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引きこもり天才姫は俺にしか懐かない〜存在しない者が、一人の姫の一生を見届ける〜  作者: アルコール吸引マシン5号
第一部「天才、解き放たれる」

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天才の手札① 震えながら無双

はじめまして、の方もそうでない方も。


トワです。


彼岸院ひがんいん所属、異世界転送エージェント、その他いろいろ。まあ、説明が長くなるので省きますね。今日は別の話をしに来ました。


さっきの会談、見てましたよ。廊下で。こっそりと。


いやあ、もう。


どこから話せばいいんですかね、これ。


せっかくなので、ちゃんと解説しましょうか。あの会談で殿下が何をやったのか。なぜあれが「すごいこと」なのか。外交を知らない人にもわかるように、私が噛み砕いてお伝えします。


長年いろんな交渉を見てきましたので。何千年と。


……まあ、その話は置いといて。



まず、相手の話から始めましょう。


ゼーヴ・シャルロフ。ガルディア帝国東方外交局次長。通称「鏡の使節」。


なぜ鏡かというと、相手の言葉をそのまま使って相手を縛るからです。「あなたはさっきこう言いましたね」という使い方が非常に上手い。言質を取って、それを後から条項に変換する技術に長けている。


十二年間で成立させた条約が十七件。全件でガルディア側が利益を得ています。負けなしです。


弱小国の外交官からすると、悪夢みたいな相手ですね。


この人がドレツァに来た理由は、表向きは「ガルディア第二王子とイリナ殿下の婚姻打診」です。でも、本当の目的は違う。そっちは後で話します。


まず、シャルロフが使う手口を三つ覚えておいてください。これを知っているかどうかで、今日の会談の見え方がまるで変わります。



一つ目。「枯渇戦術こかつせんじゅつ」。


やり方はシンプルです。まず相手に全部しゃべらせる。「あなたが求めるものを教えてください」と穏やかに聞いて、相手が要求を全部出し終わったら、優先順位の低いものから順番に潰していく。


相手が気づいたときには、本当に欲しいものしか残っていない。その残った一つも、少しずつ削られていく。最終的に「まあ、これでいいか」という疲れた気持ちで署名させる。


これが枯渇戦術です。


ポイントは「相手に全部しゃべらせること」ですね。一度口に出した要求は、撤回しにくい。撤回すると弱みになる。だから相手は要求を抱えたまま、少しずつ削られていく。


シャルロフはこれが非常に上手い。過去の交渉記録を見ると、序盤で必ず「まずご要望をお聞かせください」というフェーズを作っています。親切そうに見えますが、実はそこが罠の入り口です。



二つ目。「感情汚染かんじょうおせん」。


人間が感情的になると、判断力が落ちます。これは生物学的な話で、脳の扁桃体へんとうたいが活性化すると、前頭前野ぜんとうぜんやの働きが低下する。前頭前野というのは、数字を計算したり、論理的に考えたりする部分です。要するに、怒ったり悲しんだりしているときは、冷静な判断ができなくなる。


シャルロフはこれを意図的に引き起こします。


婚姻の話、国の誇りの話、先祖代々の話。そういう感情が動く話題を会談の途中に混ぜ込む。相手の感情が動いた瞬間、数字の話にスライドする。感情的になっている相手は、条項の細かいところを見落とす。


なかなか意地悪ですね。


でも、効果的なので使い続けているわけです。



三つ目。「偽妥協クロージング《ぎだきょうくろーじんぐ》」。


これが一番やっかいです。


交渉の最後に、シャルロフは必ず「わかりました、では一つ譲歩しましょう」と言います。これが罠です。


譲歩する内容は、最初から譲っても構わないと思っているものです。どうでもいい条項を「大きな譲歩」のように見せて、相手に「勝った」という気持ちを与える。勝った気分になると、人は早く署名したくなる。その心理を突いて、核心部分は一切譲らずに締結まで持っていく。


コルハットとの交渉でシャルロフが一度つまずいたのは、この第三段階でコルハット側が予想外の対応をしたからです。相手が「勝った気分」にならずに、もう一押しを要求してきた。それを見通せなかった。


ただ、コルハットが後から条項を履行しなかったのは、シャルロフの責任ではないと私は思っています。あれは相手方の信義の問題です。でも、帝国内で批判を受けた。そういう事情を殿下は知っていた。


知っていて、会談の途中で使った。


その話は後で。



さて。


この三つの手口を持つシャルロフが来た。


殿下はどうしたか。


答えは一言で言えます。「全部知っていた」。


十年間、部屋の中で交渉記録を読み続けた殿下は、シャルロフの過去の交渉を全件把握していました。レーデンの五年前、コルハットの三年前、ベルト公国の去年。全部読んでいた。手口も、傾向も、癖も。


でも、知っているだけでは足りない。


知識を、あの部屋で、震えながら、使えるかどうかが問題です。


そこが今日の話の核心です。



殿下が会談の席に着いたとき、全身が震えていました。


私は廊下で聞いていましたから、声の揺れで少しわかりました。最初の一言、かすかに震えていた。


でも、止まらなかった。


なぜ止まらなかったか。


人間が恐怖を感じると、体が震えます。心拍数が上がる。声が揺れる。これは正常な反応です。扁桃体が「危険だ」と判断して、体を戦闘態勢に置く。


ただし、この反応は「知識そのもの」を消しません。


たとえば、長年自転車に乗り続けた人は、緊張しても自転車に乗れます。体が覚えているからです。運動記憶は、恐怖で消えない。


殿下の知識も同じです。十年間、毎日読み続けた外交の知識。それは扁桃体の反応より深い場所に刻まれている。体が震えていても、知識は出てくる。


今日、それが証明されました。



では、具体的に何をやったか。順番に見ていきましょう。



最初の一手。婚姻打診の封じ方。


シャルロフが「ガルディア第二王子殿下は、かねてよりお噂を耳にされておりまして」と切り出した瞬間、殿下はこう返しました。


「ありがたく存じます。ただ、そちらの殿下ご本人のお気持ちを直接確認する必要がございます。第二王子殿下より直接お気持ちを伺う機会をいただけますでしょうか」


これ、地味に見えてものすごくうまい。


まず、拒絶していない。「お断りします」と言っていない。だから感情的な対立が生まれない。


次に、正当な手続きを要求している。婚姻を進めるなら当人確認が必要、というのは礼儀として正しい。シャルロフも「もちろんです」と言わざるを得ない。


そして、時間を稼いでいる。第二王子が実際にドレツァまで来る可能性はほぼゼロです。遠隔で意思確認をするにも時間がかかる。その間に話題を変えられる。


さらに、感情汚染の入り口を塞いでいます。婚姻という感情が動きやすい話題を、手続き論という無味乾燥な話に変換した。シャルロフが感情的な角度から攻めようとしても、「手続きを踏んでからですね」と返せばいい。


一言でここまでやる。


十年分の読み込みがないと、とっさに出ません。



二手目。枯渇戦術を逆転させる。


シャルロフが「交易路の件でご相談が」と本題に入ろうとした瞬間、殿下が遮りました。


「南回り交易路の中継手数料についてですが、現行の料率は条約四十二条第三項に基づくものです。制定は五十三年前——」


これが枯渇戦術への完璧な対応です。


枯渇戦術は「相手に全部しゃべらせてから削る」手口でした。逆に言えば、こちらから先に全部しゃべってしまえば、向こうの戦術が機能しない。相手が削るべき要求を、こちらが既に分析して並べてしまっている。


さらに殿下がやったのは、ガルディア側の問題点を先に全部言ってあげることです。「現在の物価指数との乖離は二・三倍。ガルディアの不満は理解できます」。相手の言いたいことを先取りして、それに対する答えまでセットで出している。


シャルロフが何かを言う前に、論点の整理が終わっている。


「は、はあ……」というシャルロフの反応が全てを物語っています。想定していなかった。百戦錬磨の外交官が、最初の数分で完全に受け身に回った。



三手目。段階的逓減料率と相互依存条項。


ここが専門的な話になります。


手数料を下げろというガルディアの要求に対して、単純に「下げます」「下げません」と答えるのは最悪の手です。下げれば財政が悪化する。下げなければ関係が悪化する。どちらに転んでも損をする。


殿下が出したのは「段階的逓減料率だんかいてきていげんりょうりつ」という仕組みです。


簡単に言うと、たくさん使えば使うほど安くなる、という料金体系です。ガルディアが南回り交易路で運ぶ量が増えれば、実効的な税率が下がる。


これはガルディアにとっても悪くない。物流量を増やせばコストが下がる。増やす動機が生まれる。ドレツァにとっては、量が増えれば手数料の総額は増える。お互いに得をする構造です。


さらに「相互依存条項そうごいそんじょうこう」も提案しました。ドレツァ南部はガルディア製農機具に依存している。その依存を相互依存の形に組み替える。農機具の優先供給と交易路の安定を連動させる。


一方が損をする条約は長続きしません。どちらも得をする構造を作ることが、条約を守らせる一番確実な方法です。


殿下はそれを、その場で即興で出しました。震えながら。



四手目。本音を引き出す直球質問。


「ガルディアが本当に求めているのは何ですか」


これが今日の会談で一番好きな場面です。私的に。


外交の場でこれを言えるのは、二種類の人間だけです。一つは、相手を完全に舐めている無礼な人間。もう一つは、相手を完全に信頼している対等な人間。


殿下がやったのは後者です。


その直前に「コルハットの件はあなたの責任ではなかった」と言って、シャルロフの緊張を解きほぐしていました。傷に触れながら、責任を正しく相手方に帰属させた。シャルロフが「この人は正当に評価してくれている」と感じた瞬間を作ってから、直球で聞いた。


信頼を一瞬で作って、その信頼の上に乗っかって本音を引き出す。


シャルロフが「率直に申し上げます」と言った瞬間、勝負は決まっていたと思います。向こうが腹を割って話す気になった。あとは殿下が全部知っている内容が出てくるだけです。



五手目。三者利益構造と友好通商条約。


ここが今日の白眉はくびです。


シャルロフが「外交局が軍事派を抑えたい」という本音を明かした瞬間、殿下はすでに答えを持っていた。婚姻は成立しない。でも、外交局の目的は別の方法で達成できる。


「友好通商条約の締結です」


軍事的中立を前提にした条約。ドレツァが緩衝地帯になる。


これの何がすごいかというと、三者全員に利益がある構造になっていることです。


ガルディア外交局にとっては、軍事手段を使わずに外交成果を出せる。軍事派ドルドフへの牽制になる。


ヴァルテ連合にとっては、ドレツァがガルディアの手先にならないことが保証される。南方からの工作を一つ封じられる。


ドレツァにとっては、どの強国も手を出せない立場が作れる。属国化を防げる。


三者が得をする条約は守られる。一者が損をする条約は破られる。


この原則を殿下は十年分の歴史書から学んでいた。そして今日、その場で応用した。



最後の一手。持ち帰り意思の確認。


「シャルロフ殿は、この提案を本国に持ち帰る価値があると判断しますか」


これが地味に一番したたかです。


シャルロフに「価値がある」と言わせることで、事実上の合意意思が生まれます。正式な条約合意ではない。でも、使節が「価値がある」と発言した記録が残る。本国に帰ってから「やっぱりあの提案には価値がなかった」と言うには、相応の説明が必要になる。


撤回のコストを上げることで、前進の可能性を担保する。


外交の場でこれをさらっとやれるのは、相当な使い手です。



さて。


まとめましょうか。


今日の会談で殿下がやったことは、大きく分けて六つです。


一、婚姻打診を手続き論で無力化する。

二、枯渇戦術を先制情報開示で逆転させる。

三、段階的逓減料率と相互依存条項で双方利益の経済構造を提案する。

四、コルハット帰属によってシャルロフの信頼を獲得し本音を引き出す。

五、三者利益構造の友好通商条約で全員が得をする着地点を作る。

六、持ち帰り意思の確認で合意の既成事実を作る。


全部、震えながらやりました。


声が揺れていた。手が震えていた。でも、止まらなかった。



私はこの仕事を何千年もやっています。


いろんな場所で、いろんな交渉を見てきました。大陸を動かした会談も、歴史の分岐点になった場面も、いくつか見ています。


その上で言いますが。


今日の殿下は、本物でした。


十八歳、初陣、全身震えながら。


それでも使節の「鏡の使節」を、最初から最後まで自分のペースで動かした。


シャルロフが言っていましたね。「本物の外交官になられると思います。いや、もうなっておられる」と。


あの人に言わせるのは、なかなかです。十二年間勝ち続けてきた人間が、初めて相手を対等の交渉相手として見た瞬間の言葉です。


私は廊下でそれを聞いて、少し泣きそうになりました。


……まあ、泣きませんでしたけどね。何千年も生きてると、涙腺がちょっと鈍くなるんですよ。これはこれで不便なんですが。



あと一つだけ。


今日の会談が成立したのは、殿下の知識だけが理由じゃありません。


クオン・レンが前日に情報屋を使ってシャルロフの背景を調べていた。ドルドフ将軍の動向を把握していた。殿下の分析がずれていないかを裏から確認していた。


殿下には言わなかった。先入観を入れたくないから。でも、舞台を整えていた。


そういう仕事を、あの人はずっとやっています。泥臭く、地味に、殿下が知らないところで。


秘書、と本人は言っていました。


……まあ、そうですね。でも私は、もう少し別の言葉で呼びたい気もします。それはまた、いつか。



次の「天才の手札」は、また殿下が何かをやらかした後に。


それではまた。


トワでした。

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