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引きこもり天才姫は俺にしか懐かない〜存在しない者が、一人の姫の一生を見届ける〜  作者: アルコール吸引マシン5号
第一部「天才、解き放たれる」

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第三十話 信頼値、最高値

朝、城内がざわついていた。


いつもと違う種類のざわめきだ。


廊下を歩くと、すれ違う使用人たちが小声で何かを話している。足が速い。書類を抱えた文官が小走りで角を曲がっていく。侍女が二人、柱の陰で頭を寄せ合っている。


頭の中に数字が流れる。


城内全体の動揺値:71%

好奇値:84%

期待値:63%


期待値。


昨日まで、この城で期待値が60%を超えたことはなかった。


「おはようございます、クオンさん」


トワが廊下の角から現れた。いつもの軽い笑顔だ。


「朝からざわついている」


「そうなんですよ」とトワが言った。「昨夜のうちに広まったみたいで。シャルロフ殿が城を出るときに、護衛の一人が門番と話してたんですね。それが城内に伝わって。今朝起きたら城全体が知ってるくらいの勢いで」


「何が伝わった」


「殿下が使節を圧倒した、と。まあ、護衛の人の見た感じですから細部は違うと思いますけど、『あの引きこもりの姫が外交官を言い負かした』という話になってます」


「……言い負かした、か」


「表現の問題ですね。実際はそういうことじゃないんですけど、伝言ゲームって面白いですよね。尾びれがつく」


トワが軽い口調で言う。でも目が少し違う。観察している目だ。


「貴族は」


「それがですね」とトワが少し声を低くした。「今朝早くから、バルタン殿がかなり慌てた様子で動き回っているという話が入りまして。昨日と全然違う動きです」


「昨日までは静観していた」


「ええ。でも今朝は違う。『姫殿下に謁見を申し込みたい』という話を国王陛下に通そうとしているらしくて」


俺は少し考えた。


昨日の夜、イリナに言った通りだ。半日で動き出す。


「他に動いている貴族は」


「三人は確認できています。バルタン殿の他に、南方領を持つゴルド・ターラン殿と、軍の後方支援を担当しているマーシュ・ヴォル殿。この二人は普段あまり接点がない方々なんですが、今朝珍しく一緒にいるところが目撃されています」


「ターランとヴォル」


「ターラン家は南部の農地を大量に持っています。ガルディアとの交易路問題が解決されれば、農機具の輸入コストが下がる。直接利益がある。ヴォル家は軍の後方なので、友好通商条約が成立すれば軍事費の削減につながる。これも直接利益がある」


「つまり、昨日の会談の内容が漏れている」


「護衛の話だけじゃなくて、会談に同席した貴族の一人が昨夜のうちに情報を流したようです。誰かはまだわかりませんが」


俺は頭の中で整理した。


会談に同席していた貴族は四人。バルタン、ターラン、ヴォル、もう一人は城の儀典ぎてん担当のセイン・ガルダという男だ。どれかが漏らした。


「ガルダは」


「今朝は静かです。あの方は動くのが遅いタイプなので、様子を見ているんだと思います」


「わかった」


「クオンさん」とトワが言った。「今日、貴族たちが殿下に接触しようとすると思います。どうしますか」


「イリナに確認する」


「殿下は起きてますかね」


「まだ寝ているかもしれない」


「昨日あれだけ消耗しましたからね。ゆっくり寝てほしいんですが、城内がこの調子だと」


「午前中は守る。午後から動かす」


「守る、というのは」


「誰も部屋に近づけない」


トワが少し目を細めた。


「……クオンさんが一人で?」


「ああ」


「物理的に?」


「廊下に座ってればいい。それだけで済む」


「……まあ、クオンさんなら」とトワが言った。「何かあっても再生できますしね」


「何かある予定はない」


「念のため、ですよ」


トワが軽い調子で言って、廊下を歩いていった。



北棟の廊下に着いた。


いつも通り扉の前に座った。


静かだ。扉の向こうから音がしない。まだ寝ているのかもしれない。


しばらく待った。


十分が過ぎた。


二十分が過ぎた。


「……レン?」


扉の向こうから声がした。かすかに、眠そうな声だ。


「ここにいる」


「……何時」


「八時半だ」


「……いつもより遅い」


「昨日消耗した。寝ていていい」


「……起きてる」


「無理するな」


「……起きてるって。ちゃんと」


少しの間があった。


「……頭が重い」


「そうか」


「……体が動かない感じがする」


「昨日の反動だ。今日は動かなくていい」


「……城内、何か起きてる?」


「なぜそう思う」


「……廊下の気配が違う。足音が多い。いつもより早い」


敏感だ。部屋にいながら廊下の気配を読んでいる。十年間、部屋から外を観察し続けてきた感覚だろう。


「会談の話が広まった」


「……どこまで」


「城内全体だ」


「……内容は」


「護衛経由で漏れた部分と、同席した貴族が流した部分がある。細部は違うが、大筋は伝わっている」


「……誰が流したと思う」


「ターランかヴォルだ。どちらも会談の結果に直接利益がある。動機がある」


「……ガルダじゃないの?」


「ガルダは今朝静かだ。あの男は動くのが遅い」


「……あ、合ってる。ガルダは慎重派。自分が有利になるのを確認してから動く」


「そうだ」


「……それで、貴族たちは今何をしてる」


「バルタンが謁見を申し込もうとしている。ターランとヴォルが朝から一緒に動いている」


「……接触してくる気だ」


「ああ」


「……わたしに?」


「お前に」


扉の向こうで、少しの沈黙があった。


「……どうすればいい」


「今日の午前中は会わない。午後に会う順番を決める。全員同時に会うと情報が共有されて連携される。個別に会って、それぞれに違う情報を渡す」


「……それ、分断工作だよ」


「そうだ」


「……いいの?」


「必要なことだ」


「……わかった。レンがそう言うなら」


「お前が判断しろ」


「……え」


「俺が『こうしろ』と言って動くのはいい。でも、なぜそうするかを理解した上で動く方がいい。分断工作が必要だと思うか」


扉の向こうで、少し考える気配がした。


「……思う。今、三派閥が別々の利益で動いてる。一緒に会わせると共通の要求を作られる。個別に会えば、それぞれの利益を個別に見せられる。お互いが何を得たか知られない」


「正しい」


「……でも」


「なんだ」


「……全員に等距離を保つって言ってたけど、分断してもそれは維持できる?」


「できる。等距離というのは誰かに肩入れしないということだ。分断は誰かを潰すことではなく、各自が個別に動くように誘導するだけだ。連携を阻むことと、一方を贔屓ひいきすることは違う」


「……なるほど」


少し間があった。


「……レン」


「なんだ」


「……頭が重いのに、こういう話してると少し楽になる」


「なぜだ」


「……考えると体の重さが少し引く感じがする。知識が体を安定させるって、昨日言ってたじゃん。それかな」


俺は少し考えた。


「……そうかもしれない」


「……面白いね、わたしの体」


「面白い」


「……なんか、素直に『面白い』って言えるの、レンだけだ」


「そうか」


「……普通の人は『大変ですね』とか『お気の毒に』とか言う。でもレンは『面白い』って言う」


「事実だから」


「……うん。それが、好き」


また、あの言葉が出た。


俺は何も言わなかった。



一時間後。


廊下の向こうから、足音が聞こえてきた。


複数だ。ゆっくりと、でも確実にこちらに向かってくる。


頭の中に数字が流れる。


バルタンの打算:100%

同行者二名の打算:100%

期待値:78%


打算100%は相変わらずだが、期待値が上がっている。昨日まで期待値は出なかった。


バルタンが廊下の角から現れた。後ろに二人の貴族。どちらも見覚えがある。バルタン派の中堅どころだ。


俺は扉の前に座ったまま、動かなかった。


「クオン・レン殿」とバルタンが言った。昨日より声のトーンが高い。「殿下にお目通りを願いたく」


「今日の午前中は難しい」


「しかし、昨日の会談の件で殿下に直接ご意向を——」


「午前中は難しい」


「では午後は」


「午後は別の予定が入っている」


バルタンが少し眉を寄せた。


「別の予定、とは」


「殿下のご予定です。詳細はお伝えできない」


「……では、いつなら」


「明後日の午後二時以降であれば調整できる可能性がある。ただし、確定ではない」


「明後日、ですか」


「殿下の体調次第です。昨日の会談は相当の消耗があった。今日は休息が必要だ」


バルタンが少し考えた。


頭の中に数字が動く。


バルタンの焦り:54%

引き下がり意思:67%


67%。半分以上は引き下がる気になっている。ただ、残りの33%がまだ粘ろうとしている。


「……殿下に、少しだけ声をかけさせていただくわけには」


「今日は難しい」


「一言だけでも」


「今日は難しい」


「クオン殿」とバルタンが声のトーンを少し変えた。丁寧さの下に、これまでにない何かが混じっている。「昨日の会談の内容、私どもも聞き及びました。友好通商条約の件、大変見事な交渉だったと。殿下のお力は城内でも話題になっております。私どもとしても、その力をドレツァのために——」


「バルタン殿」


「はい」


「殿下は今日、休んでいる。明後日以降、改めて日程を調整する。それ以上でも以下でもない」


バルタンが少し黙った。


長い沈黙。


「……わかりました」と最終的に言った。「では、明後日以降に改めて」


「ああ」


三人が踵を返した。廊下を歩いていく。


角を曲がる直前、バルタンが少し振り返った。


「……クオン殿は、相変わらず壁ですね」


「そうか」


「……昨日まで違う種類の壁でしたが、今日は別の種類になった気がします」


「どう違う」


バルタンが少し考えた。


「……昨日までは、邪魔をしている壁でした。今日は、守っている壁です」


それだけ言って、バルタンは角を曲がっていった。


俺はしばらく廊下を見ていた。


扉の向こうから声がした。


「……聞こえてた」


「そうか」


「……守ってる壁、って言われた」


「ああ」


「……なんか、変な言い方だね」


「そうか」


「……でも」とイリナが言った。「……うれしかった」


「なぜ」


「……レンがわたしのことを守ってるって、ちゃんと周りに伝わってるから」


俺は何も言わなかった。



昼前に、トワが来た。


「クオンさん、国王陛下から呼び出しがかかってます」


「今か」


「はい。できれば午前中にとのことで」


「殿下は」


「殿下はまだ休んでいただいて構わないと思います。陛下が会いたいのはクオンさんの方かと」


「わかった」


立ち上がった。


扉の前に向かって言った。


「国王に呼ばれた。少し離れる」


「……どのくらい」


「一時間以内に戻る」


「……わかった」


「誰かが来ても扉を開けるな」


「……開けない」


「貴族が来ても、使用人が来ても、名前を名乗っても開けるな。声だけで判断するな」


「……わかった」


「トワだけは例外だ」


「……うん」


俺はトワと一緒に廊下を歩いた。


「相変わらず細かいですね」とトワが言った。


「細かくない。必要なことだ」


「まあ、そうですね」


少し間があった。


「クオンさん」


「なんだ」


「今日の城内、見ましたか。殿下の見られ方が変わってきています」


「わかっている」


「すれ違う使用人の目が違う。怖がってる目じゃなくて、なんか……期待してる目になってる。不思議ですよね。昨日まで廊下を歩けば逃げられてた殿下が」


「一日で変わることもある」


「そうですね。人って案外そういうもので。何かが起きると、それまでの見方が全部ひっくり返る」


「ただし」と俺は言った。「見方が変わっただけだ。中身は何も変わっていない。イリナは昨日も今日も同じイリナだ」


トワが少し黙った。


「……それを言えるのは、クオンさんだけですね」


「なぜ」


「みんな、今日から見始めたから。でもクオンさんは昨日まで見てきたから」


「ああ」


「……そうですね」とトワが言った。今度は少し違う声だ。軽い営業トーンの下に、何かが滲んでいる。「昨日まで見てきた人間が一人いるって、それだけで全然違う」


俺は何も言わなかった。



謁見の間に入ると、国王が一人で座っていた。


珍しい。いつもは側近か貴族が何人かいる。


「来てくれたか、レン殿」


「お呼びとのことで」


「座れ」


俺は椅子を引いて座った。


国王が俺をしばらく見た。疲弊度は昨日より少し低い。73%だ。まだ高いが、わずかに違う。


「昨日の会談の話は聞いた」


「はい」


「……本当に、イリナがあれをやったのか」


「イリナ殿下がやりました」


「俺が見ていた限り、殿下は会談室に入る前まで全身が震えていた。あれで、あんなことができるのか」


「震えても言葉は出る。それを殿下は証明した」


国王が少し黙った。


「……俺は父親として、情けない話だが」と国王が言った。「あの子のことが、長年わからなかった。何が怖くて、何ができて、何を望んでいるのか。全部わからなかった」


「はい」


「昨日、会談室の中でイリナの声を聞いた。あんな声を聞いたのは、神託が出た直後以来だ。あのとき、あの子は泣いていた。周囲の目が変わったことが怖くて、泣きながら部屋に閉じこもった。それ以来、まともに声を聞いていなかった」


俺は黙って聞いた。


「昨日の声は、違った。震えていたが、別の種類の震えだった。怖さじゃなくて、力が漲っているような声だった」


「そうでした」


国王が俺を見た。


「……お前はどうやったんだ。俺にも貴族にもできなかったことを」


俺は少し考えた。


「何もしていません」


「何もしていない、というのは」


「殿下の力は最初からございました。使う機会がなかっただけです。私がやったのは、その機会を作ることだけです」


「機会を作る、というのは具体的に何をやったんだ」


「毎日扉の前に座りました。それだけでございます」


国王が少し笑った。疲れた笑いだが、本物の笑いだ。


「それだけ、とはとても思えないが」


「細かく申し上げればいろいろございます。ただ、根本はそこです」


「……お前がイリナの隣にいたから、か」


「殿下が自分でお動きになったのです。私はそれを止めなかっただけです」


国王がしばらく俺を見た。


「レン殿」


「はい」


「これからも、イリナの隣にいてくれるか」


俺は少し間を置いた。


「それが俺の仕事です」


「仕事だけか」


俺はまた少し間を置いた。


「……それだけではないかもしれません」


国王が少し目を細めた。


「正直な男だ」


「はい」


「イリナが今日、休んでいると聞いた。貴族の連中が押しかけようとしているらしいが」


「午前中は通しませんでした」


「そうか。ありがとう」


「午後は殿下のご意向次第です。状態を見て、動けると判断したら対応します」


「無理させるな」


「させません」


国王が少し息をついた。


「……昨日の会談の結果だが」と国王が言った。「シャルロフが本国に持ち帰ることに合意した。友好通商条約の可能性が開いた。城内でも話題になっている。ただ」


「ただ?」


「喜んでいいのかどうか、まだわからない。貴族たちの動きを見ていると、また別の思惑が動き始めている気がして」


「動いています」


「やはりそうか」


「ただ、今の動きはそれほど危険ではございません。昨日まではイリナ殿下を使えない姫として排除しようとしていた。今日からは使える切り札として取り込もうとしている。取り込もうとしている間は、潰そうとはしません」


「それは一時的なものか」


「取り込みに失敗したと判断したとき、また排除の動きに変わる可能性があります。その前に、殿下が誰かの手の届かない位置に立つ必要があります」


「誰かの手の届かない位置、とは」


「全方位に等距離を保ちながら、全員が殿下を必要とする状態を作る。どの派閥も殿下を切ることができない状況にする。そうなれば、排除の動機がなくなります」


国王が少し考えた。


「……それを、イリナができるか」


「できます。昨日、殿下はそれを証明しました」


「昨日は外交官一人が相手だった。城内の貴族全員が相手では規模が違う」


「原理は同じでございます。相手の利益を把握して、それを使って動かす。人数が増えても、基本は変わりません」


国王がしばらく俺を見た。


「……お前は、イリナがどこまでできると思っているんだ」


俺は少し考えた。


「測れません」


「測れない?」


「上限が見えません。昨日の会談の前、私の頭の中には成功率が出ておりました。99%でした。それが今日は出ない。理由は、測れる範囲を超えたからです」


国王が少し目を丸くした。


「……それは」


「殿下が動いた瞬間に、測定値の上限が消えました。どこまでできるかを測る指標がなくなった。それがどういう意味かは、私にもまだわかりません」


長い沈黙。


「……わかった」と国王が言った。「引き続き頼む」


「はい」


「イリナのことを、よろしく頼む」


「はい」



謁見の間を出て廊下を歩きながら、頭の中を整理した。


国王との話で確認できたことがいくつかある。


国王はイリナを手放す気がない。親として、王として、両方の意味で。それは好材料だ。


ただ、貴族の動きは予断を許さない。バルタンが今日中に接触してくる可能性はまだある。ターランとヴォルは別の方向から動いてくる可能性がある。


午後の対応を決める必要があった。


北棟に戻ると、廊下にトワが座っていた。


いつも俺が座っている場所だ。


「クオンさん、おかえりなさい」


「何があった」


「いやあ、ちょっと」とトワが立ち上がった。「バルタン殿が昼前にもう一回来まして。私が対応しました」


「何を言ってきた」


「明日の午前中に殿下と会いたいと。それから」とトワが少し声を低くした。「ターラン殿のところから使いが来ました。こちらは書状で。殿下に直接お渡ししたいとのことで、私が預かっています」


「内容は」


「開けていません。殿下宛の書状ですから」


「ガルダは」


「まだ動いていません。やはり慎重な方ですね」


「ヴォルは」


「ヴォルはターランと一緒にいたんですが、書状はターランだけが出しました。ヴォルはまだ様子を見ているのかもしれません」


俺は少し考えた。


ターランが先に動いた。農地と交易路の利益という明確な動機がある。ヴォルはまだ待っている。二人の間に優先順位の違いがある。これは使える。


「わかった。ターランの書状は殿下に渡す。午後の対応を決める」


「はい。あと、クオンさん」


「なんだ」


トワが少し笑った。今日一番の本物の笑いだ。


「城内の空気、変わってきてますよ。さっき中庭を歩いてたら、使用人の子がこっそり教えてくれたんですが、『姫殿下がガルディアの使節をやっつけた』って話が下働きの子たちの間にも広まってて、なんか盛り上がってるみたいで」


「やっつけた、か」


「伝言ゲームってすごいですよね。どんどん変わっていく。でも、根っこにある感情は本物だと思いますよ。長年怖がられてた殿下が、城を守ったって話になってる。そういう感情は案外、正確に伝わるんです」


「そうか」


「それと」とトワが言った。「さっき侍女の子が一人、こっそり北棟の廊下まで来て、扉に小さな花を置いていきました。殿下への贈り物だと思います。誰かに言われたわけじゃなく、自分で来たみたいで」


俺は扉の方を見た。


扉の前、床に、小さな白い花が一本置いてある。


「……そういうことか」


「そういうことです」とトワが言った。軽い口調だが、目が少し違う。「十年間、あの扉の前に花を置いた人間は一人もいなかった。今日、初めて置かれた」


廊下に静かな時間が流れた。


「……クオンさん」


「なんだ」


「殿下に話してあげてください。今日、城内で何が起きてるか。使用人の子が花を置いていったことも」


「ああ」


「殿下、知った方がいいと思うので」


「わかった」



扉の前に座った。


「起きているか」


「……うん」


「少し聞け」


「……なに」


「今日の城内の話だ」


俺はかいつまんで話した。朝からのざわめき。期待値が上がっていること。下働きの使用人の間に話が広まっていること。


最後に言った。


「扉の前に花が置いてある」


「……え」


「侍女が一人、誰にも言われずに持ってきた」


「……花?」


「白い花だ。小さい。一本」


扉の向こうで、しばらく何も聞こえなかった。


「……なんで」


「昨日のことが伝わったからだろう」


「……わたし、昨日そんな大したことしてないよ」


「お前がそう思うかどうかは関係ない。花を置いた子はそう思ったんだ」


また沈黙。


「……見てもいい?」


「いい」


扉がゆっくりと開いた。


イリナが顔を出した。いつもの白い長衣。まだ少し眠そうな顔だ。


床の花を見た。


じっと見た。


長い時間、見ていた。


「……白い花だ」


「ああ」


「……なんていう花」


「わからない」


「……調べる」


「調べなくていい」


「……調べたい」


「わかった」


イリナがゆっくりとしゃがんで、花を拾った。


細い指で、そっと持った。


「……誰が置いたの」


「侍女の子だ。名前はわからない」


「……名前、知りたい」


「なぜ」


「……お礼が言いたい」


俺は少し考えた。


「トワに聞いてみる」


「……うん」


イリナが花を持ったまま、立ち上がった。


部屋の中に入った。戻ってくるかと思ったが、戻ってこなかった。


少しして、また顔を出した。


「……花瓶に入れた」


「そうか」


「……部屋に花があるの、初めて」


「そうか」


「……なんか」とイリナが言った。「……変な感じがする」


「どういう感じだ」


「……部屋にいるのに、外とつながってる感じ。花が外から来たから」


俺はその言葉を聞いた。


外とつながってる感じ。


扉一枚で隔てられていた場所に、今日初めて外から花が届いた。


「……レン」


「なんだ」


「……昨日のこと、城内に広まってるって言ってたけど」


「ああ」


「……みんな、どう思ってるの。わたしのこと」


俺は少し考えた。


頭の中に、今日一日の数字を思い返す。


「昨日まで怖がっていた。今日は期待している」


「……怖がってたのが期待に変わったの?」


「そうだ」


「……早いね」


「一日で変わることもある」


「……なんで変わったの」


「動いたからだ。動く前と動いた後では、見え方が変わる」


「……動いたのはわたしだけど、見え方が変わったのはみんな」


「そうだ」


「……それって」とイリナが言った。「……すごいね。わたし、何かを変えたんだ」


「ああ」


「……城内を変えた」


「ああ」


「……一回動いただけで」


「一回動いただけで変わった。次に動けば、さらに変わる」


イリナが少し間を置いた。


「……次、何をする」


「午後に貴族との対応がある。ターランから書状が来ている」


「……どんな内容?」


「まだ開けていない。お前宛だ」


「……見る」


「体は大丈夫か」


「……さっきより動く」


「わかった。持ってくる」


俺は立ち上がって、トワからターランの書状を受け取り、戻ってきた。


扉の隙間から差し出した。


イリナが受け取った。


しばらく読む音がした。


「……ターランだ」


「ああ」


「……南部の農地を持ってる。交易路問題が解決されれば農機具のコストが下がる。直接利益がある」


「そうだ」


「……書状の内容は、殿下のご意向を直接聞かせてほしい、というもの。婉曲えんきょくな表現だけど、要するに昨日の会談の成果を自分の利益に結びつけたいということ」


「正確だ」


「……どうする」


「お前が決めろ」


「……わたしが」


「昨日から変わった。今日からはお前が決める。俺は実行する」


扉の向こうで、少し考える気配がした。


「……会う」


「理由は」


「……ターランの動機は単純で明快。農地の利益。こういう人は話が早い。昨日の話の内容を確認して、農機具の相互依存条項が条約に入ることを口頭で確認する。その代わり、国内で条約賛成の声を上げさせる。ガルディアへの友好通商条約賛成の国内世論を作る作業を、ターランにやらせる」


「完璧だ」


「……バルタンは」


「明後日以降と伝えてある」


「……バルタンは後でいい。バルタンは財務統括だから、条約の数字を精査する段階で必要になる。今は動かさなくていい。その前にターランとヴォルで地盤を固める」


「ヴォルとは」


「……ターランと会った後で声をかける。ヴォルは様子見してるから、ターランが動いたと知れば動く。ヴォルは軍の後方だから、友好通商条約で軍事費が削減された場合の具体的な数字を出させる。国内の条約賛成の根拠として使う」


俺はその分析を聞きながら、頭の中で数字を確認した。


イリナの判断精度:——


数字が出ない。


測定できない。


「……レン」


「なんだ」


「……これ、合ってる?」


「合っている」


「……本当に?」


「本当だ。昨日のシャルロフとの交渉と同じ構造だ。相手の利益を把握して、それを使って動かす。ただし今回は複数同時だ」


「……複数同時の方が難しい?」


「難しいが、お前はそれができる」


「……根拠は」


「今説明した内容が、俺が考えていた内容と一致していたから」


「……またその根拠の出し方」


「一番確実だ」


イリナが少し笑う気配がした。


「……わかった。ターランとの面談、今日の午後にセットして」


「了解した。何時がいい」


「……三時以降。少し休む時間が欲しい」


「三時以降でセットする」


「……レン」


「なんだ」


「……今日、忙しくなったね」


「そうだ」


「……昨日まで静かだったのに」


「昨日まで扉が閉まっていたからだ。扉が開いたから外が入ってくる」


「……それって、ちょっと怖いね」


「怖くていい。怖くても動ける、と昨日証明した」


「……そうだね」


少し間があった。


「……レン」


「なんだ」


「……今日の花瓶の花、夜もそこにある?」


「あるだろう。水を入れれば数日は咲いている」


「……そっか」


「なんだ」


「……なんか、部屋に花があるって、いいな、と思って」


「そうか」


「……また、来るかな。花を置いてくれる人」


「来るかもしれない」


「……来てほしい」


「侍女の名前、トワに聞いておく」


「……うん」


扉の向こうで、ぱたぱたと何かを動かす音がした。たぶん花瓶を動かしているのだろう。


俺は廊下に座ったまま、頭の中の数字を確認した。


イリナの信頼値:——


計測限界。変わらない。


城内全体の期待値:68%


昨朝は63%だった。半日で5ポイント上がっている。


扉の前に白い花が一本あった場所には、今は何もない。


部屋の中の花瓶に、その花が入っている。


昨日まで、イリナは部屋の中にいた。城の外から何も届かなかった。今日、初めて一本の花が届いた。


明日は何が届くか、わからない。


廊下の窓から、午後の光が入ってくる。


今日の仕事は、まだ終わっていない。


三時になれば、ターランが来る。


イリナが動く。


扉の向こうで、ページをめくる音が始まった。


いつもの音だ。でも、今日は少し違う。速い。何かを調べているときの音だ。


「……レン」


「なんだ」


「……ターランの農地の詳細、城の資料にある?」


「記録室にある」


「……取ってきてくれる?」


「今から行く」


「……あと」


「なんだ」


「……ヴォルの軍の予算書も。直近三年分」


「わかった」


「……ついでに、ドレツァの穀物生産統計も。南部三州の分」


「ついでの量じゃない」


「……ごめん。でも欲しい」


「持ってくる」


「……ありがとう」


俺は立ち上がった。


記録室は東棟の二階だ。それなりに距離がある。


でも、急ぐ理由がある。


三時まで、あと二時間半しかない。


廊下を歩きながら、頭の中に数字が浮かんだ。


イリナの準備完了予測時刻:二時五十分


成功率とは違う種類の数字だ。初めて出た。


三時の面談まで、あと二時間半。二時五十分が準備完了なら、資料は二時までに届けたい。読む時間が必要だ。


俺は歩を速めた。

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