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引きこもり天才姫は俺にしか懐かない〜存在しない者が、一人の姫の一生を見届ける〜  作者: アルコール吸引マシン5号
第一部「天才、解き放たれる」

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第二十八話 震えながら無双

会談の前日、俺は城を出た。


一人で。イリナには言わずに。


南門から出て、城下の酒場街に入る。石畳の路地が細く入り組んでいる地区だ。昼間でも薄暗い。乾いた土の匂いと、肉を焼く煙が混ざっている。


目的地は一つ。「熊の爪亭」という酒場の奥の部屋だ。


ドレツァに来てから三ヶ月、俺はこういう仕事を何度かやっていた。イリナは知らない。知る必要もない。


扉を叩くと、すぐに開いた。


「クオンさん、いらっしゃい」


中にいたのは三人だ。一人は情報屋のマルク。もう一人は元ガルディア商会の帳簿係だったという男。三人目は——顔に古い刀傷のある、元衛兵だ。


「集まってくれた」


「ええ、まあ」とマルクが肩をすくめた。「報酬がいいので」


椅子を引いて座る。三人も座る。


「ゼーヴ・シャルロフについて、追加で確認したいことがある」


「先日お伝えした分以外に、ですか」


「個人的な部分だ。家族構成、借金の有無、弱点になりそうなもの」


マルクが少し顔を歪めた。


「……それ、使うんですか」


「使わない。でも、知っておく必要がある」


「どういうことです」


「相手の弱点を握っていれば、交渉が決裂したときの選択肢が増える。実際に使う気はないが、オプションとして持っておく。それが俺の仕事だ」


マルクが俺を見た。


「……クオンさんって、本当は怖い人ですね」


「お前が思うよりは普通だ」


「どうだか」


マルクが懐から紙を取り出した。細かい字で何かが書いてある。


「シャルロフ家は三代前から外交畑です。長男がいますが、現在病気で療養中。妻は本国に。帝都の屋敷に小さな借金がありますが、返済中で深刻ではない。賭け事もやらない。女も特に……まあ、綺麗好きで真面目な人ですよ。弱点らしい弱点は少ない」


「政治的な負債は」


「それが少しあります。三年前のコルハット交渉、あれは条約が成立しましたが、その後コルハット側が条項の一つを履行しなかった。シャルロフさんはそれを見通せなかったとして、帝国内で批判を受けた。今回の使節派遣は、いわば汚名返上の機会でもある」


「つまり、成果を持ち帰ることへの切迫感がある」


「かなり、あると思います」


俺は少し考えた。


これは使える情報だ。ただし、使い方を間違えると交渉が壊れる。「お前には切迫感がある」と相手に悟らせてはいけない。ただ、こちらが最終的に「引き受ける」ポジションを取れば、相手は喜んで乗ってくる。


「もう一つ聞く」


「はい」


「ドルドフ将軍の現在の動向を知っているか」


マルクが眉を上げた。


「ガルディア北方軍管区の、ですか。それはまた突っ込んだ話ですね」


「知っているか」


「……三週間前に、ヴァルテ連合との国境付近で演習を行っています。規模は中規模ですが、通常の演習より長期化している。外交局はかなり焦っているはずです」


「わかった」


俺は立ち上がった。


マルクが小さく声をかけてきた。


「……クオンさん」


「なんだ」


「殿下は、本当に出てくるんですか。明日の会談に」


「出る」


「……大丈夫ですか」


俺は少し間を置いた。


「大丈夫だ」


「根拠は」


「99%だ」


マルクが首を傾げた。意味はわからないだろう。


「……そうですか。まあ、クオンさんがそう言うなら」


報酬を置いて、俺は酒場を出た。


石畳を踏みながら、頭の中で情報を整理する。


ゼーヴ・シャルロフ。汚名返上の機会を狙っている男。軍事派のドルドフが圧力をかけているタイミングで来た外交官。この状況で失敗すれば、帝国内での立場がなくなる。


弱点を使う気はない。


ただ、知っておく。


イリナの舞台を整えることが、俺の仕事だ。



城に戻ると、廊下にトワが立っていた。


「クオンさん、どこ行ってたんですか。殿下がそわそわしてましたよ」


「少し用事があった」


「……何の用事ですか」


「明日のための準備だ」


トワが少し目を細めた。


「……聞いていいですか」


「お前が知る必要はない」


「そうですか」


トワが少し間を置いた。


「……クオンさん」


「なんだ」


「汚い仕事もやるんですね」


俺は何も言わなかった。


「……まあ、そういう人でないと、殿下は動かせないと思います。きれいな人間だけじゃ、あの殿下には足りない」


トワが軽い調子で言って、廊下を歩いていった。


俺はイリナの部屋に向かった。



「……レン、どこ行ってたの」


扉の隙間から声がした。声のトーンが少し高い。


「城下に用事があった」


「……何の用事」


「明日のための根回しだ」


「……どんな」


「お前が知る必要はない」


「……えっ」


「知識は全部お前の頭の中にある。俺がやったことは、その知識が最大限に発揮できる条件を作っただけだ」


「……どういう意味」


「相手がどういう状況にいるかを把握した。それだけだ」


扉の向こうで、しばらく沈黙があった。


「……ゼーヴ・シャルロフについて?」


「ああ」


「……どんな情報を」


「明日の会談が終わってから話す。今日は知らないままでいろ」


「……なんで」


「先入観が入ると、分析が歪む。お前が積み上げてきた読みを、俺の情報で上書きする必要はない。お前の方が本質を見ている可能性が高い」


長い沈黙。


「……それって」とイリナが言った。「わたしを信頼してる、ってこと?」


「そうだ」


また沈黙。今度は少し違う質感だ。


「……そっか」


扉の向こうで、かすかに本をめくる音がした。


「……レン」


「なんだ」


「明日さ、ゼーヴ・シャルロフって人、どんな顔してると思う」


「どういう意味だ」


「……会ったことないから。想像してた。過去の交渉記録から読むと、几帳面で自制心が強い。でも、コルハットの件で一度つまずいてる。慎重なわりに、追い詰められると強引になる。その二面性がある気がして」


俺は少し考えた。


「……マルクが言っていたことと一致する」


「……マルクって誰」


「情報屋だ」


「……やっぱりそういうことしてたんだ」


「してた」


「……怖い人だね、レンって」


「そうか」


「……ちょっと安心した」


「なぜ」


「……わたしの隣にそういう人がいると思うと、なんか、心強い」


俺は何も言わなかった。


窓の外で、夜風が木を揺らしている。


頭の中に、静かに数字が浮かんだ。


イリナの成功率:99%


変わらない。



翌朝、扉の前に座ると、すぐに声がした。


「レン」


「なんだ」


「……今日だね」


「ああ」


「……会談、何時から?」


「午後二時だ。今は朝の八時だから、あと六時間ある」


「……六時間」


扉の向こうで、かすかに気配が動いた。


「……長いような、短いような」


「どちらとも言える」


「……レンは、緊張しないの」


「する」


「……してるの?」


「お前が会談に出るんだ。俺が緊張しない理由がない」


少しの間があった。


「……なんか、それ聞いて少し楽になった」


「そうか」


「……一人で緊張してるんじゃないんだって思って」


頭の中に数字が浮かぶ。


イリナの恐怖値:71%

成功率:99%


恐怖値はある。でも、成功率は変わっていない。



午前中、イリナは本を読んでいた。


いつもの本とは違う。薄い冊子だ。扉の隙間から差し出してきたとき、表紙を見ると交渉の実例集だった。


「これ、もう一度読んでおきたくて」


「わかった」


二人で別々に同じ本を読む時間が続いた。


「……ここの部分」とイリナが言った。「ゼーヴ・シャルロフ、過去に似た交渉をやってる。五年前のレーデン国との会談」


「どんな内容だ」


「相手の弱点を最初から把握した上で、あえて別の話題から入る。相手を安心させてから本題に引き込む。罠みたいな手口。本人はたぶん得意技だと思ってる」


「今回も同じ手を使うと思うか」


「……使うと思う。今回も、最初は婚姻の話から入ってくる。でも本題は属国化の圧力。そっちに誘導しようとしてくる」


「対策は」


「……婚姻の話には乗らない。でも完全に拒絶もしない。『そちらの殿下ご本人より直接お気持ちを伺う機会をいただきたい』と言って時間を稼ぐ。第二王子が直接来る可能性はほぼゼロ。その間にこちらから交易路の話を出す。ガルディアにとっても利がある話だから、向こうも聞かざるを得ない」


「完璧だ」


「……でも、震えてたら台無し」


「震えても言葉は出る」


「……本当に?」


「出る」


扉の向こうで、小さく息を吸う音がした。


少しの間があって、イリナが言った。


「……ねえ、レン。シャルロフって今回、追い詰められてると思う?」


俺は少し考えた。


「なぜそう思う」


「……三年前のコルハット交渉、あれは条約自体は成立してる。でも、その後コルハット側が条項を履行しなかった。シャルロフの責任じゃないのに、帝国内で批判を受けた。……今回、失敗したら立場がなくなる。そういう人だと思う」


昨日マルクが言っていた内容と、ほぼ一致している。


「……やっぱり根回ししてたんだ」


イリナが気づいていた。


「してた」


「……わたしの読みと同じだった?」


「ほぼ一致していた」


扉の向こうで、少しだけ笑う気配がした。


「……わたしの分析、合ってたんだ」


「最初から合っていた」


「……じゃあ、今日はその前提で動く」


「ああ」


「……追い詰められてる人間を、さらに追い詰めても意味がない。逃げ道を作ってあげる方がいい。向こうが成果を持ち帰れる形で終わらせる。それがこちらにとっても得だから」


「正しい」


「……わかってる」


短く、静かに。


その声に、いつもと少し違うものが混じっていた。


確信、というやつだ。



昼過ぎ、トワが廊下に来た。


「クオンさん、会談室の準備ができました。殿下のご用意はいかがですか」


「もうすぐだ」


「国王陛下も同席されます。貴族の方々も数人。シャルロフ殿はすでに到着して待機中です」


「わかった」


トワが少し俺の顔を見た。


「……どうですか」


「99%だ」


「……そうですか」


トワが小さく息をついた。いつもの軽い口調が、今日は少し影を潜めている。


「クオンさん」


「なんだ」


「殿下が、ここまで来るのに」


「ああ」


「……長かったですね」


俺は何も言わなかった。


長かった、という言葉の意味が、トワにとって何百年分かのものを含んでいることは、なんとなくわかった。


「行ってきます」とトワが軽く言って、廊下を歩いていった。



午後一時半。


扉の前に座ると、中から声がした。


「……レン、入ってきていい」


俺は少し間を置いた。


「いいのか」


「……一人でいるのが怖くなってきた」


扉を開けると、イリナが部屋の真ん中に立っていた。


長衣が今日は違う。白ではなく、淡い青だ。城の侍女が用意したのだろう。銀がかった金髪が、灯りを受けて輝いている。


ぷるぷると、肩が揺れていた。


頭の中に数字が浮かぶ。


イリナの恐怖値:83%

成功率:99%


恐怖値が上がっている。でも、成功率は変わらない。


「……震えてる」


「見えてる」


「……99%でも、震えてる」


「震えても、99%は変わらない」


イリナが俺を見た。


「……なんで、そんなに確信してるの」


「お前が十年かけて積み上げたものは、震えで消えない」


イリナの目に、じわりと何かが滲んだ。


でも、こぼれなかった。


唇をきゅっと結んで、こらえた。


「……一緒に来てくれる?」


「ああ」


「……扉の前まで」


「扉の前まで行く」


部屋を出た。廊下を歩く。イリナの隣を、俺は歩いた。


廊下を進むたびに、すれ違う使用人たちが足を止めた。イリナに視線が集まる。


びくっ、とイリナの肩が動いた。


でも、足は止まらなかった。


「……見られてる」


「見られてる」


「……震えてる?」


「震えてる」


「……止まってない」


「止まってない」


イリナが少し俯いた。歩きながら、足元を見ている。


会談室の扉が、廊下の奥に見えてきた。


重い木の扉。両脇に衛兵が立っている。扉の前に、トワと国王の侍従が待っていた。


「……レン」


「なんだ」


「……怖い」


「わかってる」


「……手、繋いでいい?」


「いい」


イリナの手が、俺の手を掴んだ。冷たい。震えている。


扉の前に着いた。


俺はイリナの手を、ゆっくりと離した。


「……行ける?」


「行ける」


「成功率は」


「……聞かなくてもわかる。99%でしょ」


「ああ」


「……99%なんだから、やる」


それだけ言って、イリナは扉に手をかけた。


少しだけ振り返った。


「……終わったら迎えに来て」


「行く」


扉が、ゆっくりと開いた。


イリナが一歩、踏み出した。


扉が閉まった。



廊下に静寂が戻った。


俺は扉の前に立ったまま、動かなかった。


頭の中に数字が浮かぶ。


イリナの恐怖値:89%

成功率:99%


変わらない。


扉の向こうから、かすかに声が聞こえた。


「……イリナ・ソーニャ・ドレツァ殿下のご入室を歓迎いたします」


ゼーヴ・シャルロフの声だ。腹の底から出る、鍛え上げられた外交官の声だ。


俺は目を閉じた。



扉の向こうで何が始まっているか、見えない。


見えないが、わかる。


あの部屋にいる人間のことを、イリナはすでに全部知っている。


ゼーヴ・シャルロフ。ガルディア帝国東方外交局次長、通称「鏡の使節」。過去十二年間で成立させた条約は十七件。全件においてガルディア側が利益を得ている。


交渉手口の特徴は三点。第一に、相手の要求を最初に全て聞き出してから一つずつ潰す「枯渇戦術こかつせんじゅつ」。相手に自分の手札を全部見せさせてから、優先順位の低いものから順番に削っていく。相手が気づいたときには、本当に欲しいものだけが残されて、それもじわじわと削られていく。


第二に、感情的な話題を意図的に混ぜて相手の判断力を鈍らせる「感情汚染かんじょうおせん」。婚姻の話や国の誇りに関わる話題を出して、相手の前頭前野から扁桃体へ判断の主座を移す。感情で動いている人間は、数字と条項の精度が落ちる。


第三に、最終局面で「いやあ、では譲歩しましょう」と見せかけた偽妥協を出す「偽妥協クロージング《ぎだきょうくろーじんぐ》」。小さな譲歩を大きく見せて、相手に「勝った」という感覚を与えて署名させる。実際には核心部分は一切譲っていない。


三年前のコルハットで失敗したのは、この手口の第三段階で相手が予想外の動きをしたからだ。それ以来、シャルロフは序盤の情報収集をより慎重にやるようになったはずだ。


昨日の夜、イリナが扉越しに言っていた内容が頭に蘇る。


「……同じ手を知ってる相手には意味がない。こっちは全部読んでる」


「枯渇戦術には、こちらから先に要求を出す。向こうの主導権を最初から奪う。感情汚染には、感情が動いても判断を切り離す。偽妥協クロージングには、妥協を受け取った瞬間に別の問題を出す」


完璧だった。


問題は、体が震えていることだ。


でも、俺はもうそれを心配していない。


「……失礼ながら、殿下」


扉越しに声が聞こえてくる。


「ガルディア帝国第二王子殿下は、かねてより殿下のお噂を耳にされておりまして。この機会に、殿下のご意向をお伺いできればと存じます」


婚姻の話から入ってきた。


予想通りだ。



「……第二王子殿下のお気持ちは、誠にありがたく存じます」


声がした。


小さい声だった。でも、はっきりと聞こえた。


「ただ、婚姻は両家の意志だけでなく、そちらの殿下ご本人のお気持ちを直接確認する必要がございます。第二王子殿下より直接お気持ちを伺う機会をいただけますでしょうか。シャルロフ殿には、その場をお取り計らいいただきたく」


俺は目を閉じた。


完璧だ。


婚姻を拒絶せず、第二王子本人の意志確認という正当な手続きを挟んで時間を稼ぐ。第二王子が実際に出向いてくる可能性はほぼゼロ。遠隔での意思確認には時間がかかる。その間に話題を変える。感情汚染の入り口を、正当な手続き論で塞いだ。


「はあ、もちろんでございます」とシャルロフの声。「ただ、殿下。実は本日は別件でもご相談がございまして」


来た。本題への誘導だ。


「……別件、ですか」


「はい。ガルディアとドレツァの間には、現在いくつかの通商上の課題がございます。特に、南回り交易路の扱いについて、双方に不満が生じていると聞き及んでおりまして」


南回り交易路。ダーガ峠を経由する商隊ルートのことだ。ガルディアの主要輸出品である穀物と染料がドレツァを経由して南方諸国へ流れる。ドレツァは中継手数料を徴収しているが、ガルディアはその料率が高すぎると主張している。


「実はですね、この交易路の問題を解決するにあたり、ドレツァとガルディアの関係をより密接にすることが双方の利益になると考えておりまして——」


「シャルロフ殿」


イリナの声が、静かにシャルロフの言葉を遮った。



廊下で俺は息を止めた。


「……南回り交易路の中継手数料についてですが、現行の料率は条約四十二条第三項に基づくものです。制定は五十三年前。当時のドレツァ・ガルディア間の物価指数を基準にしています」


「は、はあ……」


シャルロフの声に、一瞬のよどみが生まれた。


こちらから踏み込んできた。想定していなかったのだろう。


「現在の物価指数との乖離かいりは約二・三倍。ガルディアの不満は理解できます。ただし、手数料率の引き下げには、ドレツァ側の財政補填が必要になります。具体的には、南部三州の農業振興補助金の削減か、貴族課税の引き上げが必要です。どちらも国内合意に一年以上かかります」


「……おっしゃる通りで、ございますが」


「ガルディアとしても、交易路の安定は重要なはずです」とイリナが続ける。「現在、北回りルートはコルハットとの関係悪化により機能不全です。東回りルートは山岳整備が未完了。南回りルートの喪失は、ガルディアの南方物流に致命的な影響を与えます。この路線の維持はガルディアの国益でもある」


「……それはその通りで」


「であれば、手数料率の一律改定ではなく、物流量に応じた段階的逓減料率だんかいてきていげんりょうりつの導入を提案します。年間取扱量が基準値を超えた分については実効税率が下がる仕組みです。ガルディアが輸送量を拡大するほど、実質的な負担が軽減される。これはガルディアの物流拡大戦略とも整合します」


シャルロフが何も言わない。


資料をめくる音が聞こえた。


「……加えて」


イリナの声に、かすかに何かが混じった。震えだ。声が微妙に揺れている。でも、止まらない。


「現在のドレツァ南部は、ガルディア製農機具の輸入に依存しています。小麦収穫機と脱穀機が主要品目です。この依存構造を相互利益の形に組み替える。農機具の優先供給と交易路安定の確保を連動させた相互依存条項そうごいそんじょうこうを条約に組み込む。ガルディアにとっては新規市場の安定確保。ドレツァにとっては食糧安全保障の強化です。双方に利があります」


俺は扉に手を置いた。


冷たい木の感触。


頭の中に数字が浮かぶ。


イリナの恐怖値:87%

成功率:99%


恐怖値が下がっている。


話すほどに、イリナの体が落ち着いていく。知識が体を安定させている。


これは知っていたことだ。人間が恐怖を感じるとき、扁桃体が活性化して前頭前野の活動が低下する。判断力が落ちる。これは正常な反応だ。ただし、この反応は「知識そのもの」を消さない。運動記憶が恐怖で消えないように、深く刻まれた知識体系は恐怖では消えない。


イリナが十年かけて積み上げたものは、扁桃体の反応より深い場所にある。


「……殿下は、非常に詳しくいらっしゃる」


シャルロフの声に、はじめて本物の驚きが滲んだ。


「十年分、読みましたので」


短く、端的に。


「……なるほど」


長い沈黙があった。その沈黙の重さが、廊下にいる俺にも伝わってくる。


シャルロフが組み立て直している。最初のシナリオが崩された。枯渇戦術を使うつもりが、相手の方が先に情報を全部出してきた。主導権が逆転している。


でもイリナはもう待たない。



「シャルロフ殿」


「はい」


「……ガルディアが本当に求めているのは何ですか」


「は、」


「交易路の手数料改定ならば、条約改定の申請を正式に外交文書で提出すれば済む話です。それをせずに使節を直接送ってきた理由がある。婚姻打診を前置きにした理由もある。本当の要件を聞かせてください」


直球だ。


俺は思わず笑いそうになった。


「……殿下、それは」


「時間を無駄にしたくないのです」


声に、わずかに芯が入った。


「シャルロフ殿は有能な外交官です。過去の交渉記録を見れば、その能力は明らかです。コルハットの件については、殿下の判断が誤っていたのではなく、相手方の信義の問題だったと思っています。有能な人間が時間を使うときには、必ず理由がある。その理由を聞いています」


コルハットの話を出した。


これは計算だ。シャルロフの傷に触れながら、責任を相手方に帰属させることで、シャルロフの緊張を解きほぐしている。


俺には聞こえる。


頭の中に数字が浮かぶ。


シャルロフの動揺値:68%

緊張緩和:54%

再評価中:91%


……91%。相手は今、完全にシナリオを組み直している。



「……率直に申し上げます」


シャルロフの声が、少し変わった。外交的な丁寧さの下に、別の何かが見える声になった。


「ガルディアは現在、北方のヴァルテ連合との緊張状態にあります。軍事的な衝突は避けたい。しかし、内部の強硬派が圧力をかけている。このままでは、帝国内の軍事派が主導権を握る可能性がある」


「……知っています」


「知っていらっしゃいますか」


「ヴァルテ連合との国境紛争は、昨年から三件。うち二件はガルディア側の越境行為が起因です。強硬派の筆頭はガルディア北方軍管区司令官のドルドフ将軍。彼の背後には軍需産業の利権がある。戦争を起こすことで利益を得る集団が存在する。三週間前から国境付近で長期演習を行っています」


シャルロフが、何も言わない。


「ガルディア外交局が今最も恐れているのは、軍事派が外交の主導権を奪うことです。そのためには、外交的な成果が必要。ドレツァとの関係改善を成果として示すことで、軍事派を抑え込みたい」


「……」


「だから婚姻打診が前置きになる。軍事的な圧力よりも外交的な関係強化を選んだという証拠が必要です。第二王子との婚姻が成立すれば、外交局は軍事派に対して証明できる」


「……殿下は」


「ただし」とイリナが遮る。「婚姻は成立しません。わたしはドレツァ王家の第一王女です。婚姻相手は第一王位継承権を持つ者でなければ、国内の貴族合議で承認されません。ガルディア第二王子では条件を満たせない。これはドレツァの国内法の問題ですから、わたしの意志とは無関係です」


「それは……」


「でも」とイリナが言った。「外交局の目的は、別の方法で達成できます」


シャルロフが息を吸う音がした。


「……申し上げてみてください」


「友好通商条約の締結です」


俺は扉から手を離した。



「ドレツァとガルディアの間に、軍事的中立を前提とした友好通商条約を結ぶ。ドレツァは周辺国からの軍事介入を受けない中立国として機能する。ガルディア外交局は、軍事的手段を一切使わずに南方の周辺国との関係を安定させたという成果を手に入れることができます」


「しかし、ドレツァが中立を宣言するということは——」


「ヴァルテ連合もガルディアも、ドレツァを緩衝地帯かんしょうちたいとして認識するということです。どちらも手を出せなくなる。ドレツァにとっては安全保障の確保。ガルディア外交局にとっては軍事派ドルドフへの有効な牽制材料。ヴァルテ連合にとっては、ガルディアの南方工作の一つが封じられること」


「……三者それぞれに利がある、と」


「利益構造を三者で共有することが、条約の最も強固な担保になります。一方だけが損をする条約は破られます。三者が得をする条約は守られる」


「……」


「加えて、先ほど提案した段階的逓減料率と相互依存条項を組み込んだ経済条項を添付することで、ガルディアは軍事面でも経済面でも具体的な成果を本国に持ち帰ることができます。外交局が強硬派に対して示せる数字と文書が揃います」


シャルロフが長い息をついた。


廊下にいる俺にも、その息遣いが届く。


「……殿下、一つ確認させてください」


「どうぞ」


「この提案は、殿下個人のお考えですか。それとも、国王陛下のご意向ですか」


イリナが少し間を置いた。


「……今この瞬間は、わたしの考えです」


「陛下の承認を得られますか」


「得ます」


「その確信の根拠を伺えますか」


「ドレツァにとって、これ以上良い条件はないからです。軍事力のない小国が生き残る方法は二つ。強国に従うか、どの強国も手を出せない立場を作るか。前者は属国化を意味します。後者は今日この交渉で作ることができる」


シャルロフが、少し沈黙した。


「……殿下は」と静かに言った。「恐ろしいほど、よく見えていらっしゃる」


「十年間、それしかしていませんでした」


短く、静かに。


「……一つ、申し上げても」とシャルロフの声が続く。


「どうぞ」


「中立条約の締結は、帝国内の承認プロセスを経る必要があります。私の権限では即決できません。本国への報告と皇帝陛下のご裁可が必要です」


「わかっています」


「では、本日の会談の結論としては」


「シャルロフ殿は、この提案を本国に持ち帰る価値があると判断しますか」


沈黙。


それは本質を突いた問いだ。外交使節に「持ち帰る価値がある」と言わせれば、事実上の合意意思が生まれる。正式な合意ではないが、否定もできなくなる。発言の記録が残り、帰国後に覆すには相応の説明が必要になる。


「……価値がある、と判断します」


「ありがとうございます」


あっさりしていた。


でも、その短い言葉の中に、何かが決まった感触があった。



扉が開いた。


国王と貴族たちが先に出てきた。全員が、何かに圧倒されたような顔をしている。財務統括のバルタンが、俺を見てから目を逸らした。


続いてシャルロフが出てきた。初老の男だ。背筋の伸びた、鍛え上げられた体。深い皺が刻まれた顔に、十二年間ガルディアのために戦ってきた歴史が滲んでいる。


俺と目が合った。


一瞬、シャルロフが止まった。


「……クオン・レン殿ですか」


「そうだ」


「殿下の指導を」


「俺は何もしていない。イリナが十年かけてやったことだ」


シャルロフが少し目を細めた。


それから、静かに言った。


「……殿下は、本物の外交官になられると思います。いや、もうなっておられる」


「ああ」


「……クオン殿は、殿下の何ですか」


俺は少し考えた。


「秘書のようなものだ」


シャルロフが、少し驚いた顔をした。それから、ゆっくりと頷いた。


「……良い秘書をお持ちですね」


それだけ言って、シャルロフは廊下を歩いていった。


付き添いの護衛が後に続く。廊下に静寂が戻る。


俺は扉の前に立った。


まだ、イリナは出てこない。



一分が過ぎた。


二分が過ぎた。


扉がゆっくりと開いた。


イリナが出てきた。


淡い青の長衣。銀がかった金髪が乱れていない。顔は、整ったままだ。


でも、全身が小刻みに震えていた。


ぷるぷる、ぷるぷる。


手が震えている。肩が震えている。足も震えている。


「……レン」


「ここにいる」


「……終わった」


「ああ」


「……わたし、ちゃんとできた?」


頭の中に数字が浮かぶ。


イリナの成功率:——


数字が出ない。


計測が終わった。もう測る必要がないから。


「できた」と俺は言った。


「……本当に?」


「使節に本国への持ち帰り意思を確認させて、認めさせた。友好通商条約の原型を今日の席で作った。三者利益構造の論理で相手を動かした。本物の仕事だ」


イリナが俺を見た。


目に、じわっと何かが滲んできた。


こらえている。唇をきゅっと結んで、必死にこらえている。


「……怖かった」


「わかってる」


「……震えてた」


「見えてた」


「……でも、止まらなかった」


「止まらなかった」


「……レンが、外にいてくれるって思ったら」


声が、少し割れた。


「……なんか、やれた気がした」


俺は何も言わなかった。


言葉を探したが、見つからなかった。


代わりに手を差し出した。


イリナが、冷たく震える手でそれを掴んだ。


「……帰ろう」


「ああ」


廊下を歩き始めた。


イリナの手は、まだ震えていた。


でも、歩き方が今日は少し違った。


自分の足で、前を向いて、歩いていた。



廊下の途中で、トワが待っていた。


いつもの軽い顔が、今日は少し違う。目に何かが光っている。


「……殿下」


「……な、なに」


「いやあ」とトワが言った。「いやあ、もう」


「……なに」


「えーと、どういえばいいですかね」とトワが頭を掻いた。「すごかったです、もう。廊下でこっそり聞いてたんですけど」


「……聞いてたの?」


「少しだけ。段階的逓減料率から相互依存条項、それを三者利益構造の理論で包んで友好通商条約に着地させる流れ、お見事でした。シャルロフ殿の顔が変わった瞬間、廊下にいてもわかりました。あの人、帝国で一、二を争う外交官なんですが、完全に殿下のペースで終わりましたよ」


イリナの耳が赤くなった。


「……別に、普通のことを言っただけ」


「普通じゃないですよ」


「……読んでたことを言っただけ」


「読んでたことを、あの場で、震えながら、全部出せたんですよ。それが」


トワが少し口をつぐんだ。


「……すごいんです」


イリナがまた俯いた。


「……でも」とイリナが小さく言った。「レンが外にいてくれなかったら、できなかったと思う」


「そうですかね」


「……うん」


「私は」とトワが言った。「殿下が最初の一言を出した瞬間に、もう決まったと思いましたよ。クオンさんがいようといまいと」


「……そう?」


「そうです。あの場の主導権を取ったのは殿下です。クオンさんじゃない」


イリナがまた俯いた。でも今度は違う俯き方だ。うれしいときの俯き方だ。


「……そっか」と、最終的にイリナが言った。


とても小さな声だった。自分だけに言い聞かせるような声だった。


「……そっか」



部屋に戻る廊下で、イリナが俺の袖をぎゅっと掴んだ。


手はまだ震えていた。


でも、掴む力は強かった。


頭の中に、数字が一つだけ浮かんだ。


イリナの信頼値:最高値


計測限界を超えている。数字ではなく、ただそれだけが表示されている。


「……ねえ、レン」


「なんだ」


「……わたし、次もできると思う?」


「できる」


「……根拠は」


「今日できたから」


「……それが根拠なの」


「一番信頼できる根拠だ」


イリナが少し考えた。


「……なんか、レンって」


「なんだ」


「……いつもそういうこと言う」


「そういうことしか言えない」


「……うん」とイリナが言った。「……それで、いい」


袖を掴む手が、少しだけ強くなった。


廊下の窓から、西に傾いた陽が差し込んでいる。


淡い青の長衣が、光の中で揺れていた。



その夜。


俺は廊下に座って、扉の向こうのイリナの気配を確認していた。


明かりはまだついている。本を読んでいるのだろう。


しばらくして、扉の隙間から声がした。


「……レン」


「なんだ」


「……ガルディアが本当に条約に合意するとしたら、どういう条項が必要だと思う」


「お前が考えてどうする」


「……暇だから」


俺は少し考えた。


「中立の定義を明確にすることが最優先だ。中立といっても範囲がある。軍事的中立なのか、政治的中立なのか、経済的中立なのか。それぞれ違う条項が必要になる」


「……軍事的中立だけで十分だと思う」


「なぜ」


「……政治的中立は維持できない。ドレツァの国内派閥がガルディア寄りとヴァルテ寄りに分かれてるから。無理に政治的中立を条約に入れると、国内の分裂が条約違反の形を取るようになる。経済的中立は貿易を止めることになるから論外。軍事的中立だけを明確にして、あとは実態に合わせる」


「正しい」


「……あとね」


「なんだ」


「……今日のシャルロフ、最後の顔が少し柔らかくなってた。最初は完全に外交官の顔してたのに、後半は違った」


「気づいていたのか」


「……うん。なんか、同業者みたいな顔になってた」


同業者。なるほど、そういう見方か。


「……ちょっとうれしかった」


「そうか」


「……お互い、やりたいことは一緒なんだなって思って。シャルロフもほんとは戦争したくないんだよね。軍事派と戦ってるんだよ、あの人も」


「交渉の本質はそこだ」


「……知ってる。でも、知ってることと、それを感じることは違う。今日、初めてちゃんと感じた」


扉の向こうで、ぱたぱたと本のページをめくる音がした。


「……レン」


「なんだ」


「……今日、ありがとう」


「俺は何もしていない」


「……外にいてくれた」


「ああ」


「……昨日、根回ししてくれてた」


「それは仕事だ」


「……汚い仕事もしてくれてた」


「それも仕事だ」


「……全部ひっくるめて」とイリナが言った。「……一番、助かった」


俺は何も言わなかった。


扉の向こうで、また本のページをめくる音がした。


頭の中に、静かに数字が浮かんだ。


イリナの成功率:——


やはり、もう数字は出ない。


出る必要がなくなった。


今日、イリナは扉を開けて自分で歩いた。知識を全部使った。震えながら、それでも止まらなかった。


数字で測るものは、もうない。


廊下の窓の外で、夜の風が木の葉を揺らしている。


明かりは、まだついていた。

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