
「なるほど」
「……厨房の人は、わたしのことを気にかけてくれた。それが、初めてかもしれない」
「花を置いていった侍女もそうだ」
「……うん」
また少しの間があった。
「……レンは」
「なんだ」
「……レンはどっち?」
俺は少し考えた。
「気にかけている」
「……仕事だから?」
「仕事だから、という部分もある」
「……他には」
「それ以外の部分もある」
「……何が」
「まだうまく言えない」
「……また」とイリナが言った。声に、少し笑いが混じっている。「……また、まだうまく言えないって」
「言えるようになったら言う」
「……約束?」
「約束だ」
「……わかった」
扉の向こうで、ぎしっという音がした。
「……おやすみ、レン」
「おやすみ」
「……明日、よろしく」
「ああ」
廊下に静かな夜が続く。
俺はしばらく扉の前に座っていた。
頭の中で、明日のスケジュールを確認する。
バルタンの面談。草稿の骨子作業。シャルロフへの返答。ヴァルテ連合の動向確認。
やることは多い。
でも、一つずつやればいい。
頭の中に数字が浮かんだ。
ガルディア情勢の緊張値:74%
シャルロフの残り時間:約六日
ドルドフ謁見まで:七日前後
そして。
イリナの準備完了予測:明日の午後一時
数字が出た。
一時か。バルタンの面談を午前十時に入れれば、十分間に合う。
俺は立ち上がった。
明日の段取りを確認するために、もう少しやることがある。
廊下を歩き始めた。
城内はもう夜の静寂に包まれている。
それでも、あちこちに灯りが見えた。
文官の部屋。貴族の執務室。厨房の奥。
いつもより多い。
城が、動いている。
翌朝。
バルタンとの面談は午前十時に入れた。
イリナに連絡すると、「……わかった。準備する」と短い返事が来た。
面談が始まる三十分前、俺はマルクから届いた過去条約の文例を確認していた。
ガルディアが過去に締結した中立条約が三件。友好通商条約が七件。どれも内容が違うが、共通する構造がある。前文での目的宣言、本条項での義務の明確化、附則での細部規定、そして批准条項。
イリナが昨夜言っていた通りだ。批准プロセスを想定した構造が必要だ。
十時。
バルタンが廊下に現れた。今日は一人だ。
頭の中に数字が流れる。
バルタンの打算:83%
緊張値:47%
本心:17%
打算が下がっている。昨日まで100%だったのに。何かが変わっている。
「クオン・レン殿、殿下は」
「少し待て」と俺は言った。「その前に一つ確認がある」
バルタンが眉を上げた。
「なんでしょう」
頭の中に数字が流れる。
バルタンの打算:83%
緊張値:47%
本心:17%
打算が下がっている。昨日まで100%だったのに。顔つきも違う。
「先日と印象が変わった。何か考え方が変わりましたか」
バルタンがしばらく俺を見た。
「……変わりました」
「何が変わった」
「ターランとヴォルが動いたと聞きました。特に、ヴォルとの面談の内容が少し伝わってきました。セーフガード条項、五ヶ年計画。そこまで具体的に動いているとは思っていなかった」
「それで」
「……正直に申し上げると、私はこれまで殿下の動きを様子見していました。どうせ長続きしないと思っていた。でも」
バルタンが少し間を置いた。
「……昨夜、ガルディアの話が入ってきました。シャルロフ殿が最優先案件として報告したという話です。これは、本物だと思いました」
「そうか」
「……殿下に会わせていただけますか」
「今日の面談は最初から予定していた。変わらない。ただ、一つだけ言っておく」
「はい」
「バルタン殿は財務統括だ。条約の経済的な数字を精査する役割がある。今日は骨格の話だけする。細部は後で詰める。それで構わないか」
バルタンが少し考えた。
頭の中に数字が動く。
バルタンの打算:83%→71%
納得値:43%
「……わかりました。骨格から始めましょう」
扉をノックした。
「バルタン殿が来た」
「……入ってもらって」
扉を開けた。
今日のイリナは、白い長衣だ。椅子に座っている。姿勢は少し固い。でも、足は震えていない。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの恐怖値:43%
準備値:87%
恐怖値が下がっている。先週のバルタンとの廊下でのやりとりのときは、もっと高かったはずだ。
「バルタン殿」とイリナが言った。声は少し小さいが、揺れていない。「お時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ、殿下」とバルタンが言った。
確率表示に変化が出た。
バルタンの本心:19%
17%から上がった。
少しずつ、本物の部分が出てきている。
面談は四十分かかった。
イリナがバルタンに見せた情報は、友好通商条約の経済的メリットの骨格だけだ。ガルディアとの交易量の試算。手数料収入の変化。農機具の輸入コスト削減効果。軍事費の削減見込み。
数字を並べると、バルタンの表情が変わっていく。
財務統括として、数字が語る説得力を理解している。
「……南部三州の農業生産量が一割増えれば、関連税収だけで年間二万タレルの増収になります。この試算は保守的ですが」
「保守的ですね」とバルタンが言った。「私の見立てでは、三割は見込める」
「バルタン殿の試算の方が精度が高い。詳細なデータを持っていらっしゃるから」
バルタンが少し目を細めた。
頭の中に数字が動く。
バルタンの本心:19%→31%
「……殿下は、私のデータを知っていらっしゃる?」
「城の財務書類は一通り読みました。バルタン殿の担当期間の分も含めて」
バルタンが少し間を置いた。
「……十五年分ほどあります」
「ええ」
「……全部、ですか」
「全部ではありません。主要な部分を」
「……どの程度の精度で」
「年次ごとの収支の傾向と、主要な変動要因を把握している程度です。細部については、バルタン殿の方がはるかに詳しい」
バルタンがしばらくイリナを見た。
「……なぜ、財務書類を」
「ドレツァが生き残るためには、財政の実態を把握する必要があると思っていました」
「殿下が部屋にいらした間に」
「そうです。動けなかったから、読むことしかできなかった」
バルタンの確率表示が、また動いた。
バルタンの打算:71%→58%
本心:31%→44%
打算が下がって、本心が上がっている。
俺は廊下に立ったまま、それを確認していた。
扉は少し開いていた。俺はそこで待機している。必要があれば中に入る。今は必要ない。
「殿下」とバルタンが言った。声のトーンが変わっていた。「一つだけ、個人的なことをお聞きしてよろしいですか」
「どうぞ」
「……今まで、なぜ動かなかったのですか」
部屋が少し静かになった。
「怖かったのです」とイリナが言った。
「何が」
「人の目が変わることが。神託が出たあの日から、みんなの目が変わった。わたしを人間として見るのではなく、何かとして見る目に変わった。その目が怖かった」
「……なるほど」
「バルタン殿の目も、最初はそういう目でした」
バルタンが少し口をつぐんだ。
「……そうでしたね。申し訳ありませんでした」
「謝らないでください。仕方のないことです。わたしが見えていなかっただけです」
「見えていなかった、というのは」
「部屋から出なければ、見てもらえません。見てもらうためには出ないといけない。でも、出るのが怖かった。その循環がずっと続いていました」
バルタンがしばらく黙っていた。
「……今は怖くないのですか」
「怖いです」とイリナが言った。「今も震えています」
バルタンが少し目を細めた。
「……見えません」
「震えているのは、足の方です。バルタン殿からは見えない位置にあります」
少し間があった。
「……そうですか」
バルタンがゆっくりと立ち上がった。
頭の中に確率表示が出た。
バルタンの打算:58%→41%
本心:44%→59%
本心が打算を超えた。初めてだ。
「殿下」とバルタンが言った。「骨格について、賛成いたします。細部の精査は私が担当しましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、一つ条件があります」
「なんでしょう」
「細部を詰める際には、必ず私を通してください。財務の観点から見落としがあれば、条約が批准された後に問題になります」
「もちろんです。バルタン殿の専門知識がなければ、草稿の精度が下がります」
バルタンが少し頷いた。
「……わかりました」
面談が終わった。
バルタンが廊下に出た。俺と目が合った。
「クオン・レン殿」
「はい」
バルタンが少し間を置いた。
「……殿下は、本物ですね」
「そうだ」
「これまで、様々な人間が殿下に接触しようとしていた。私もその一人でした。でも」
「でも」
「誰も、殿下のことを本当に見ていなかった。私を含めて」
「そうだ」
バルタンがしばらく俺を見た。
「……毎日扉の前に座るだけで、見ていたことになる。見るというのは、そういうことです」
バルタンが静かに廊下を歩いていった。
俺はしばらく、廊下に立っていた。
部屋に顔を向けた。
「終わったか」
「……うん。思ったより早かった」
「バルタンが変わっていた」
「……わかった。途中から目が変わった」
「確率表示に出ていた。打算が下がって、本心が上がった」
「……なんで変わったんだろう」
「財務書類を読んでいたという話をしたとき、だと思う」
「……それが琴線に触れたのかな」
「バルタンは財務の仕事に誇りを持っている。その領域について、殿下がちゃんと理解していると知った。それで変わった」
「……なるほど」
少しの間があった。
「……レン」
「なんだ」
「……足、震えてた。見えてたよね」
「見えていた」
「……バルタン殿には見えないって言ったけど」
「嘘ではない。バルタンの目線からは見えない位置にあった」
「……でも、レンには見えてた」
「ああ」
「……でも、止まらなかった」
「止まらなかった」
「……また、止まらなかった」
「また、止まらなかった」
イリナが少し間を置いた。
「……なんか、そのセリフを言うたびに、少し強くなってる気がする」
「実際に強くなっている」
「……本当に?」
「本当だ。恐怖値が下がっている。面談のたびに、少しずつ下がる」
「……数字に出てるの」
「出ている」
「……見せてくれないの?」
「今は43%だ」
「……43%」
「会談のときは89%だった」
「……半分近くになってる」
「そうだ」
「……まだ半分以上残ってるけど」
「下がり続けている」
「……そっか」
扉の向こうで、深く息を吸う音がした。
「……草稿、始める」
「ああ」
「……一緒に考えてくれる?」
「扉の前にいる」
「……うん」
ページをめくる音が始まった。
今日は速い。昨日よりずっと速い。
頭の中に数字が浮かんだ。
ガルディア情勢の緊張値:74%
残り時間:六日
イリナの恐怖値:43%
準備値:91%
次の手は、草稿を仕上げることだ。
それが終われば、また次の手が見えてくる。
廊下の窓から、昼の光が差し込んでいる。
城内はまだ動いている。
貴族たちの打算が変わり始めた。ガルディアが動いた。ヴァルテ連合が動いた。厨房が動いた。侍女が花を持ってきた。バルタンの本心が打算を超えた。
一週間前には、何も動いていなかった。
一週間で、城が変わっている。
イリナが動いたから。
扉の向こうで、ページをめくる音が続いている。
草稿が、始まった。




