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引きこもり天才姫は俺にしか懐かない〜存在しない者が、一人の姫の一生を見届ける〜  作者: アルコール吸引マシン5号
第一部「天才、解き放たれる」

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第二十九話 崩れる

部屋に戻った。


イリナが扉を開けて中に入った。俺は廊下に残ろうとした。


「……レン」


「なんだ」


「……入ってきていい」


「いいのか」


「……うん」


俺は部屋に入った。


イリナが部屋の真ん中に立っている。淡い青の長衣。銀がかった金髪。会談の間中、一本の乱れもなかった。


ぷるぷる、ぷるぷる。


全身が震えている。


「……なんか」とイリナが言った。「……足が、うごかない」


「そうか」


「……立ってるのが、やっと」


「座れ」


「……うん」


イリナがその場にへたり込んだ。


どさっ、という音がした。座るというより、落ちた感じだ。長衣が床に広がる。


床に座ったまま、イリナが両膝を抱えた。


「……あ」と小さく言った。


「なんだ」


「……足、震えてる」


「見えてる」


「……手も震えてる」


「見えてる」


「……声も震えてる?」


「震えてる」


「……全部震えてるじゃん」


「ああ」


イリナが膝に顔を埋めた。


しばらく、何も言わなかった。


俺は壁に背をもたれて、立ったまま待った。


部屋に静寂が戻る。窓の外で、夕暮れの風が木を揺らしている。



「……レン」


「なんだ」


「……終わった?」


「終わった」


「……本当に?」


「本当だ」


「……ちゃんと終わった?」


「ちゃんと終わった」


「……シャルロフ、帰った?」


「帰った」


「……条約の話、ちゃんと伝わった?」


「伝わった」


「……持ち帰り意思、確認できた?」


「できた」


イリナが膝に顔を埋めたまま、少し間を置いた。


「……わたし、失敗した?」


「していない」


「……本当に?」


「本当だ」


「……絶対に?」


「絶対に」


長い沈黙。


「……ねえ、レン」


「なんだ」


「……もう一回言って」


「何を」


「……失敗してないって」


俺は少し考えた。


「失敗していない」


「……もう一回」


「失敗していない」


「……もう一回」


「失敗していない」


膝に埋めた顔の向こうで、何かが聞こえた。


くすっ、という音だった。


「……なんか」とイリナが言った。「……何回でも言ってくれるんだ」


「何回でも言う」


「……変な人」


「そうか」


「……でも」


イリナが顔を上げた。


目が赤い。泣いてはいない。でも、泣く一歩手前みたいな顔だ。


「……ありがとう」


俺は何も言わなかった。



「……ねえ」とイリナが言った。「……今、成功率って出る?」


頭の中を確認する。


イリナの成功率:——


数字は出ない。昨日の夜と同じだ。


「出ない」


「……なんで」


「測る必要がなくなったから」


「……どういう意味」


「成功率が出るのは、これからどうなるかわからないときだ。お前はもう動いた。結果が出た。測るものがない」


イリナが少し考えた。


「……それって」


「なんだ」


「……もう、成功率って出ないってこと?」


「次のことをやろうとすれば出る」


「……次のこと」


「次に何かをやるとき、また出る。今日のことは終わった」


「……そっか」


イリナが膝を抱えたまま、窓の方を見た。


夕暮れの光が部屋に差し込んでいる。橙色の光だ。


「……今日、ずっと震えてた」


「見えてた」


「……声も震えてた。気づいてた?」


「気づいてた」


「……最初の一言、すごく震えてた。シャルロフに気づかれてたかな」


「気づかれてたと思う」


「……えっ」


「ただ」と俺は言った。「それでも言葉は出た。震えても止まらなかった。シャルロフにはそっちの方が伝わった」


イリナが少し間を置いた。


「……震えてても、止まらないことの方が大事?」


「震えない人間は信頼できない。怖くないなら、本気じゃないってことだ」


「……そういう考え方、したことなかった」


「今日わかったか」


「……うん」


イリナが窓の光を見ながら、少しだけ口元を緩めた。


笑い、というより、力が抜けた顔だ。


「……なんか、へなへなする」


「そうか」


「……ずっと緊張してたから。終わったら、一気に来た」


「そういうものだ」


「……レンも、そういうことある?」


「ある」


「……どんなとき」


俺は少し考えた。


「お前が初めて部屋から出たとき」


イリナが少し目を丸くした。


「……あのとき緊張してたの?」


「していた」


「……なんで。わたしが外に出ただけじゃん」


「お前が外に出ることに、俺の仕事の全部が乗っかっていた。失敗したら全部が無駄になる」


「……そんなに大事なことだったの」


「そうだ」


イリナが少し考えた。


「……緊張したのに、顔に出てなかった」


「出さない訓練をしていた」


「……どんな訓練」


「元の世界での話だ。政治家の秘書をやっていたから、表情を制御することが必要だった」


「……政治家の秘書」


「レン、本名は久遠蓮くおんれん。心理学専攻。元政治家の私設秘書。罪をなすりつけられて自暴自棄でさまよっているところをトワにスカウトされた。そういう経歴だ」


イリナが少し笑った。今度は本物の笑いだ。


「……なんか、自己紹介みたいになってる」


「聞いたから答えた」


「……わたし、レンのこと意外と知らないな」


「知らなくてもいい部分だ」


「……知りたい」


俺は少し間を置いた。


「聞けば答える」


「……じゃあ、一個だけ」


「なんだ」


「……ここに来たこと、後悔してる?」


俺は少し考えた。


窓の外で、夕暮れの光が少し濃くなっていく。


「していない」


「……なんで」


「後悔する理由がない」


「……理由が必要なの?」


「俺はそういう考え方だ」


「……変な人だね」


「そうか」


「……でも」とイリナが言った。「……それで、いい」


さっきも同じことを言っていた。


俺は何も言わなかった。



部屋の中が少しずつ暗くなってきた。


夕暮れが夜に変わっていく。


イリナはまだ床に座ったままだ。膝を抱えて、窓の外を見ている。震えは少し収まってきた。


「……ねえ、レン」


「なんだ」


「……条約、本当に成立すると思う?」


「わからない。シャルロフが本国に持ち帰って、皇帝が裁可を出して、帝国内の承認プロセスを経る必要がある。早くても半年。長ければ一年以上かかる」


「……その間に何か邪魔が入る可能性は」


「ある」


「……ドルドフ将軍が動く可能性は」


「ある」


「……最悪の場合は」


「条約が成立する前に軍事的な圧力がかかる可能性がある」


イリナが少し眉を寄せた。


「……そのときは」


「そのときは別の手を考える」


「……今から考えておかない?」


「今日はやめろ」


「……なんで」


「今日はもう十分動いた。体が限界に来ている。考えるのは明日以降でいい」


イリナが少し口を尖らせた。


「……別に大丈夫だけど」


「大丈夫じゃない」


「……大丈夫だって」


「全身震えながら床に座ってる人間が大丈夫と言っても信頼できない」


「……うっ」


「休め」


「……でも、考えたいんだけど」


「明日考えろ」


「……レンがいれば考えられるんだけど」


「俺がいても今日はやめろ」


「……ドルドフ将軍のこと、一個だけ」


「やめろ」


「……冷たくない?」


「冷たくない。今日は休む日だ」


また少しの間があった。


「……わかった」とイリナが言った。


あっさりしていた。


俺は少し拍子抜けした。珍しく素直だ。


「……でも」とイリナが続けた。「……隣にいてくれる?」


「ここにいる」


「……もう少し隣に」


俺は壁から離れて、イリナの隣に座った。


床に直接座る。イリナの隣、少し間を空けて。


「……もう少し」


「これ以上は近い」


「……別に近くてもいいけど」


「俺が近い」


「……なんで」


「近すぎる」


「……意味わからない」


俺は何も言わなかった。


イリナが少し間を置いてから、俺の方に少し寄ってきた。


「……これくらいは」


「……まあ、いい」


「……よかった」


窓の外が完全に暗くなっていく。


部屋に灯りがついていない。二人とも、暗くなっていく部屋の中に座っていた。



扉を叩く音がした。


「失礼します、殿下。夕食の準備が——」


侍女の声だ。


イリナがびくっと肩を動かした。俺から少し離れた。


「……あ、の」とイリナが言った。「……今日は、いらないです」


「はあ、でも殿下、今日は何も召し上がっていないので——」


「……いらないです」


「でも殿下——」


「いらないです」


「……かしこまりました」


足音が遠ざかっていく。


静寂が戻った。


「……食べないのか」と俺は聞いた。


「……食欲がない」


「今日は消耗した。食べた方がいい」


「……食欲がないって言ってるじゃん」


「食欲がなくても食べれるものはある」


「……たとえば」


「パンと白湯さゆくらいなら入るだろう」


「……入らない」


「入る」


「……入らないって」


「試してみないとわからない」


「……入らないって感覚でわかる」


「感覚は当てにならない」


イリナが少し口を尖らせた。


「……レン、しつこい」


「お前が食べないと言い張るからだ」


「……大人じゃん、わたし。自分で判断できる」


「今日の判断は信頼できない」


「……なんで」


「さっき全身震えながら床に座って足が動かないと言っていた人間の判断だから」


「……それは別の話じゃん」


「同じ話だ。体が限界のときは判断が歪む」


イリナが少し黙った。


それから、渋々という感じで言った。


「……パンだけなら」


「それでいい」


「……白湯はいらない」


「わかった」


「……少しだけ」


「少しでいい」


俺は立ち上がって扉を開けた。廊下に侍女がまだいた。


「パンを一つ持ってきてくれ」


「かしこまりました」


数分後、パンが届いた。小さな丸いパンだ。


俺はそれをイリナに渡した。


イリナが少し眺めてから、小さく噛んだ。


「……」


「どうだ」


「……食べれる」


「そうだろう」


「……なんか悔しい」


「なぜ」


「……レンの言った通りだから」


「言った通りだったか」


「……うん」とイリナが言った。少しだけ口を尖らせながら、パンを食べている。


頭の中に、数字が浮かんだ。


イリナの体力回復率:ゆっくり上昇中


数字ではなく、そういう表示が出た。


初めての表示だ。


俺はそれを確認して、また壁に背をもたれた。



パンを食べ終わったイリナが、また膝を抱えた。


「……ねえ、レン」


「なんだ」


「……今日、会談の後、シャルロフと目が合った」


「知ってる」


「……廊下で、レンと話してたの見てた」


「見ていたのか」


「……扉の隙間から、少し」


「そうか」


「……シャルロフ、レンのこと秘書って言ったんだね」


「そう答えた」


「……本当に秘書なの?」


「秘書のようなものだと言った」


「……秘書のようなもの、って何」


俺は少し考えた。


「定義しにくい」


「……定義してみて」


「お前の仕事をやりやすくするための人間、ということだ」


「……それ、秘書じゃなくて従者じゅうしゃじゃない?」


「似たようなものだ」


「……秘書と従者は違う。秘書は対等なの。従者は主従関係しゅじゅうかんけいがある」


「それはどっちが上だ」


「……秘書は雇用関係。従者は忠誠関係。全然違う」


「お前はどちらだと思う」


イリナが少し考えた。


「……どっちでもない気がする」


「どういうことだ」


「……レンはわたしのために動いてくれてる。でも、わたしの言うことを全部聞くわけじゃない。さっきも休めって止めた。食べろって言った」


「それが秘書の仕事だ」


「……秘書って暴走止めるの?」


「優秀な秘書はそうだ」


「……じゃあ優秀な秘書だね」


「そうか」


「……でも、秘書って感じじゃない。もっと……」


イリナが言葉を探すように、少し間を置いた。


「……なんだろう。うまく言えない」


「うまく言えなくていい」


「……でもなんか、言葉が欲しい気がする」


「なぜ」


「……なんか、レンとの関係を、ちゃんと呼びたい気がする。秘書でも従者でもない、別の何かで」


俺は少し考えた。


窓の外で、夜の虫が鳴き始めている。


「……まだ、言葉がない」


「そうか」


「……いつかできる?」


「わからない」


「……わからないって正直だね」


「わからないものをわかると言っても意味がない」


イリナが少し笑った。


「……レンって、そういうところがあるよね」


「どういうところだ」


「……わからないものをわからないって言う。できないことをできないって言う。でも、できることは必ずやる」


「当たり前のことだ」


「……当たり前じゃない人の方が多い」


「そうか」


「……うん。だからわたし、レンのことが」


イリナが少し言葉を止めた。


「……信頼できると思う」


「そうか」


「……うん」


窓の外で、虫の音が続いている。


部屋の中は暗いが、月明かりが少し入ってきた。



「……ねえ」とイリナが言った。


「なんだ」


「……疲れた」


「そうか」


「……すごく疲れた」


「今日は消耗した」


「……こんなに疲れたの、初めてかも」


「そうだろう」


「……でも」


イリナが少し間を置いた。


「……なんか、いい疲れ方」


「どういう意味だ」


「……使った疲れ。消耗した疲れ。今まで部屋にいたときの疲れって、何もしてないのに疲れる感じだった。でも今日は全部出した疲れだから、なんか違う」


俺はその言葉を聞いた。


何もしてないのに疲れる。


十年間、イリナはそういう疲れを抱えていた。知識があって、力があって、でも使えない。使わせてもらえない。それがどれだけのものだったか、俺には全部はわからない。


でも、今日は違った。


「……全部出した、か」


「……うん。全部出したら、空っぽになった感じがする。でも、空っぽって悪くないんだね」


「空っぽになると、また入る」


「……何が入るの」


「次のものが」


「……次のもの」


「お前がやりたいこと。使いたい知識。動かしたい手」


イリナが少し考えた。


「……そっか」


「ああ」


「……次も、やれる?」


「やれる」


「……根拠は」


「今日やれたから」


「……それが根拠なの、また」


「一番確実な根拠だ」


イリナが少し笑った。


「……レン、同じことしか言わないね」


「同じことしか言えない」


「……うん」とイリナが言った。「……でも、好き」


俺は少し間を置いた。


「……好き?」


「……レンの言い方が。短くて、でも確かな感じがするから」


「そうか」


「……うん」


また、少しの沈黙。


イリナが床に座ったまま、壁にもたれた。目が少し重くなってきている。


「……眠い」


「床で寝るな」


「……ここが楽なんだけど」


「床は体に悪い」


「……別にいいじゃん」


「よくない」


「……レン、また細かい」


「細かくない。明日も動けるようにしておく必要がある」


「……明日は動かなくていい」


「動くことになる」


「……なんで」


「城内がざわついている。会談の結果が広まり始めたら、対応が必要になる」


「……明日はゆっくりしたいんだけど」


「半日はゆっくりしていい」


「……半日?」


「午前中はゆっくりしろ。午後に動く」


「……午後に何が起きるの」


「まだわからない。でも起きる」


イリナが少し眉を寄せた。


「……根拠は」


「今日の会談の結果が、城内に広まるのに半日はかかる。広まった後に動き出す人間がいる。それが誰かはまだわからない」


「……動き出す人間って、貴族?」


「可能性が高い」


「……何をしてくると思う」


俺は少し考えた。


頭の中に確率が浮かぶ。


貴族の次の動き:様子見 47% 取り込もうとする 38% 潰そうとする 15%


「様子見が一番多い。次に、お前を味方につけようとする動きが来る」


「……取り込もうとするって、どういうこと」


「今日まで『扱えない姫』だと思っていた連中が、『使える切り札』だと気づく。そうなると、自分の派閥に引き込もうとする」


「……めんどくさい」


「そうだ」


「……どうすればいい」


「全員に対して等距離を保つ。どの派閥にも肩入れしない。ドレツァ王家の第一王女としての立場だけを使う」


「……等距離外交とうきょりがいこう


「そうだ」


「……読んだことある。弱小国が強国の間で生き残るための基本戦略。でも国内派閥相手に使うのは、少し違う」


「どう違う」


「……国外相手の等距離外交は、どっちにもつかないことで安全を確保する。でも国内派閥相手だと、どっちにもつかないことで孤立する可能性がある。国内は外部の脅威がないから、等距離を保つと『使えない』と判断されて無視される」


「正しい。では国内派閥に対してはどうする」


「……全員に少しずつ貸しを作る。どの派閥にも役に立つ情報や判断を提供する。完全に等距離ではなく、全方位で少しずつ関係を持つ。全員が『殿下を完全に切ると損をする』と思う状態にする」


「完璧だ」


イリナが少し間を置いた。


「……でも、それ、すごく疲れる戦略だよ」


「そうだ」


「……全方位に気を使い続けないといけない」


「そうだ」


「……今日みたいに疲れることが、毎日続く感じ」


「毎日ではない。緊張する場面と、そうでない場面がある。全部が今日みたいにはならない」


「……本当に?」


「本当だ。今日は初陣だった。体も心も慣れていなかった。慣れれば消耗が減る」


「……慣れるかな、わたし」


「慣れる」


「……根拠は」


「今日が一番きつかった。それを乗り越えた」


イリナが少し考えた。


「……そういう根拠の出し方、ずるいな」


「ずるくない」


「……なんか、反論できない感じがするから、ずるい」


「事実だから反論できない」


「……うっ」


俺は少し笑いそうになった。こらえた。


「……レン、今笑ってた?」


「笑っていない」


「……笑ってた。口元が動いた」


「気のせいだ」


「……気のせいじゃない。絶対笑ってた」


「……少し、笑いそうになった」


「笑えばいいじゃん」


「あまり笑わない」


「……なんで」


「習慣だ」


「……悲しい習慣だね」


「そうか」


「……笑っていいよ、わたしの前では」


俺は少し間を置いた。


「……善処する」


「……善処って何」


「努力するということだ」


「……なんか、遠い返事だね」


「すぐには変わらない」


「……うん」とイリナが言った。「……別にいい。レンがレンのままでいてくれれば」


窓の外で、虫の音が続いている。


月明かりが少し強くなってきた。



「……ねえ、レン」


「なんだ」


「……一個だけ、今日のこと聞いていい」


「何だ」


「……シャルロフが言ってた。『本物の外交官になられると思います。いや、もうなっておられる』って」


「ああ」


「……あれ、本当に思って言ってたと思う?」


「思って言っていた」


「……なんでわかるの」


「確率表示が出ていた。シャルロフの本心値が高かった」


「……何パーセント?」


俺は思い出した。


シャルロフが廊下で俺に声をかけてきたとき、頭の中の数字は——


シャルロフの本心値:94%


「94%だった」


イリナが少し沈黙した。


「……94%」


「ああ」


「……そんなに」


「十二年間勝ち続けてきた人間が言った言葉だ。重みがある」


イリナがまた黙った。


少し長い沈黙。


「……ねえ、レン」


「なんだ」


「……わたし、泣いていい?」


俺は少し間を置いた。


「いい」


「……泣いてもいいの?」


「いい」


「……なんか、急に泣きたくなった。なんでかわからないけど」


「わかる必要はない」


「……泣いても変じゃない?」


「変じゃない」


「……レンの前で泣いても?」


「いい」


イリナが少し間を置いた。


それから、目を細めた。


じわっ、と何かが滲んだ。


こぼれた。


一粒、ぽとり、と床に落ちた。


それから、もう一粒。


「……なんか」とイリナが言った。声が少し割れている。「……出てきた」


「ああ」


「……なんで泣いてるのか、わかんない」


「わからなくていい」


「……怖かったのかな。それとも、うれしいのかな。わかんない」


「どっちもだろう」


「……どっちも」


「怖くて、それでも動いて、終わったらうれしい。全部が一緒に出てくることがある」


イリナがまた少し泣いた。声は出ていない。静かに、ぽたぽたと。


俺は何も言わなかった。


何か言う必要がないと思った。


ただ、隣にいた。



しばらくして、イリナが目を拭いた。


長衣の袖で、ごしごしと。


「……泣いた」


「ああ」


「……すっきりした」


「そうか」


「……なんか、空っぽになったあとに、また入ってきた感じ」


「何が入ってきた」


「……わかんない。でも、何か入ってきた気がする」


「それでいい」


イリナが深く息を吸った。吐いた。


「……ねえ、レン」


「なんだ」


「……やった」


俺は少し間を置いた。


「ああ」


「……やったね」


「ああ」


「……ちゃんと、やった」


「ちゃんと、やった」


イリナが俺を見た。


泣いたあとの顔だ。目が赤い。でも、口元に何かがある。


笑い、ではない。もっと静かな、でも確かな何かだ。


「……次もやる」


「ああ」


「……次も、隣にいてくれる?」


「いる」


「……絶対に?」


「絶対に」


「……どんなことがあっても?」


「どんなことがあっても」


イリナが少し間を置いた。


「……本当に?」


「本当だ」


「……根拠は」


「お前の隣にいることが、今の俺の仕事だ」


「……仕事だから?」


「仕事だから、という部分もある」


「……他には」


俺は少し考えた。


窓の外で、虫の音が続いている。


「……他にも、ある」


「……何が」


「まだうまく言えない」


「……言えるようになったら教えて」


「わかった」


イリナが少し笑った。今度は本物の笑いだ。


小さく、でもはっきりと。


「……レン、ちょっとだけ進歩したね」


「どこが」


「……前は『わからない』しか言わなかった。今日は『まだうまく言えない』って言った」


「似たようなものだ」


「……全然違う。『わからない』は終わり。『まだ』は続きがある」


俺は少し間を置いた。


「……そうか」


「……うん」とイリナが言った。「……それでいい」


部屋の中に、静かな夜が来ていた。


月明かりが窓から差し込んでいる。


イリナはまだ床に座っていた。俺もまだ壁に背をもたれていた。


「……寝ろ」と俺は言った。


「……もう少しだけ」


「床で寝るな」


「……わかった。でも、もう少し」


「五分だ」


「……十分」


「七分」


「……八分」


「七分半」


「……なにそれ」


「お前が八分と言ったからだ」


「……細かい」


「正確だ」


イリナが小さく笑った。


「……わかった、七分半」


「ああ」


「……レン」


「なんだ」


「……ありがとう」


「今日何回目だ」


「……何回言ってもいいでしょ」


「いい」


「……じゃあ、もう一回。ありがとう」


「ああ」


七分半後、イリナは床から立ち上がった。


ゆっくりと。少し足元が頼りない。


俺は立ち上がって、扉の方に向かった。


「……レン」


「なんだ」


「……明日も来る?」


「来る」


「……何時に」


「八時だ」


「……いつもと同じ」


「同じだ」


「……わかった」


扉を開けた。廊下に出ようとした。


「……レン」


振り返った。


イリナが、扉のそばに立っていた。今日の淡い青の長衣。泣いたあとの、でも少し落ち着いた顔。


「……今日、一番うれしかったこと、知ってる?」


「なんだ」


「……全部じゃなくて、一番」


「知らない」


「……終わって部屋に戻ってきたとき、レンが来てくれたこと」


俺は何も言わなかった。


「……外にいてくれたことも、根回ししてくれたことも、全部うれしかった。でも、一番は、帰ってきたら隣にいてくれたこと」


「……そうか」


「……うん」


「わかった」


「……何がわかったの」


「次もそうする」


イリナが少し目を細めた。


「……それでいい」


扉が閉まった。


廊下に出た。


夜の城の廊下は静かだ。石の壁が月明かりを反射している。


頭の中に、数字が一つだけ浮かんだ。


イリナの信頼値:——


やはり、計測限界を超えている。


数字ではなく、それだけが表示されている。


俺はしばらく扉を見ていた。


扉の向こうで、イリナが動く気配がした。


寝る準備をしているのだろう。


「……やった」という声が、かすかに聞こえた気がした。

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