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引きこもり天才姫は俺にしか懐かない〜存在しない者が、一人の姫の一生を見届ける〜  作者: アルコール吸引マシン5号
第一部「天才、解き放たれる」

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天才の手札② 国内を動かす

どうも、トワです。


前回は外交の話をしました。シャルロフとの会談、あの鮮やかな五手。覚えていますか。


今回は少し毛色が違います。


外交と国内政治は、似ているようで全然違う。同じ交渉でも、相手が外国の使節か自国の貴族かで、ルールがまるで変わります。今日はその話です。


殿下が会談の翌々日に、ターランとヴォルという二人の貴族と個別に面談しました。


そこで何が起きたか。


噛み砕いて説明しますね。



まず、なぜ個別に会ったのか、という話から始めましょう。


城内には四人の主要な貴族がいます。バルタン、ターラン、ヴォル、ガルダ。この四人が昨日の会談の結果を知って、それぞれ動き始めた。


全員同時に会う選択肢もあったはずです。でも殿下は個別に会うことを選びました。


これを「分断工作ぶんだんこうさく」と呼びます。


なぜ分断するのか。


複数の交渉相手を同時に会わせると、相手同士で情報を共有します。「殿下はあなたにこう言った」「私にはこう言った」という照合が起きる。そうなると、四人が連携して一つの要求を出してくる可能性が生まれます。個別に会えば、それぞれが自分の要求だけを持ってくる。


こちらが各自に対して最適な対応を取れるわけです。


ただし分断工作には注意点があります。


「一方を贔屓しない」という原則を守らないといけない。分断の目的は誰かを潰すことではなく、連携を阻むことです。全員が「殿下は公平だ」と思っている状態を維持しながら、個別に動かす。これが難しい。


殿下はそれを、この段階でもう理解していました。


十年分の読み込みです。



次に、交渉の構造分析の話をします。


クオン・レン君が面白いことを言っていました。「相手の利益が一層構造か多層構造かで見分ける」。


これはとても実践的な考え方です。


一層構造というのは、相手の動機が一つしかない場合です。「農地の収益を上げたい」というターランがその典型例。動機が単純なので、その動機に直接応えれば交渉が終わります。ターランとの面談が三十分で終わったのはそのためです。


多層構造というのは、相手の動機が複数重なっている場合です。


ヴォルは二層でした。表の動機は「軍の予算削減」。でも裏に「軍内での発言力強化」という動機がある。予算削減の成果を出すことで、軍内で自分の地位を固めたい。これが二層目です。


ヴォルへの対応が四十分かかったのは、二層目の動機にも配慮が必要だったからです。


「五ヶ年計画での削減を提案する」という殿下の回答は、表の動機に答えています。でも「セーフガード条項を附則に組み込む」という提案は、実は二層目への配慮でもある。ヴォルが軍内で発言力を持つためには、計画が崩れないことが必要です。セーフガードがあれば、ドルドフ将軍のような予測不能な事態が起きても計画を守れる。ヴォルの立場が守られる。


一つの提案で、二層の動機を両方満たす。


これを「多層対応たそうたいおう」と呼んでいいでしょう。


シャルロフは三層でした。外交局の立場、帝国内での評価、ドルドフへの対抗。三層全部に応える構造が「三者利益の友好通商条約」だったわけです。


なるほど、と思いませんか。


会談のときの鮮やかさの秘密がここにある。殿下は相手の層の数を把握して、全層に応える提案を一つの形にまとめていた。



では、バルタンはどうするのか。


バルタンは今回の登場人物の中で一番複雑です。


確率表示上、バルタンの打算は100%。これはターランの71%、ヴォルの58%より圧倒的に高い。つまり、バルタンはこちらが何をしているかを全部読もうとしている。


賢い相手です。


こういう相手に対して、通常の交渉では「情報を小出しにする」という手法が使われます。でも、それだと交渉が長引く。バルタンは財務統括ですから、条約の数字を全部精査する役割があります。どこかの段階で全部見せないといけない。


殿下が考えたのは「情報の非対称性じょうほうのひたいしょうせい」という戦略でした。


見せる情報と見せない情報を意図的に分ける。


バルタンに最初に見せるのは「条約の経済的メリット」だけです。ドレツァにとって、ガルディアにとって、この条約がどれだけ得になるか。その数字だけを提示する。


見せない情報は「交渉の余地がある条項の細部」です。附属書の内容、セーフガードの発動基準の細かい数字、段階的逓減料率の具体的な閾値。これは全部、バルタンが合意の意思を示した後に出す。


なぜそうするのか。


交渉の余地がある部分を最初に見せると、バルタンはそこを削ろうとします。財務統括として「コストを下げる」のが仕事ですから。でも骨格部分への合意が先に取れていれば、細部の調整は骨格の範囲内でしか動けない。後から見せることで、交渉の幅を限定できる。


これを「アンカリング効果の応用」と言います。


最初に合意した大枠が「いかり」になる。細部を詰める段階では、その錨から大きく外れることができなくなる。


ただし、これには一つリスクがあります。


バルタンが「見せていない情報がある」と察知した場合、不信感を持つ可能性がある。だから、情報を隠しているのではなく「まだ詰めていない部分がある」という形で提示する必要があります。


「殿下の提案は現時点での骨格です。細部については、バルタン殿のご意見を伺いながら詰めていきたい」


そう言えば、バルタンは「細部は自分が詰める」という達成感を得られる。見せていない情報を、バルタン自身が作る情報として扱えるわけです。


なかなか複雑でしょう。


でも、これが打算100%の相手と渡り合う方法です。



少し視野を広げた話もしましょう。


今回の貴族対応は、実は大きな設計図の一部です。


設計図の名前は「全方位微関係構築ぜんほういびかんけいこうちく」と、私は勝手に呼んでいます。


どういうものかというと、どの派閥にも完全には肩入れしないけれど、全員に少しずつ貸しを作る、という状態を作ることです。


ターランには「農機具の優先供給条項」という貸し。

ヴォルには「セーフガード条項と五ヶ年計画」という貸し。

バルタンには「細部の設計に参加できる」という貸し。

ガルダには、そのうち「条約締結式の儀典主導」という貸しを作る予定です。


四人全員が「殿下に借りがある」状態になる。


借りがある相手は、恩人を切れません。


これが「誰も手を出せない立場」の作り方です。


軍事力のない弱小国が、どの強国も属国化できない立場を作った。その国内版をやっているわけです。原理は同じです。



ここで少し立ち止まって考えてほしいことがあります。


これだけ複雑な設計を、殿下は「今から考える」のではなく、面談に入る前から頭の中に持っていました。


なぜかというと、十年間読んできたからです。


政治学の教科書、外交記録、各国の条約集、財務書類、軍の予算書。全部読んでいた。理論として知っていた。


「知っていること」と「それを動く状況で使えること」は違います。


でも殿下の場合、知識の密度が高すぎて、状況に直面したときに自動的に引き出しが開く。シャルロフの手口を三秒で分析できたのも、ターランを三十分で動かせたのも、全部この密度のおかげです。


読書が直接戦力になっている、という稀有な事例です。


私、何千年もいろんな人間を見てきましたけど、知識がここまで実戦直結している人間は、めったにいません。


本当に、めったにいない。



最後に一つだけ。


今回の話で一番重要だったのは、実は戦略でも交渉術でもないと私は思っています。


ターランとの面談が終わった後、殿下がこう言っていました。


「……意外と早かった」


声が、少し弾んでいた。


交渉が終わって、自分の知識が通用したことへの純粋な驚きと、うれしさ。


その感覚を持ったまま、翌日ヴォルとの面談に入った。「シャルロフとは全然違う」と感想を言いながら、相手の違いを自分で分析していた。


これが何を意味するかわかりますか。


殿下は、交渉をゲームのように楽しめるようになってきている。


怖い、ではなく。難しい、ではなく。


面白い。


そういう感覚が出てきた。


この変化が、一番大きいと私は思います。


恐怖で動いていた人間が、好奇心で動き始めたとき、その人間は本当に強くなります。


殿下はまだ震えています。でも、震えの種類が変わりつつある。


怖いから震えるのではなく、楽しいから体が反応している、という震え。


そちらに向かっています。


きっと。



次の「天才の手札」はまた殿下が何かをやった後に。


バルタンとの面談は、少し手応えがありそうです。


お楽しみに。


トワでした。

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