第三十一話 代償
朝、扉の前に座った。
「……レン?」
すぐに声がした。いつもより少し掠れている。
「ここにいる」
「……何時」
「八時だ」
「……いつも通り」
「ああ」
少しの間があった。
「……体が動かない」
「そうか」
「……昨日より動かない」
俺は少し考えた。
昨日の午後、ターランとの面談は予定通り三時に行われた。その後、ヴォルへの接触も夕方に入れた。二つの面談をこなして、夜は条約草稿の骨子を考えるためにイリナは本を読んでいた。
明かりが消えたのは夜の十一時を過ぎていた。
「昨日、動きすぎた」
「……動きすぎてないよ。面談二つだけじゃん」
「面談前の準備と面談後の分析を含めると、ほぼ一日中頭を動かしていた」
「……頭を動かすのは普通のことじゃん。部屋で本を読んでるのと同じ」
「違う」
「……何が違うの」
「人がいた。相手の反応を読みながら話す。感情の制御も必要だった。本を読むのとは消耗の種類が違う」
扉の向こうで、少しの間があった。
「……そっか。わたし、それ知らなかったかも」
「初陣の翌日から連続で動いたんだ。体が悲鳴を上げるのは当然だ」
「……悲鳴って言うと大げさに聞こえる」
「大げさじゃない。今日はどの程度動けない」
「……起き上がれる。でも、立つと頭が回る感じがする」
「めまいか」
「……そんな大げさじゃないけど、なんか、ふわふわする」
「今日は横になっていろ」
「……でも、バルタンとの面談が明後日に入ってて」
「明後日まで時間がある。今日は休め」
「……ヴォルへのフォローアップも必要で」
「今日じゃなくていい」
「……ガルディアからの返答がいつ来るか考えると、先手を打っておかないといけなくて」
「今日じゃなくていい」
「……でも」
「イリナ」
「……なに」
「今日動けない体で動いても、判断の質が下がる。質の低い判断をした後のフォローの方が、一日休んでから動くより手間がかかる。今日休む方が効率がいい」
扉の向こうで、少しの間があった。
「……そういう言い方をされると反論しにくい」
「事実だから」
「……うっ」
「横になれ」
「……わかった」
あっさりしていた。
昨日より素直だ。体に余裕がなくなっている証拠だろう。
「水は飲んだか」
「……さっき少し」
「もう少し飲め。頭がふわふわするのは水分不足の可能性もある」
「……そんなに飲んでないかも」
「水差しはあるか」
「……ある。昨日トワさんが置いていってくれた」
「飲め」
「……はい」
短く返事をして、しばらく何も聞こえなかった。
それからごくごくという音がした。
「……飲んだ」
「よし」
「……よし、って感じだね」
「なぜだ」
「……なんか、飲んだよって報告して、よしって言ってもらって。なんか変な感じがした」
「変か」
「……変というより、なんか。うん、いい感じがした」
「そうか」
「……うん」
扉の向こうで、ぎしっという音がした。ベッドに戻ったのだろう。
「……レン」
「なんだ」
「……今日、ずっとそこにいてくれる?」
「いる」
「……仕事とかあるんじゃないの」
「今日の仕事はここにいることだ」
「……それが仕事なの」
「そうだ」
「……なんか」とイリナが言った。「……変な仕事だね」
「そうか」
「……でも、うれしい」
俺は何も言わなかった。
廊下の窓から、朝の光が差し込んでいる。
石の壁が、光を受けて少し温かく見えた。
一時間が過ぎた。
扉の向こうから、規則正しい呼吸の音がした。
眠った。
俺は廊下に座ったまま、動かなかった。
城内を行き来する足音が、時々廊下の端の方で聞こえる。使用人が通り過ぎる。文官が何かを抱えて歩いていく。でも北棟の突き当たりまでは、誰も来ない。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの睡眠値:安定
数字ではなく、そういう表示が出た。昨日の準備完了予測時刻と同じ種類だ。成功率とは違う。もっと日常的な、細かい表示が出るようになってきている。
これが何を意味するのかは、まだわからない。
ただ、イリナが安定して眠っているということは確かだ。
俺は壁に背をもたれて、目を閉じた。
眠るわけではない。ただ、少し力を抜く。
昨日のターランとの面談を振り返った。
ゴルド・ターラン。五十代前半、南方農地の大地主だ。直接的で、打算が少ない。本人の取り分が明確なら動く、というタイプだ。確率表示には「打算:71%、本心:29%」と出ていた。バルタンの100%よりははるかにマシだ。
イリナとの面談は、想定より短く終わった。
三十分で十分だった。
「農機具の優先供給条項を条約の附属書に組み込む。その代わり、国内で友好通商条約への賛成意見を公式に表明していただきたい」
イリナが震えながら言った。声は揺れていたが、内容は一点の曇りもなかった。
ターランは少し考えて、「わかりました」と言った。
以上だった。
ターランが帰った後、イリナが扉越しに言った。
「……意外と早かった」
「相手の動機が単純だから交渉も単純だ」
「……シャルロフとは全然違う」
「そうだ。シャルロフは構造が複雑だった。ターランは利益が直接見えていた」
「……簡単な交渉と難しい交渉って、どう見分けるの」
「相手の利益が一層構造か多層構造かで見分ける。一層なら単純。多層なら複雑だ」
「……ターランは一層」
「そうだ。農地の利益だけ。それ以外の動機がない」
「……シャルロフは」
「少なくとも三層あった。外交局の立場。帝国内での評価。ドルドフへの対抗。それが全部絡んでいた」
「……なるほど」
少しの間があって、また扉の向こうでぱたぱたとページをめくる音がした。
「……ヴォルも一層?」
「二層だ。軍の予算削減という直接の利益と、軍内での発言力強化という間接の利益がある」
「……だからシャルロフほど難しくないけど、ターランよりは少し複雑」
「そうだ」
「……わかった。ヴォルの面談、今日できそう?」
「今日の夕方でいいか」
「……うん」
それがヴォルとの面談につながった。
夕方五時。ヴォルとの面談は四十分かかった。軍の予算書の数字を細かく確認しながら、友好通商条約が成立した場合の削減効果を試算する作業が半分を占めた。
頭の中にヴォルの表示が残っている。
マーシュ・ヴォル。五十代後半。軍の後方支援担当。口数が少なく、数字に強い。確率表示は「打算:58%、慎重さ:34%、本心:8%」。ターランより複雑だ。
「削減効果が実際に出るまでのタイムラグをどう見積もるか。そこが問題だ」とヴォルが言った。
「条約成立から実施までの移行期間を十二ヶ月と設定する。その間は現行の軍事予算を維持した上で、段階的に削減計画を立てる。急激な削減は軍内の士気に影響するため、五ヶ年計画での削減を提案する」とイリナが答えた。
ヴォルが少し目を細めた。「五ヶ年計画は妥当だ。ただし、ドルドフ将軍の動向次第では計画が崩れる可能性がある」
「その場合の条項も入れる。軍事的緊張が一定の水準を超えた場合、削減計画を一時凍結できるセーフガード条項を附則に組み込む」
「セーフガードの発動基準は」
「北方国境での軍事演習が通常時の二倍規模を超えた場合、または国境紛争が年間三件を超えた場合、外交委員会の審議を経て凍結を決定できる」
ヴォルが静かに頷いた。「……条件は妥当だ」
面談が終わった後、廊下でヴォルが俺に声をかけてきた。
「クオン・レン殿」
「はい」
「殿下は、どこで軍事予算の話を学んだのですか」
「十年分の書類を読んだそうです」
ヴォルが少し黙った。
「……城の記録室の書類に、軍の予算書は含まれておりませんが」
「お聞きした限り、書庫から直接取り寄せていたようです」
「軍の書庫は閲覧に申請が必要ですが」
「殿下が申請されたのではないでしょうか」
ヴォルがしばらく俺を見た。
頭の中に数字が浮かぶ。
ヴォルの評価変動:「確認すべき人物」→「信頼に値する人物」
「……なるほど」とヴォルが言った。一言だけ言って、廊下を歩いていった。
俺は目を開けた。
廊下はまだ静かだ。
扉の向こうから、イリナの規則正しい呼吸の音がしている。
昼前に、トワが来た。
いつもの軽い足音だ。
「クオンさん、殿下はお休み中ですか」
「ああ」
「そうですか」とトワが廊下の壁に寄りかかった。「昨日、結構動きましたからね。ターランとヴォルを一日でこなしたのは少し詰めすぎでした」
「俺が組んだ」
「まあ、状況的に早い方がよかったのはわかります。ただ、殿下の体力回復の速度を少し過大評価してたかもしれませんね」
「そうだ」
「次からは間に一日置いた方がいいと思います。面談の翌日は休む日にする」
「わかった」
トワが少し間を置いた。
「クオンさん」
「なんだ」
「昨日のターランとヴォルの面談、城内でも話が出ています」
「内容が漏れたか」
「細部は漏れていません。でも、殿下が二人と個別に会ったということは知られています。あと」
「あと?」
「ターランが昨日の夜、他の南方の地主二人に書状を出したという話が入りました。内容はわかりませんが、タイミングから見てターランが動き始めたのは確かです」
「予定通りだ」
「ええ。ただ、バルタンがそれを察知して、少し焦っているようで」
「バルタンは明後日だ。焦らせておいていい」
「そうですね」とトワが言った。「バルタンに焦らせておくと、明後日の面談で少し有利になりますし」
「ああ」
「あと」
「まだあるか」
「はい。ガルダが動き始めました」
俺は少し考えた。
ガルダ。城の儀典担当。慎重派で自分の有利を確認してから動くと昨日分析した通りだ。
「何をしている」
「国王陛下に謁見を申し込んだようです。内容は不明ですが、タイミングからして殿下の動きへの対応だと思います。ガルダが国王に直接行くということは、バルタンとは別のルートを取るつもりかもしれません」
「ガルダは儀典担当だ。条約の正式な締結プロセスには儀典上の手続きが必要になる。その主導権を握りたいのかもしれない」
「なるほど。友好通商条約の締結式に儀典担当が絡めば、ガルダにとっても存在感を示せる機会になる」
「そういうことだ。ガルダは敵対的に動いているわけではない。利益の乗り方を見極めようとしている」
「では放っておいていい?」
「今は放っておく。ただ、バルタンの後に会う順番に入れる。儀典の話を先に詰めておいた方が、条約の具体化が進む」
「わかりました」
トワが少し笑った。
「殿下、昨日の面談を見ていて、本当に変わったと思いました」
「何が変わった」
「以前は扉の隙間からしか話せなかった。昨日は人と向かい合って二時間近く話した。しかも二人続けて。内容も昨日の会談レベルのことを当たり前にこなした」
「そうだ」
「クオンさんは変わったと思いませんか」
「変わった」
「……すごいですよね」
「すごい」
トワが少し間を置いた。
「あと一つだけ」
「なんだ」
「マルクから情報が入りました。ガルディア側の話です」
俺は少し前に身を乗り出した。
「シャルロフが帝都に戻ったのは三日前です。外交局で報告書を出したという話まで入っています。内容はわかりませんが、報告書の分量がかなり多かったという話です」
「多い報告書は、内容が複雑だということだ」
「ええ。単純な結果報告なら短くて済む。長い報告書は、持ち帰った提案が検討に値するということを意味する場合が多い」
「シャルロフが本気で動いているということか」
「可能性は高いと思います。あと、帝都の外交局内で、ドルドフ将軍派との摩擦が表面化しつつあるという話も入っています。軍事派が友好通商条約に反対の立場を取り始めているようで」
「予想通りだ」
「ただ、それが出てきたということは、外交局内では条約の話が本格的な議論になっているということでもある」
「そうだ。反対派が出るということは、賛成派が動いているということだ。シャルロフが内部で動いている」
「殿下に伝えますか」
「後で伝える。今は寝かせておく」
「わかりました」
トワが立ち上がった。
「クオンさん、昼食は食べましたか」
「まだだ」
「持ってきますよ。殿下の分も」
「頼む」
「何がいいですか」
「何でもいい」
「では適当に持ってきます。殿下はパンが好きそうですね」
「昨日も食べていた」
「そうですよね」
トワが廊下を歩いていった。
軽い足音が遠ざかっていく。
静寂が戻った。
扉の向こうで、まだイリナが眠っている。
昼過ぎ、扉の向こうで動く気配がした。
「……レン」
「ここにいる」
「……何時」
「十二時半だ」
「……結構寝てた」
「いい睡眠だった」
「……どうわかるの」
「表示が出た」
「……表示?」
「成功率とは別の、体の状態を示す数字が出るようになった。今朝から」
「……なにそれ」
「俺にもよくわからない。今日初めて出た」
「……わたしの体のこと、わたしより詳しくなってるじゃん」
「そうなるかもしれない」
「……なんか変な感じがする」
「どういう意味だ」
「……自分の体のことを、自分より他の人が知ってるって」
「嫌か」
扉の向こうで、少し考える気配がした。
「……嫌じゃない。レンだから」
「そうか」
「……レンじゃなかったら嫌だけど」
「わかった」
「……なんで『わかった』なの」
「俺だから嫌じゃない、ということだ」
「……そういう理解の仕方するんだ」
「違うか」
「……違わないけど、なんか、そこは『そうか』でいいんじゃないかな」
「そうか」
「……いまさら」
俺は何も言わなかった。
「……おなかすいた」
「トワが昼食を持ってくる予定だ。もうすぐ来る」
「……ありがとう。気が利くね」
「トワが気を利かせた」
「……トワさんにもありがとうって言わなきゃ」
「言え」
しばらくして、トワが昼食を持ってきた。
パンとスープと、小さな果物だ。
「殿下、お目覚めですか。昼食をお持ちしました」
「……ありがとう、トワさん」
「気にしないでください。今日はゆっくりしてくださいね」
「……うん。昨日、大変だったね」
「大変でしたか?」とトワが軽く笑った。「私はただ見てただけですよ。大変だったのは殿下ですよね」
「……わたしはそんなに大変じゃなかった。でも体がついてこなかった」
「慣れてないだけです。慣れれば大丈夫ですよ」
「……そう?」
「絶対そうです」
俺はトワからイリナの分の食事を受け取って、扉の隙間から差し入れた。
「……パンだ」
「好きだろう」
「……好き。ありがとう」
「スープもある。熱いから気をつけろ」
「……うん」
食べる音がした。
トワが俺の隣に座った。
「クオンさんはこれです」と小さな包みを渡した。「チーズとパンです」
「ありがとう」
「どういたしまして」
二人で廊下に座って昼食を食べた。扉の向こうからも、イリナが食べる音がする。
妙な昼食だ、と思った。
でも、悪くない。
「……レン」
「なんだ」
「……ガルディアの話、何かあった?」
「後で話す。今は食べろ」
「……気になる」
「食べながら気になれ」
「……食べながら聞かせてくれればいいじゃん」
「食事中は食事に集中した方が消化がいい」
「……細かいな」
「正確だ」
トワが隣で小さく笑った。
「……じゃあ食べ終わったら教えて」
「わかった」
しばらく、廊下で食べる音と、扉の向こうで食べる音が続いた。
昼食が終わった。
「ガルディアの話、教えて」
「シャルロフが帝都に戻って報告書を出した。分量が多かったという情報がある」
「……多い報告書は本気の証拠だよ」
「そうだ。外交局内でドルドフ将軍派との摩擦が出始めているという話も入っている」
「……反対派が出たってこと?」
「そうだ」
「……それって、外交局内で条約の話が本格的に動いてるってことでもある。反対派が出るのは議論が進んでる証拠だから」
「正確だ」
「……次の動きはどうなると思う」
「外交局内の議論がまとまるのに最低でも一ヶ月。皇帝の裁可を得るのにさらに一ヶ月。合計二ヶ月が最短のスケジュールだ」
「……ドルドフ将軍が妨害に動く可能性は」
「ある。ただ、動くとすれば外交局の議論が固まる前の段階だ。今から一ヶ月以内が一番危険な時間帯になる」
「……その間に、わたしたちは何をすればいい」
俺は少し考えた。
「国内基盤を固める。ターランとヴォルが動いた。次はバルタン。バルタンが条約賛成に回れば、国内の財務的な裏付けができる。それをガルディアに示すことで、条約の実現可能性を高める」
「……バルタンが賛成に回るかどうか、五分五分な気がするんだけど」
「なぜ」
「……バルタンは財務統括だから、条約の条項の細部を全部知りたがる。こちらの手の内を全部見せることになる。それがリスクになる可能性がある」
「そのリスクをどう処理する」
「……情報の非対称性を作る。バルタンに見せる情報と見せない情報を分ける。見せる情報は条約の経済的メリット。見せない情報は交渉の余地がある条項の細部。バルタンが合意した段階で後者を出す」
「完璧だ」
「……それでもリスクは残る」
「ゼロにはならない。でも今の状況でのベストだ」
「……わかった。明後日のバルタンとの面談、それで行く」
「ただし」
「なに」
「今日と明日はそれ以上考えるな。体を回復させることが最優先だ。バルタンの面談に万全の状態で臨む方が、今ここで詰めるより価値がある」
「……またそういう言い方をする」
「事実だから」
「……わかった」
今度もあっさりしていた。
体が限界のときのイリナは、素直だ。
「……レン」
「なんだ」
「……さっきの、一ヶ月以内が一番危険って言ってたけど」
「ああ」
「……その一ヶ月、何か起きたらどうする」
「何が起きても対応する」
「……具体的には」
「具体的には状況次第だ。今から全パターンを想定することはできない。ただ、起きた後に対応する速度を上げることはできる」
「……どうやって」
「情報を早く取ることだ。マルクに頼んでガルディア帝国内の動向を継続的に監視させている。何か動きがあれば俺に入る。俺がお前に伝える。対応策はその時点でお前が考える」
「……わたしが考えるの?」
「お前が考える。俺は実行する」
「……役割分担だ」
「そうだ」
「……それって」とイリナが言った。「……わたしが頭で、レンが手足みたいな感じ?」
「そういう言い方もできる」
「……なんか、変な感じがする」
「どういう意味だ」
「……わたし、ずっと頭だけの人間だった。知識だけあって、手足がなかった。レンが来てから、初めて手足ができた感じがする」
俺は少し間を置いた。
「……手足は比喩として正確じゃないかもしれない」
「……じゃあ何」
「俺はお前の秘書だ。お前の指示で動く。でも、お前が暴走しそうなときは止める。それが俺の仕事だ」
「……暴走って、今日みたいに動きすぎることも暴走に入る?」
「入る」
「……それを止めるのも仕事」
「そうだ」
「……今日、止めた」
「ああ」
「……ありがとう」
「仕事だ」
「……仕事でも、ありがとう」
「わかった」
扉の向こうで、ぎしっとベッドの音がした。
「……少し横になる」
「そうしろ」
「……レン、まだいる?」
「いる」
「……どのくらいいてくれる」
「今日一日いる」
「……一日、ずっと?」
「ずっといる」
「……仕事は」
「今日の仕事はここにいることだと言った」
「……そっか」
少しの間があった。
「……じゃあ、いてくれていい」
「いる」
「……うん」
ぎしっという音がして、それから静かになった。
午後の時間が流れていく。
城内の動きは昼前よりも落ち着いていた。朝のざわめきが一段落して、それぞれが昨日からの情報を整理している時間帯だろう。
俺は廊下に座ったまま、頭の中で一ヶ月のスケジュールを組んでいた。
明後日にバルタン。その翌週にガルダ。並行して、ターランが動かしてくれる南方地主たちへの対応。マルクからの情報収集。
イリナには、一日おきのペースで動かす。面談の翌日は必ず休む。それを守れば体力の消耗を抑えられる。
問題は、ドルドフの動向だ。
軍管区の演習が長期化している。これは単なる示威行動か、それとも本当に動く準備なのか。
マルクに確認が必要だった。
「……レン」
「なんだ」
「……眠れない」
「そうか」
「……さっきは眠れたのに、今度は眠れない」
「午前中に十分眠ったからだろう」
「……うん。でも、体がだるい。横になってても、なんか落ち着かない」
「何かを考えているのか」
「……うん。考えてたら眠れなくなった」
「何を考えている」
「……また考えるなって言われそうだけど」
「言わない。もう昼過ぎだ」
「……ガルディアのこと」
「どういうことだ」
「……一ヶ月、何も起きなくて、条約の話がうまく進んで、全部解決したとして。そのあと、どうなるんだろうって」
「どういう意味だ」
「……友好通商条約が成立したら、ドレツァは安全になる。わたしが動く必要がなくなる。そうしたら、レンはどうなるの」
俺は少し考えた。
「俺の仕事がなくなる、ということか」
「……うん。レンはトワさんに連れてこられた。仕事がなくなったら、トワさんが次の場所に連れていくのかなって」
「そういう可能性はある」
「……そっか」
少しの間があった。
「……なんか、それ考えたら眠れなくなった」
俺は少し間を置いた。
窓の外で、午後の風が木を揺らしている。
「今日のことを考えろ」
「……え?」
「一ヶ月後のことを今考えても、今は何もできない。今日の仕事は休むことだ」
「……でも、気になる」
「気になっていい。でも、答えが出ない問いを今考えても消耗するだけだ」
「……答えが出ない問いって、どういうこと」
「一ヶ月後に俺がいるかどうかは、今の時点では決まっていない。決まっていないことを今考えても、答えは出ない」
「……じゃあ、いつ答えが出るの」
「一ヶ月後に近づいた時点で考える」
「……それまで、考えなくていいの」
「考えなくていい」
「……でも」とイリナが言った。「……考えちゃうんだけど」
「わかってる」
「……わかってるなら、どうすればいいか教えてくれればいいじゃん」
「どうしようもない」
「……どうしようもないって」
「答えが出ない問いを止める方法はない。ただ、今日起きていることに意識を向けることはできる」
「……今日起きていること」
「城内が動いている。ターランが動いた。ヴォルが動いた。シャルロフが報告書を出した。それ全部が、お前が一昨日動いたことの結果だ」
「……うん」
「その結果は、一ヶ月前にはなかった。お前が動いたから生まれた」
「……うん」
「一ヶ月後のことはわからない。でも、今日は昨日より確実に先に進んでいる」
扉の向こうで、しばらく何も聞こえなかった。
「……レン」
「なんだ」
「……それって、なんか、今に集中しろってこと?」
「そうだ」
「……なんか、禅問答みたいだね」
「そうか」
「……でも、わかった」
少しの間があった。
「……少し落ち着いた」
「そうか」
「……ありがとう」
「また何回目だ」
「……何回言ってもいいって言ったじゃん」
「言った」
「……じゃあいい」
また静かになった。
今度は長い静寂だ。
呼吸の音がゆっくりになっていく。
「……レン」
「なんだ」
声が、少し遠くなっていた。眠くなっている。
「……まだいる?」
「いる」
「……ずっと?」
「ずっといる」
「……わかった」
それきり、声がしなくなった。
しばらくして、規則正しい呼吸の音が始まった。
頭の中に表示が出た。
イリナの睡眠値:安定
俺は廊下に座ったまま、壁に背をもたれた。
窓から、夕方の光が入り始めている。
一ヶ月後、俺はここにいるかどうかわからない。
イリナが心配していることは正しい。仕事がなくなれば、トワが次の場所に送る可能性はある。
ただ、今はそれを考える時間ではない。
今日の仕事は、ここにいることだ。
廊下に静寂が続く。
扉の向こうで、イリナが眠っている。
「……いた」
小さな声がした。
夢の中から聞こえるような、かすかな声だ。
「……いた」
もう一回。
俺はしばらく扉を見た。
「ああ」と言った。
声に出したのか、心の中で言っただけなのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、扉の向こうで、イリナが静かに眠っている。
その事実だけは、確かだった。




